故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

軍艦利根

2014-12-10 05:35:59 | 故郷再生
 軍艦利根が沈没した海

自転車に乗って、陸続きの向かいの島の射撃練習場にこっそり入りました。
空薬きょうを拾ってきて磨くのでした。
油タンクが何基もある浜には、蓮根火薬がなぜかいっぱい落ちていました。
その蓮根火薬をアルミの鉛筆キャップに詰めて、
針金で編んだ台に乗せて、ろうそくの火であぶりました。
50mは飛ぶロケットになりました。
どちらに向かうか分からないのが悪ガキの興奮の種でした。
岬には、軍艦利根の大砲の弾が飾られていました。
終戦間際に湾内で撃沈されました。
島に見えるように木々で迷彩していたのですが、発見されたのでした。

子供の私は、台風の前日に湾内に避難してくる駆逐艦や潜水艦を
飽きずに眺めていました。
総数30艘の連合艦隊が江田島湾に集結しました。
もちろん戦後の話です。
信号もないド田舎の島の唯一の自慢は、世界中のどこにでも
つながっている海でした。

石船を作っていた造船所が鉄鋼船を作り始めてから斜陽になりました。
韓国勢に押され始めたのでした。フェリーや高速船の小口受注で
息を吹き返しました。まさに、ニッチ産業のおかげです。
前にも増してクレーンがにょきにょき伸びています。
呉と長崎で同時に造船された大和と武蔵の僚友鑑は、
どちらも戦闘に参加せずに沈没したのでした。
瀬戸内海の赤ふんどしの海賊の末裔である私達は、今もおとなしくしています。

何か再生の道はないのでしょうか。
私が見た連合艦隊は、幻だったのでしょうか。

2014年12月9日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠れ里、秘境

2014-12-10 04:46:55 | 思い出話
 一滴、一滴が喉を潤す
先輩とその友人と三人の珍道中でした。
後輩に、秋田のその場所を聞きました。
彼は、秘境と答えました。

やはり、先輩から安く買った石抜き機を車に積んでの旅です。
もう一つ、0.3mmの穴をエッチングで打ち抜いた0.3mmの板厚のステンレスの板です。
米粉を作る時に使います。

山の湧き水がとても美味しかった。
冬には3mを越える積雪です。畑に人の背丈もありそうなフキが生えていました。
素人向きに選んでくださった山菜取りの山は、息が切れました。
村には花が溢れていました。田んぼにはオタマジャクシがいっぱい泳いでいました。
どの家にも、湧き水が入る池がありました。冬に落とした雪を投げ入れるのです。
湧き水は、溝となり早い流れを作っていました。ここにも雪を入れるのでしょう。

秋田県発酵工業(オエノン)製の焼酎はほんのり甘く何杯でもいけました。
風景が肴になるなんて久しぶりの体験です。
梅雨時に採られた山菜は塩付けにされていました。指を入れてつけ汁をなめてみました。
苦味も適当で、塩味が良く効いていました。

山間の田んぼでとれたあきたこまちは、収量が平野ほどありません。
そのかわり、ぎゅっと詰まった濃厚な甘みがあります。
冷めても美味しいのは、先代のササニシキの良さを引き継いでいます。
ササニシキより少し大きめの粒です。毎日この米をいただいています。
山の水がしみ込んでいます。だから旨いのです。

雪が来たそうです。もう2回も雪下ろしをされたそうです。
この季節の雪は、雨雪で重いとのこと。仕事に行く前に雪下ろしをされるそうです。
お父さんのけつ(尻)は、とても立派でした。
60歳を過ぎた筋肉のつき方ではありませんでした。毎冬鍛えておられるのです。

珍道中は、新潟県のゴルフ場と山間の旅籠を経由して、東京に帰ってきました。
一部の高速道路は、まだ波打っていました。東日本大震災の影響です。
また行きたい隠れ里、秘境です。

2014年12月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする