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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

親父と故郷

2019-07-07 09:43:44 | よもやま話

絵のタイトルは、「帰ろかな」です。


タイトルは、「真道山より黒神島を見下ろす」です。
いずれもふるさとです。


親父ががまだ元気だったころ、の集まりがあった。
あるときは、激論を交わし、またの時はお酒も入り大騒ぎをしていた。
私達、子どもはのぞき見をしながら周りで遊んでいた。
そしていつものように、親父たちは早朝から夜遅くまで働いていた。

ふと、私は遠くこの地に来て何をしているんだろうと考える。
親父たちが残した山も畑も元の山野に帰ってしまった。
ここで草刈をし、畑を作っている。
親父たちの畑は、草に埋もれてしまい猪が跋扈する土地になってしまった。

ブログのタイトル、「故郷へ恩返し」は出来ないでいる。
故郷が、日本に世界に変わったとて、何か後ろめたさと寂しさがある。
空き家の草を刈り、伸び放題の梅の木を伐る。
なんでそこまでやるの。
家業(カフェ)に優先することでもない。
今の状況で、故郷にいれば同じようなことをしたに違いない。

そうだろうか。

きっとやってはいまい。
金を稼ぐことを優先していることだろう。
これまでと同じ生活をしているだろう。
ここに来たから、こうして毎日考えているからできることだろう。
地縁血縁がない、期待されない「移住の自由」があったからこそ、できるのではないか。
故郷には、薄くなったけれど地縁血縁がある。
こんなに、自由にはならなかったであろう。

親父には申し訳ないが、遠く離れたこの地だから、故郷を想うことができる。
ここを故郷と思えるだろうか。
今となっては、45年前に出た故郷よりこの地に友人が多い。
いつまでも、遠く広島の人、いつかはいなくなる人であってはならないだろう。

空き家の再生の一番の近道は、住むことである。
住めば、片づけ傷んだ個所を治すものである。
周りの草を刈り、庭木の剪定をし、山の低木を刈り、陽を遮る高木を伐る。
そんな風にして、住み心地のよいものに変えていく。
こんなものではなかったと、通りを掃き他人の空き家の草を刈る。

故郷を想うことと現実の暮らしは、遠く離れている。
親父の親父、またその祖先はどこから来たのだろう。
私の今の気持ちと同じではないだろうか。
産まれたところが故郷だと人は言う。
私は、住んでいるところが故郷なのではないかと思うようになってきた。
この先のことはわからない。
故あって、ここに住んでいる。

できないことが故郷へ恩返しであり、できることが知らない土地の草刈である。
個人的には、矛盾はなにもない。
故郷を想うと、矛盾だらけである。
中学生にこの気持ちを伝えられるだろうか。
故郷にいなくたって、故郷へ恩返しはできると自信をもって言えるだろうか。

親父は、故郷へ恩返しなんぞ望んではいなかった。
私が立派な大人になることだけを望んでいたはずである。

子の気持ち 伝えるまでに 半世紀

2019年7月7日
コメント
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