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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

先輩に乾杯

2014-12-28 05:11:43 | 思い出話

もうすぐ、川崎に向け出発の時間です。
妻が昨日、広島から帰って来ました。
たくさんの土産話に少し夜更かししました。

川崎のあと、蒲田に向かいます。
先輩夫婦を乗せて、奥多摩の澤ノ井まで行きます。
そこで友人と合流です。帰りに我が家に寄って酒盛りの段取りです。
先輩のところに、先輩の友人様から殻つきの牡蠣が届きました。
先輩は、その牡蠣を持参されると電話がありました。
私は、翌日七輪を買いに行きました。
昨日は、朝5時ごろから市場に行き、ホタテ、氷下魚と下仁田葱を買いました。
バーベキューです。

先輩や友人と中野で月に1-2回飲んでいます。
前回は、杉並に住む友人宅の永年の間に要らなくなってたまったものの
片づけについて作戦会議でした。先輩の工場の隣にある廃棄物処理会社に
持ち込む作戦です。

妻に、川崎に行く準備を早くするようせっつかれています。
ブログは夜にしてください。と言われました。

Fさん、Hさんの思い出話を再度取り上げました。
私の勤め人としてのスタートは、この先輩方のいた会社でした。
温かい職場でした。その後、私は3社転職をしました。
私の社会人の原風景は、まぎれもなくこの会社でした。
私は、その後多くの先輩や友人に支えられて生きてくることができました。

先輩に乾杯。
ありがとうございました。

2014年12月28日
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Hさんのこと

2014-12-28 04:46:46 | 思い出話
温かさがしみます

S 様

日頃より大変お世話になっております。
私は、ひと段落し、次の作戦を考えております。
まず、これまでの営業活動をまとめなければならないでしょう。

今回はHさんのお話をすることにします。

Hさんは、Fさんと同じ主任です。芸術家です。
毎年、手がける年賀状の版画は絶品です。

普通、プラントを設計する場合、機能重視で建物をそれに合わせます。
Hさんの場合は、違います。外側から見た格好を重視されます。
不必要な片流れの屋根などにします。

外側の建物の見映えに合わせて機能を変更してしまいます。
信じられない、見積もりが高くなる配置に変更しています。
プラント設計家にあるまじき行為です。
Hさんも加わる朝の無駄話は今日も続いています。

私は、Hさんのことを「父っつあん」と呼んでいました。
宴会の幹事をやったことが、ありました。
飲み代が半分、破壊の修理費が半分という予算を組まなければなりません。
主犯格は常にHさんです。
帰りに、秋葉原当たりの焼鳥屋に、一緒によくいきました。
そこで食べた生の肝臓にあたって、会社にいくことも出来ず
3日3晩這うようにトイレに通いました。

帰る方向が逆(千葉方面)の電車に乗れとききません。
なんと、千葉近くの駅についたらきれいな奥さんが待っておられるではないですか。
同じ電車か一つか二つ前の電車に乗られたようです。
有名な服飾デザイナーでした。
酔っぱらったHさんの車は、縁石に上がったりして
命からがらHさんの家に着きました。
奥様は、平然としておられました。慣れとは怖い。

ある時、会社でソフトボール大会がありました。
1係と2係の対抗戦です。Kさんを男にしなければなりません。
私は4番で、スラッガーです。何度もホームランを打っています。
相手は警戒しています。相手ピッチャーはHさんです。
私の打席の時、Hさんが、チームメイトをあつめて指示を出しました。
チーム全員守備に戻りました。

ええっ外野が4人いるではないですか。ヒットならまだ良しの作戦。
動揺を隠せず、見逃し三振。とっつあんは大喜びです。悔しい。

次の打席、同じシフトを敷いてきました。
内角にくるのはわかっていたので、3塁側の観戦者に網の裏に
隠れるように促しました。思い切り3塁側に何度もファールをぶち込みました。
とっつあんは、内角攻めから一転外角をせめて来ました。待ってました。
4人の外野のうえをいく、右中間のフェンス越えです。
うれしかったこと。とっつあんの悔しがること。

そんなHさんには、本当にかわいがってもらいました。
いつも「こいつは、いいやつだ。」と会う人ごとに紹介していただけました。
お陰で、本当に仕事が やりやすくなりました。

