予想以上だった台風11号の大雨、幸いにも4年前の台風12号のような大きな被害がなくホッとした。でも、JRは運行休止、高速道路は通行止め、国道は数カ所で通行止めとなり交通網がマヒした。その影響で、昨日は迂回路となった我が家の前の田舎の交差点が車で大渋滞。今朝、高速道路が通行止め解除、国道も片側通行できるようになり、やっと、いつもどおりに家から車の出入りができるようになった。
今日は、地元で7.18大水害と呼んでいる祥月命日の日。昭和28年の今日、有田川流域で何カ所もの堤防決壊と土砂崩れで死者・行方不明が約500人の大災害が発生した。小学校にも入っていなかった幼少の頃なのに、いくつかの光景が今も脳裏に焼きついている。
水が押し寄せたのは朝食中だった。幼い自分には堤防が決壊したなんて思いもしない。父母達が縁台に畳を載せていたが間に合わず全員で2階にあがった記憶が残っている。
我が家は2階で大人の腰近くまで水が押し寄せたため、兄・姉・母・祖父母たちは机や家具などを積み、その上に乗っていた。なぜか、私だけは父におんぶされて屋根にあがっていた光景を思い出す。何年か後、聞いた話。父はその時のことを「いつ、家が流されるかも知れない。その時、近くの家に泳いでいくつもりでおんぶしていた」とのこと。父は、最悪の場合、幼かった私を背負って泳ぐつもりだったらしい。
我が家で飼っていた牛が、濁流の中、「モーモー」と鳴きながら屋根にあがろうと必死にもがいていた。その時の牛の助けてと訴えているような表情と鳴き声、力尽きて流されていった光景が今も忘れられない。
近隣の家が流され、大人2人が家の屋根にまたがり竹竿をもち濁流に流されていった光景も鮮明に覚えている。確か悲鳴も聞こえた記憶がある。後で聞いた話では、運よく、鉄橋に飛びついて助かったという。多くが橋げたにぶつかり濁流に巻き込まれた中、幸いだった。
水がひき、家から出ようとしたら玄関が材木などで埋まっていた。背負われ、2階の窓から屋根を伝って降りたが、避難場所へ行くのに濁流が残っていた。自衛隊の方が船とロープを使ってその濁流を渡してくれたのも、はっきりと覚えている。それが、水害発生の何日後だったのかは、よく覚えていない。
我が地区住民で犠牲者がでなかったとはいえ、上流から流されてきた方が力尽きて濁流にのまれた人もおられたと聞く。今も地区には慰霊碑がまつられている。有田タイムスが発行した災害後の写真集、見るたびにいろんな思いが交錯してしまう。
毎年、7.18になると、なぜかタイムスリップしてしまう。