絵のタイトルは、「興味津々、まさに無邪気」です。
子供は、こうでなくちゃ。
6年半かけて、1800の記事を書いた。
自分なりに、持てる力とユーモアを注いできた。
このままではと、記事一つずつをワードに転載しファイルを作った。
バカヤローと言うくらい、書いている。
今日のタイトルは、「自分が種を蒔く」です。
小説家の先生は、作曲家は生涯をかけて数千、数万と書き上げる。
だから、私の記事数は大したことはない。
蒔いた種を残したい。いずれ本にしようと考えている。
読まれることは、念頭にない。とにかく種なのである。
田舎暮らしと都会の暮らしの違いを論じてみよう。
田舎暮らしは、「自分が種を蒔く」ことを許されている。
都会の暮らしは、誰かが種を蒔き、順繰りに役割に応じて収穫をする。
田舎暮らしは、自己完結型と言ってもよい。
役割に携わる人数が違うからである。
ことさらに、違いと面白味について書くつもりはない。
仮に、「自分が種を蒔く」と、刈り取り迄責任を持たなければならない。
種をたくさん蒔いて、間引きをする。
収穫のサイクルは、数年だったり数週間だったりする。
種が苗になり、苗が成長し実をつける。田舎ではこの経過を見ることができる。
併せて責任も付いて回る。畝あげや草取りをするのも、種を蒔いた人の責任である。
分業などはない。
私は、都会でも田舎でもブログを書いてきた。
単なる興味本位から、自らの挑戦に変化してきた。
都会で書いていた頃は、自分の身の周りのことについて書くことが多かった。
田舎では、遠くを見る癖がつき、視野と考えが広がった。
普遍的なことへの挑戦が多くなった。
子供へお父さんはこんな奴で、このように生きて来た。
都会で暮らしているなら、それでもよかった。
ここでは、そうはいかない。
東京が風を引けば、田舎はくしゃみをする。
東京でコロナが収まらない。田舎の人は、じっと嵐を過ぎるのを待つ。
確かに、ここには、美術館、図書館、素敵なカフェも便利な交通機関もない。
物資も乏しい。
しかし、子供への目配りは都会とは段違いである。
我が子以上に他人の子供の心配をする。笑わせ、時には叱る。
種が実るのを感じられる。子孫と祖先を感じることに置き換えてもよい。
だから、「自分が種を蒔く」責任を取らざるを得ない。
地方創成の人材として、大企業でも活躍できる本物の人が求められている。
誰かが役割を果たさなければならないとしたら、
地縁血縁(しがらみ)のない人物のほうが、外野の噂を気にせず仕事ができるだろう。
問題は、引き継ぎである。素晴らしい種を蒔いても、収穫のサイクルは長いのである。
私の種は、吹けば飛ぶような代物である。
現実、種を蒔き続けている。実ろうが、雑草に負けようが、それは努力であり、運命である。
6年の軌跡を視ながら、続けようと再確認をした。
種を蒔く 我田だけにと 人は言う
2020年10月19日