ハリソン君の素晴らしいブログZ

新旧の刑事ドラマを中心に素晴らしい作品をご紹介する、実に素晴らしいブログです。

「あとは見守るだけ。」

2025-01-28 22:00:08 | 日記

想定よりも早く迫られた「延命治療を続行するか否か」の決断で後者を選んでから、丸1週間が経ちました。

あの次の日は公休日で、けっこう罪悪感に打ちひしがれてツラい1日を過ごしたのに、そのまた次の日の仕事帰りに様子を見に行ったら、母の容態がむしろ向上してて驚きました。

点滴を抜いたらみるみる栄養値が下がり、1週間ぐらいでお別れになるんだろうと覚悟してたもんで、看護師さんから「今日のお昼ごはんは全食してくれましたよ」って聞いて、よしもと新喜劇ばりにズッコケました(心の中で)。

母が食事を摂らないって聞いたから決断したのに、話が違うやん! 逝きたいのか生きたいのか、一体どっちやねん!?

まぁしかし、絶対に本音を言ってくれないウチの母らしいスカシです。こっちが身構えてるのを察して「意地でも死んでやるもんか」って思ってるのかも?

それならそれでいい。母自身が納得するまで、あるいは天寿とやらを全うするまで、生きてくれれば。私はもう、自分に出来ることは全てやり尽くしたから、あとは最後まで見守るだけ。



ところで、相変わらずメールの1つもよこさない兄には、全てが終わってから事後報告でいいやと最近まで思ってたけど、さすがにそれじゃ後味が悪すぎるかと考え直し、母が今こういう状態にある事と、看取りと葬儀は自分1人に任せて欲しい旨をメールで伝えたら、快諾の返事を貰えました。

これまで私が全部1人でやって来たんだから、最後の締めも1人でやらせて欲しい。兄に伝えたその理由は偽らざる本音だけど、来てもらいたくない理由が他にもあることを、旧くからの読者さんなら察して頂けるかと思います。

もうちょっと前の私なら、迷わず事後報告にしたかも知れません。いろんな葛藤を乗り越えてここまで来て、また少し私は大人になった。頭髪は大量に無くしたけど、代わりに得たものも大きい。それはきっと、残りの人生の糧になりましょう。

とにかく母は頑張って生きてます。その年齢(91)まで頑張る自信は私には無いけど、「使命は果たした」なんて言い訳して人生を放棄するのはまだまだ早いなと、今は思ってます。

そもそも死ぬこと以上に怖いことなんか、この世に無い。どんな生きものだって生きるために生まれて来たんだから。

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「今のうちに悪口を書く。」

2025-01-23 20:50:11 | 日記

今日、仕事帰りに母の病室を訪ねたら、意外と穏やかな顔で寝てて、ちょっと救われました。

が、目覚めて私の顔を見た途端に怪訝な……というか、まさに「鬱陶しい」顔つきに。本当に私のことが心底キライなんだなと、切なくもあり可笑しくもあり。

先週、感謝の気持ちを伝えたら微笑んでくれた、あの一幕は(認知症ゆえ)母の記憶にはありません。以降も会うたびに私は「ありがとう」を言ってるけど、ちゃんと反応してくれたのはあの時だけ。基本、ウチの母は息子を信じてない。



母は昔から、私に限らず人の欠点しか見ない人でした。だから褒められた記憶はいっさい無いし、私も兄も幼い頃から「◯◯さんちの子はあんなに優秀なのに、あんたらは……」みたいな愚痴と叱咤ばかり聞かされて育ちました。

きっと母自身も、そんな親に育てられたんだろうと思います。私にもその血は受け継がれてますから、わざわざ他人や自分の欠点を探さないよう意識はしてるけど、疲れて余裕が無くなると出ちゃいます。

こんな歳になって自分の悪癖を親のせいにするのは無様ゆえ、これまで書かないようにして来たけど、もはやカッコつける必要も無い。なにせ鬼ですから。

こんな私が、そんな母親の終末期を1人で必死に支えて来た。褒めてやれるのは自分だけ。鬼にしちゃ、よくやったよハリソン君。まだ終わってないけれど。

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「鬼になったハリソン君。」

2025-01-22 15:15:16 | 日記

前回の記事で触れた“伏線”とは、「人間が90歳とか100歳まで生き延びることがそもそも不自然」っていう部分。

それともう1つの伏線として、母の容態が少し良くなったことを施設のナース長に報告したとき、「せやけどこっちに戻ってもまた食べへんかったら同じことの繰り返しやで」「そのときはアンタが治療を続けるかどうか決めるんやで」と、まるで突き放すような口調で言われた一幕がありました。