S様、お世話になりっぱなしです。
近くにお越しの節は、ぜひ教えてください。いっぱいおごらせてください。

今後とも、よろしくご指導くださるようお願いいたします。

<<現在の感想>>
大学を出たての私は、毎朝続くHさんとFさんの無駄話にあきれていました。
連日の徹夜マージャンで、設計板の前で考えているふりをして、私もよく寝たものです。
この方たちから、人生は何たるかを学びました。
仕事に取り組む姿勢を特に学んだように思います。
HさんもFさんも、顧客に信頼され人気がありました。
二人とも余裕のよっちゃんでした。

40年近くが経ちました。
私はこの方たちのように、仕事を人生を楽しんだでしょうか。
後輩に慕われる人でいられたでしょうか。

雨に打たれた桜の落ち葉が張り付くアスファルトの駅までの道、
懐には何もないのに温かくなりました。

2014年11月28日

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Fさんのこと

2014-12-28 04:45:42 | 思い出話

 

111111

日は、Fさんのことでご連絡させていただきます。
私は、5年間国分寺より上野まで通いました。

部署は、プラント営業部でございます。同じフロアーには、海外営業部もあり良く比較されました。
昼休みなど、向こうは上品にトランプで遊んでおられます。こちらは、同じトランプでも「おりゃあ。」なんて声がでたりします。

私は、プラント設計課に所属しておりました。課長はWさん、何の取り柄もない人でした。
 係は三つありました。設計1,2係と業務係。全ての人がくせがある方ばかりでした。
本日はFさんの話しをさせていただきます。係長はKさんで北海道大出の男前。Fさんは主任です。葛飾区出身の江戸っ子。


8時半の朝礼が終わると、業務係のOちゃんが来て、早速おしゃべりが始まります。

Oちゃんは20歳くらいでだまってりゃ美人です。同じ葛飾区出身で下ネタも連発です。
隣のHさんも加わり、大きな声で無駄話に話しが盛り上がります。話につられて、周りがどっと沸きます。毎朝のことです。Fさんが、仕事を始めるのは、ほぼ一時間後です。

Fさんは、草加せんべい屋の娘の子供です。奥さんの名前は美奈子さん。ほとんどの人が、なぜか奥さんの名前を知っています。

Hさんが、「Fさん、美奈子と昨日もやったか。ガハハ」なんてやっています。
 新入社員の私は、下品で無能なこの連中と一緒に仕事をするのが嫌でした。

Fさんは、無類のヤクルトファンでした。応援団長の岡田さん(酒屋さん)とも親しいのです。

「Hさん、昨日も美奈子とやってたんだ。プロ野球ニュースが始まったんで、美奈子のあそこに栞をはさんで、見ちゃったよ。」

「Fさんお前ほんとに馬鹿だな。」回りはまたどっとわきます。W課長もつられて笑っています。

Oちゃんがきて、「Fさん、イヤーダ。」なんて言ってかえって行きます。


ある時、Fさんが私のところへ来て「O君、お願いだから、これを使ってくれる。」と電卓を出しました。私は、見積もりをしていました。どんな時でも筆算です。その日は、合計3億円位の見積書を作っていました。何度やっても合わないので、頭を抱えて悪戦苦闘していました。

Fさんが、「お願いだから使って。」と私に懇願します。仕方がないので使いました。

私は、図版に向かいトレーシングペーパーに図面を描いていました。図面は孔だらけです。鉛筆を強く押しすぎてしまうのです。Fさんが、やって来て「強くひいちゃ駄目だよ。」なんてセロテープで補修してくれます。青焼きでコピーすると所々、数字が見えません。セロテープの箇所です。


3時ごろになると、またFさんの机のまわりに数人が集まります。手に手にはさみを持って紙を切っています。Oちゃんもいます。同じ係のKちゃんも加わっています。ムーミンの「みー」みたいな顔をしています。Oちゃんの上司はH大でのIさん。エリートで、仕事も良くできます。独身。

Oちゃんのことが好きでたまりません。Oちゃんが何をやろうと治外法権です。


いつしか隣の一つ上の先輩も加わっています。紙吹雪が買い物袋に2つ溜まりました。

「O君、今日試合なんだけど一緒に行かない。」 

とんでもないこの給料泥棒がなんて思って、「今日は忙しいですから行けません。」一度も行ったことがないのに、毎回誘われます。


5時ごろ、Fさんは大勢の社員をひきつれてヤクルト観戦のため神宮球場に行きました。

もう一人の係長やまちゃんがHさんのところへ来て、牌をつまむしぐさをしています。痔のSちゃんと私は退社です。

今日も麻雀です。飲むか麻雀です。Fさん達が出かけて10分後です。
 

会社に入り、恵まれた環境で社会人としてスタートを切ることができました。仕事だけではない、会社はこんなに楽しいものだと教えていただきました。プラント設計課の忘年会は、飲み代より修理代のほうがかさむ幹事なかせでした。私がしっかりした観察眼をもっていたら多くの傑作をものにできたと思います。 

