故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

ものは優しく言おう

2014-12-04 21:57:48 | よもやま話
孫を中心に婿と息子です。

嫌なことがあると、つい大きな声になったり震えたりします。
まだ、修業が足らない証拠です。

気が落ち着くと、なんでも無いことです。
優しく話せるではないですか。穏やかに話すと伝わります。
緊急時は、それでは緊迫感がありません。

30年前のことだったでしょうか。
結婚したてだというのに2人の子持ちでした。
結婚が比較的遅かったので頑張ったのでしょう。
ある日、家に帰ったら玄関に荷物がありました。
かみさんに聞くと、実家に帰ろうとしたけど旅費がないからやめた。
と笑いながら話しました。かみさんを叩いたことがありませんでした。
子どもも叩いたこともありませんでした。
その代り、かみさんに叩かれたことはありました。
ゆんべの夫婦喧嘩が原因で帰ろうとしたようでした。
そんなことが、何度となくありました。そして同じ理由で止めたのでした。
本気なら帰れたはずだったと今は思います。帰らなかったんでしょう。

今は、穏やかなものの言い方になりました。時々昔のように大きな声がでます。
しかし、この頃は少し計算ずくです。わざとの場合が多いようです。
表情は熱く見えますが、頭は至ってクールです。
殴られたら、どうしようとは思いますが、それも仕方がないこと
一撃くらいは反撃してやろうと思います。

家族と離れて暮らしてみると、
両親はきっとこんな気持ちで長いこと待っていたんだろうな。
と思います。穏やかに話したかったなとも思います。
取り返せる過去などありません。今日と明日は自分の責任で生きていけるでしょう。

2014年12月4日

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同窓会の魔法

2014-12-04 04:34:15 | よもやま話
孫の誕生日を娘にメモさせられました。

たくさん生きていると、いろんなことがあるようです。

50歳を過ぎて、同窓会に出られるようになりました。
生活が苦しくて、故郷までの旅費を工面できなかったり、
友人たちの前に、出ていけない恥ずかしさもありました。

出席される方たちは、落ち着いておられます。
男の方は、社会で何らかの成功を納め、
女の方は、子育てを成し遂げひと段落という感じです。

出席してみると、なんのこともありませんでした。
すべて、私の危惧でした。
会う人の顔は、どれも経年変化をしておりました。
禿げ頭のほとんどの名前が思い出せません。
美人の誉れの高かった女性も、今や見る影もありません。
そんな私を発見して話し込む友人たちは、いつしかあの頃の「何々」ちゃんです。

皆が盛り上がって、長年出席しなかった私を次の幹事に指名しました。
3年後の5月末に予定しています。準備はこれからです。

同窓会の魔法はいろんな化学反応を起こします。触媒のようなものです。
中には、伴侶と死別したり生別されたりした方がいます。
そんな二人の出会いの場所でもあるのです。

しかし、かつての「何々」ちゃんではもはやないのです。
第二の人生とはまさにふさわしい言葉です。
決して優しいほんわかとしたものでもありません。
私もその一人として実感しています。
長い時は、空白ではありません。
また、時を埋めるようなことも到底できません。

幹事として出来ることは、連絡を密にしてたくさん出席して頂くことです。
4年に一回の同窓会が、続くことを願うばかりです。
これからの長い暮らしの中の、ほんの小さな出来事として思い出に残れば良いと思います。

同窓会の魔法は、かつての自分と出会う少ない手段の一つではないでしょうか。

2014年12月4日

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初めての現場

2014-12-04 04:11:38 | 思い出話
僕、危ないがな

さて35年前、私は長野県伊奈市の現場に研修で出されていました。
3ケ月の工事現場でした。毎日、不具合を直していました。
工場から送られてくる品物/機械の多くの物が設計ミス、打ち合わせミスのため、
現場で手直しでした。新入社員3人は毎日、人工として働いていました。

とびに、やくざ上がりのお兄さんがいました。刑務所を出てきたばかりという振れこみでした。
若い者たちは一目おいていました。近寄らないと言った方が正しかった。
広島から来た機械鳶の会社が機械の組み立てを担当していました。
見るからにがっちりした怖い人たちのグループの中にいました。

監督からそのやくざ上がりのお兄さんに指令が出ました。
お前が仕掛けたワイヤーを取ってこいと。
物を吊るために15m上のH鋼に巻き付けられていました。吊元です。
1m位のワイヤーです。そのお兄さんはいろんな理由をつけて一日延ばしにしていました。
落下防止の安全ネットは張ってありませんでした。
昼休みに新入社員の3人は、ワイヤーを見上げていました。
日が経つにつれてあのやくざ者、怖がって取りにいけないんだとわかってきました。

私は、柱を昇り、猿のようにH鋼を伝ってワイヤーの場所まで行きました。
安全帯は、梁が太くて回せませんでした。ワイヤーを取るには両手がかりでした。
両足でH鋼をはさみ、両手を使い、硬く食い込んだワイヤーをほどき、ついに下に投げることができました。
落ちたら、あんな音では済まないと思いました。
力が付きそうになりました。脚も、手の平も汗でびっしょりです。今にも滑り落ちそうです。
監督に見つかったら何が無くてもどやしつけられたでしょう。

慎重にH鋼を伝い、柱にたどり着いた時は、精も根も付き果てていました。
柱を伝い降りたのはいまや記憶にありません。

あくる日から、件のやくざのお兄さんは、私のことを「兄貴」と呼ぶようになりました。
夜には、よく飲ませてくれました。タダ酒です。
私がお願いすることなら、なんでもやってくれるようになりました。
監督も私を通じて指示を出すようになりました。

ある夏の日のことでした。

<<後日談>>
先輩の設計について、「なってない」と報告書に書いてしまったようです。
秋口に会社に帰りました。皆さんの雰囲気が何か違います。
遠巻きにして、「あいつだよ。」という感じです。

「あっ、やっぱりまずかったんだ。」と社会の掟のようなものを学びました。
先輩たちは、そんな無鉄砲な私をかわいがってくれました。
時には優しく、そして正直に厳しく接してくれました。
今でも、感謝の気持ちで温かくなります。

2014年12月4日
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