私は「胃瘻(胃に穴を開けてチューブで栄養を送る)までの延命治療はしないで下さいって、入所の段階でケアマネージャーに言いました」とハッキリ答えたのに、それでもナース長が「あれやこれやもアンタが決めるんやで」「今から考えとかなあかんで」としつこく言って来るもんだから、私はついカッとなり「だから胃瘻してまで無理やり生かせるような治療はしないで下さいって最初から言ってますっ!!💢」なんて大声を上げてしまった。

ただでさえ、母親の命に関わる選択をこれまで何度も強いられてヘトヘトなのに、なんで同僚が、しかもナース長が患者の家族に対して、さらに追い詰めるようなことをしつこく言ってくるのか、ワケが分からなかった。

このまえ母を救急搬送するかしないかの決断を迫られたとき、葛藤する私に「家族としてやれることは全部やったと満足したいなら病院やで」って、背中を押したのもそのナース長なんですよ?



けど、いま思えば、救急搬送のときナース長は「搬送してもたぶん助からない」と見立てたんだろうし、それが治療で好転したと報告する私の呑気な様を見て「喜んでる場合じゃない」「またすぐに厳しい選択を迫られる」「その覚悟があるのか?」って、アドバイスをくれたんでしょう。

そして昨日、仕事中に主治医から電話がかかって来たワケです。ウチのナース長が言った通りの内容でした。

「栄養値は良くなり、施設に戻ることも不可能じゃありません。が、食事摂取の拒否はまったく変わっておらず、点滴治療を止めればまた栄養値が下がり、同じことの繰り返しになります」

つまり、点滴治療をこのまま続けるか否かの“決断”をして欲しいと。やめれば母は再び栄養を失い、老衰が進んで遅からず死を迎えるのは目に見えてます。

胃瘻については断固反対するつもりだったけど、点滴の段階での決断は想定外で、またもや私は苦悩しました。



そこで、さらなる伏線。ウソみたいな本当の話。こないだ居間の押入れから出てきた、曽野綾子さんのエッセイ本『夫の後始末』に、こんな記述があったんです。

「まだ中年の頃、私は尊敬する老医師から、人間の最期に臨んでやってはいけないことを三つ教えられたことがあった。

◯点滴ないしは胃瘻によって延命すること。

◯気管切開すること。

◯酸素吸入。

若い人が事故で重体に陥ったような場合は、もちろんあらゆる手段を使って、生命維持を試み、それを回復に繋げるべきだが、老人がいつまでも点滴で生き続けられるものではない。また気管切開をすると最期に肉親と一言二言をするという貴重な機会まで奪うことになるから絶対に止めた方がいい、と私は教えられたのだ。」

さらに「24時間、点滴を続けているような過剰な輸液は、体の細胞を溺死体のようにする。痰は増えるし、苦しませるだけだ。」という一文に、母はボールペンで波線を打っていた!

もちろん母自身は憶えてないだろうけど、この本をついこないだ私が発見し、思わず読み耽ってしまったという事実、このタイミングに、運命を感じないワケにはいきません。

曽野さんにそういう話をされた老医師の意見が正しいか否かは別として、私の外にいる神様と、中にいる神(悪魔?)の意見が一致しました。

「点滴治療の中止に同意します。」



主治医のお話によると、それを選択する家族はかなり稀で、大抵は「1日でも長く生きて欲しいから」ってことで治療続行を望むそうです。

そんな家族の思いを否定するつもりは毛頭無いし、それはそれで勇気の要る決断だとも思う。闘いの日々がまだまだ続くことを意味するんだから。

どっちを選んだところで苦しいし、罪悪感は必ず残る。ならば私は、鬼になります。母だけじゃなく、私自身にも1人で闘うだけのスタミナが、もう尽きようとしてる。

実際、先週から立ちくらみや蕁麻疹という症状が出てきて、こないだ初めて「過労」を理由に有休をもらったけど、その日だって(自宅からだとけっこう遠い)病院まで母の着替えを届けたりして、しっかりした休養は取れてない。

私はまだしばらく、健康でいないといけない。そういう意味でも闘いの日々はもう終わらせたい。薄情と思われようが、鬼と罵られようが、迷いはありません。

罪悪感は、自分が(兄と断絶し、親戚付き合いもして来なかった自業自得も含め)死ぬまで背負います。その覚悟が無ければ、ひとりで親の介護なんて務まらない。そう思います。



神様、仏様、そしてお父さん。どうかお母さんが苦しまずに、穏やかに逝けますように、どうかどうかお願いします!