2014年 6月19日

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楽しいことは苦しい

2014-12-27 05:40:01 | 短編小説

早起きの皆さん、
さなさんを読んでくださりありがとうございました。
舞台は、私が二十歳まで過ごした能美島でした。
広島市宇品港から約18Kmの離島です。
今でこそこの島の魅力が理解できますが、
当時はコンプレックスの塊でした。
何か他にあるはずだと40年間走り続けて来ました。

私の今を育んでくれた「原風景」は、この島にありました。
この島で過ごした幼少年期を面白可笑しく書いているうちに
一つの小説になりました。
私小説でありながら、誰もが共感できる一般性を持たせようと
しました。一般性は、この島を出てからの体験に基づくものです。

主人公のさなさんと伊藤も、時代の波に洗われて力強く生きていきます。
どのように生きたかという足跡を追うような小説ではなく、
一生懸命生きるのは何故か、こういうことだったのかと振り返るような
物語が書けるようになりたいと思います。

「さなさん」を一生懸命書いていたのは、前の会社をリストラされて、
「さてこれからどうやって生きていこうか。」と模索していた時でした。
捨てる神あれば、拾う神ありです。
「生きる」ことは、楽しいことです。苦しいことでもあります。
皆さんの「こういうことだったのか」に気づき、拾えたら幸せです。
次回作をご期待ください。

2014年12月27日

「さなさん」作者
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さなさんー21

2014-12-26 05:54:22 | 短編小説

第二十一話 カラス

翌日、血清が桟橋に届きました。
さなはそれを受け取り、急いで坂道を
登って行くのでした。
途中さなは、血清の壜を落としそうになりました。

「優しかの君 ただ独り 発たせまつりし 旅の空。」
さなは、落としてしまいたいと一瞬思っている自分に驚きを隠せませんでした。
血清がなければ、自分が伊藤を看病できると考えたのでした。
医者が待っていました。血清は、伊藤に打たれました。
二日後、いつもの伊藤に戻りました。
光男をはじめ家族全員が喜びました。
女達は、いつもの笑顔を取り戻しました。

「よかったのお。猫のたまちゃんはいだらけ。」
光男も笑えない冗談を言いました。
光男が顔を上げると、兄貴を心配した忠が軒先に立っていました。
さなには、大きな疑問が残りました。おかめの刺青。
そのことは、家族には黙っていました。

夏の終わり、さなは補習のため家から県女に通いました。
坂道を駆け下りる姿は、白いリボンをしたカラスのようでした。
朝早くから農作業に出ている近所の人たちは、
さなが降りていく姿を見ながら、笑顔になり

「カラスが、はやっていくわい。」
と独り言を言うのでした。
さなは、落下傘のスカートが嫌いでした。
お尻が大きいせいだと思いこんでいました。
江田島湾に白い筋が流れていました。
紫色の古鷹山の向こうには、早くも入道雲が出ていました。
風はなく、くまぜみが鳴いていました。

 いつかよき日

伊藤と光男達島人が造ったこの要塞は、まったく無意味な構築物に
なったのでした。
戦艦大和を造った軍港呉をもち、陸軍の要衝の地でもあった広島は、
終戦の年まで一度も米軍の空爆を受けませんでした。
この要塞の重火器は、時折飛来してくる艦載機グラマンを一度だけ
墜ち落としました。
落下傘で能登呂山に降りた米軍兵を、光男たち島人は、
鎌と竹やりで捕虜にしたのでした。
すべての答えは、昭和20年8月6日に米軍機B29から落とされた
新型爆弾でした。米軍は、新型爆弾の被害状況を知るために
京都、長崎、広島をその候補として、最後まで空爆しなかったのです。


1章終わり。

2013年7月26日。初稿作。
2013年10月1日。故郷バージョンとして改訂。
2013年10月8日。故郷バージョン、会話挿入として改訂。
2013年10月17日。時系列を考慮し、校正。
2013年11月5日。1章の最終校正をし、仕上げとする。
2014年10月24日。友人のアドバイスもあり校正、改訂。

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