歌川広重 東海道五十三次(桑名宿)
日中 34度を越す毎日を過ごしている。
外出する時 歩数計を二回も忘れて損した気分を味わった。
やっと赤坂宿から6番目の桑名宿に到着。日本橋からは384キロを歩いたことになる。
桑名宿
桑名宿(くわなじゅく)は東海道42番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は三重県桑名市。
脇往還佐屋街道もここから分岐していた。
徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。
江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている[1]。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
宮宿とは七里の渡しで結ばれていて、伊勢国および、伊勢参りの玄関口になっていた。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、市街地は西にシフトした。
話し言葉(方言)において木曽三川が東京式アクセントと京阪式アクセント(関西式アクセント)の境界であることから[2]、桑名宿は東海道における京阪式アクセント地区最東端の宿場町となっている。 (ウィキペディアより)
日中 34度を越す毎日を過ごしている。
外出する時 歩数計を二回も忘れて損した気分を味わった。
やっと赤坂宿から6番目の桑名宿に到着。日本橋からは384キロを歩いたことになる。
桑名宿
桑名宿(くわなじゅく)は東海道42番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在は三重県桑名市。
脇往還佐屋街道もここから分岐していた。
徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。
江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている[1]。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
宮宿とは七里の渡しで結ばれていて、伊勢国および、伊勢参りの玄関口になっていた。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、市街地は西にシフトした。
話し言葉(方言)において木曽三川が東京式アクセントと京阪式アクセント(関西式アクセント)の境界であることから[2]、桑名宿は東海道における京阪式アクセント地区最東端の宿場町となっている。 (ウィキペディアより)