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「重大な決断への伏線。」

2025-01-21 19:59:39 | 日記

曽野綾子氏の著によるエッセイ『夫の後始末』を読んでて自分の無知を恥じた、現実の話。それは、例えばアフリカには「後期高齢者の介護」という概念自体が存在しないこと。(余程の富裕層は別として)

なぜなら、そんな年齢まで達する前にみんな死んじゃうから。救急車を使う費用が異様に高く設定されており、その場で全額支払えなければ患者が苦痛でのたうち回ってようが救急車は見捨てて帰っちゃうそうです。

救急車なんてまだ存在しない時代や、未開地の話なら人の寿命が短いのも想像つくけど、現代のそれなりに進歩した地域でもそんな事情があるとは知りませんでした。

けど、人間本来の寿命はそんなもんで、90歳とか100歳まで生き延びる事こそが不自然。いまNHKで放映されてる手塚治虫原作のアニメ『火の鳥』もまさにそれ(人が不老不死を求める愚かさ)がテーマですよね。



私は母の穏やかな最期、つまり出来るだけ苦しまず、眠るように息を引き取る理想的な死を心から願ってるし、そのために頑張って来たつもりだけど、それこそが「マンガみたい!」と言われても仕方ないほど、現実は甘くない。救急搬送されたときの母の苦悶する姿を見て、つくづく思い知りました。

けれど曽野綾子さんがおっしゃる通り、それも神に与えられた運命だと受け止めれば(見守る側としては)まだ気がラクです。

正解なんて無いんですよね。神を信仰するしないに関係なく、死ぬときは苦しむのが当たり前と覚悟すべし。見送る家族も、延命処置を選ぼうが治療中止を選ぼうが、どっちにしたって罪悪感からは逃れられない。

だから親の介護は、恵まれた国に生まれた我々が持つ特権であると同時に、とてつもない試練でもあるんです。


PS. 今回の記事は何日も前に書いたもので、実はボツにするつもりでした。が、今日、私が下した重大な決断へと繫がる伏線に(結果的に)なったので、載せておきます。

今日、私がどんな決断をしたかについては、明日書くつもりです。

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「悔いを残さない為に。」

2025-01-15 21:30:08 | 日記

仕事帰りに母の見舞い、というよりは看護師さんに経過を尋ねる為、面会終了時間ギリギリに滑り込み。容態は僅かながら良くなったらしく、母の寝顔も先日より穏やかに見えました。

しかし何せ「鬱陶しい」と思われてるから、起こさずに洗濯物だけ持ち帰ろうとしたとき、母が目を覚ましたので「しんどい思いさせてゴメンな」と声をかけてみました。

そしたら「あんたも、無理せんときや」って、穏やかな表情で言うもんだから涙腺決壊。

「まだ死ぬワケちゃうけど、今のうちに言うとくわ」と前置きした上で、産んでくれたこと、育ててくれたこと、毎日家事をしてくれたこと、中学〜高校時代には弁当を作ってくれたこと等に対する「ありがとう」をしっかりと言葉で伝えました。死ぬ間際に言っても伝わらなきゃ意味ないから。

すると母は眼をつむったまま、少し鼻をすすってた。たぶん伝わったんだと思います。最後はちゃんとこっちを見て微笑んでくれました。

病室を出てから帰路につき、家に着くまで涙が止まりませんでした。お互い憎しみもありつつ、やっぱり母と子。これで本当に悔いはありません。



ところが悔いが無くなった途端、私自身もこれ以上生きてもしょうがないなって、困ったことにまた考え始めてます。

それは今の仕事があまりにしんど過ぎるせいもあり、まあ転職という選択肢はあるにせよ、またゼロから何かを始める気力もない。そうまでして生き続ける理由がホント見当たらない。

もちろん使命を果たした後のことだけど、ボチボチ考えなきゃと思ってます。自分が倒れて動けなくなってからじゃ、それこそ悔いしか残りませんから。

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