夢は、ふとしたことから蘇る。
多くの方が、ブログを読んでくださっています。
このタイトルで行こうかなと考えます。
自分にとってやっかいなタイトルは、日伸ばしになることがあります。
それが今日のタイトル、「将来の夢」です。
夢を追いかけたような、暮らしに追われたようなこれまでです。
まだ固まりかける前の話、高校生の頃の夢は、「1000万円稼げる農業」でした。
何をするにしても、島では段々畑を行ったり来たりの農業でした。
農道がないころは、全部担いで上がり降りしていました。
段々畑を利用したミカン栽培を父は始めました。
灌漑用水と農薬用のパイプを畑まで、あぜ道を掘り埋めて延々と伸ばしました。
家の上にタンクを作り、余る沢水を引いて貯水した。
ミカン狩りをし、街まで行商して捌いていました。
時には、保険外交員をする母のお中元とお歳暮に使われました。
野菜にしろミカンにしろ、市場価格は直売価格の半分でした。
ほとんどの食品や肥料と農薬は、メーカー(売る者)が売価を決めていました。
第一次産業は、自然を相手に作ったり採ったりするものです。天候に左右される出来高です。
社会の仕組みが市場です。大量生産と大量消費のつなぎ役です。
消費者に近い場所で、天候に左右されないで栽培できる野菜や果物を作り、
消費者に直接売りたいと考えました。
ビルディングで作る農業をイメージしていました。ビルディングの一階に売り場を作る。
多層階で、水耕栽培をする。
段々畑の一番上で肉牛を自然の中で育て、糞尿を有機肥料にして、少し下の畑で消費する。
下の畑でできたものを家で加工する。加工したものを自社の店舗で売る。
あるいは、直接全国に配送する。
それを学びたいと、大学の工学部に入り阿蘇の牧場でアルバイトをしました。
父に夢を語り、継がしてほしいとお願いしました。
そんな夢みたいなことを追いかけるために、大学に行かせたのではないと断られました。
苦労して農業をやってきた。お前には、別の人生を歩いて欲しいと諭されました。
紙に画いた餅は食べられません。
夢を忘れ、大学で楽しいことばかりを追いかけてしまいました。
父が弱り、お前はまだ農業をやる気があるかと言われた。
食に関係する企業で自分を試したいと、志望は変わっていました。
米に関係する会社に入り、食品加工のメーカーに転職し、
エンジニアリング会社に転職し、食品加工工場のプロジェクトに関わってきました。
それがよかったのかどうかわかりません。
言えることは、高校時代の夢を追いかけていたら、きっと挫折している。
父と同じように、兼業農家になっていただろうと思います。
余りにも知らな過ぎた。今だから言えることです。
食や花の国際化も進み、安くて美味しいものを効率的な輸送手段と
新鮮さと安全を担保する物流手段が構築されている。
今は、知恵もつきリスクとリターンの予測が付くようになりました。
では、改めて夢を追いかけるかと問われたならば、やってみたい。
今は、暮らしの中で農業をやっています。
人々は、何を求めているか。
安全・安心の食材供給を農業に求めているだけではない。
緑を保全する山との境にあるのが農業です。
暮らしがあっての農業です。
農業人が、自分で売価を決められる時代が来ました。
千代田区の真ん中で水耕栽培がおこなわれ、町中のビルディングの屋上に畑が現れています。
農業は、単なる食料生産だけではない。食を中心にして集まる機会になっています。
暮らしの中で、収穫を祝う祭りのようなものです。
島の耕作放棄地に地上絵を描いたって誰も何も言わない。
海上から地上絵を愛で、近くにより地上絵の一部の花を摘む。
癒しも作る農業です。
地方で採れる、新鮮な食材を一流のシェフ(あるいは、地元の料理自慢)が美味しいものに仕上げる。
都会に住む人が、しばしの休息と絶品の産物を目指して動く。
池のほとりで、軒に揺れる反射する水面が、爽やかな風と一緒に音楽を奏でる。
やっと、日本もそんな時代になった。
暮らしの中の農業を継承する人材が不足している。
ブラジルから日本に来て、農業の虜になって永住される方もいます。
人財は、世界中から集まる。
「将来の夢」は、紙に画きながら少しずつ実現している。
スローライフの中に夢を見ている。
赤とんぼ 昔からそこに いたような
2020年2月6日