故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。
タイトルは、「憧れ一献」です。
自分が体験し、何かの実証をした物語を「プロジェクトエンジニアー」のカテゴリーに入れています。
これはどうかな。一人の想いだなという記事は、「よもやま話」に入れています。
これは、今日のタイトル「個性と横並び」に繋がることではないかと考えます。
一人の想いが個性ならば、その個性は時には迫害され、果ては「嘘つき」とまで称される。
生き残る会社(センチュリーカンパニー)は、元の老舗の看板から程遠い仕事が現業です。
売れなくなってからでは遅いから、売れるうちに次の挑戦をし続けて来たのです。
開発だけとは限らない。ニーズに応えるだけの力が内在していたからでしょう。
それが自由競争のはずなのに、忖度に根差した横並びを選択する。
危険を未然に防ごうとするのが忖度です。上に対する気づかいでしょうか。
上の考えなんて、今の権力を維持することしか頭にない。
そんな頭が、結果が見えない冒険をするわけがない。
平均点の答えばかりを模索する。
冒険を企画してもつぶされる。つぶされ続けて無関心になる。
それが世の中よと開き直る。個性が失われていく。
改めて個性とは、
(Individuality)個人に具わり、他の人とはちがう。その個人にしかない性格・性質。
個物または個体に特有な特徴ある性格。
(広辞苑より)
individualityとは、
個性、特性、人格
(好みなどでの)個人的特性
個であること、一個体(人)としての存在
(英和辞典より)
つまり、人間すべて異なる個性を持っている。
人間だけではない。自然そのものも個体である。
経営用語で「レッドオーシャンとブルーオーシャン」がある。
レッドオーシャンは、競争が激しくて血みどろの戦いを続けること。
ブルーオーシャンは、競争のない領域で唯一の存在として優位にことを運ぶこと。
世の中が求めているから、上がそう考えているのではないかと忖度することは、
レッドオーシャンと言えるのではないか。
私達は、知っているはずである。何度も経験したことである。
それなのに、自分は踏み出せないまま年を重ねてしまう。
「やってみなはれ」と何故言えぬ。
あんたが考えたことは、新しい世の中のためになるかもしれない。
所詮、横並びなんて不可能なのである。敢えて挑戦するのは、時代が解を出しているではないか。
コロナが教えてくれたはずである。
今まで通りにはいかない。三密こそ、世の中の仕組みであり発展の原動力であった。
それが覆されている。
「やってみなはれ」と待つことじゃない。
信じることをやりましょうよ。
できないと 泣きし幼子 寝返りを
2020年6月25日
50年ぶりに訪ねた恩師の奥様からいただいた寒あやめです。
タイトルは、「夫唱婦随」です。
婆様のネギ畑の端に菖蒲が植えてある。雨を受け見事に咲いている。
婆様のネギ畑は、私が移住して満4年間収穫されてはいない。越年のネギである。
婆様の息子の大工が、「ネギの盆栽」と言っている。
今日のタイトルは、「助けてやる」です。
平茸菌500株、栗茸菌250株を買っていた。打ち込み用のΦ8.5mm専用ドリルも買っていた。
一昨年切った桑の木(60cm径)の枝に植えようと計画していました。
菌の袋に書かれている説明書きには、少なくとも梅雨前には、木に打ち込むようにとあった。
長さ4mx径300mmの桑の木を軽トラックに積み込み、荷台で菌の打ち込み作業をした。
菌(径8mmx15mmの木片)を半分ずつ打ち込んだ。5cm間隔で木の全周に打った。
ドリルの音を聞いて、隣の婆様が観察に来た。腰を痛めんなよ。母ちゃんが泣くからなと注意された。
平茸菌が余ったので、1m(径30cm)の桑の木を2本、森から運ぼうとした。
その時、婆様が「助けてやる」と空の一輪車を押してきた。
一人じゃ可哀そうだ。遠慮なく一輪車を使わせていただいた。
婆様の畑と隣接する畑の草刈をしろと、付け加えることを忘れなかった。
それは、一昨日のこと。昨日の朝から、4時間かけて婆様に言われた畑の周囲の草刈をした。
ついでに、隣の畑のイチジク周りの草も刈った。刈れないまま、1mの高さになっていた。
つるを伸ばすかぼちゃの周りに、大量の草をマルチとして敷くことができた。
一輪車で運んだ桑の木には、蟻が巣作りをしていた。
木の皮を剥がして、残りの菌を打ち込んだ。
友人に菌を打ち込んだ桑の木は要らないか打診した。運べる木なら欲しいと言うので軽トラで運んだ。
友人は、種菌は木の皮と幹との間に増殖し、キノコを生やすと言う。
知らぬとは、恐ろしいことである。
蟻に唇を刺された。口回りが腫れあがり「あひる口」になった。
コーヒーでも飲んで行けと誘われたが、話すことができないのでと、断って帰ってきた。
一昨日と昨日の作業で、両二の腕の筋肉はパンパンである。
妻がゴルフをしたいという。迷っていたが、行くことにした。
電話に出たゴルフ場の支配人の声は、明らかに喜んでいた。
婆様を助けることはあっても、助けられることがあろうとは思いもしなかった。
一輪車に載せていたバケツを降ろして押してきた婆様の顔は、笑っていた。
日々大事 畑に出かけ 妻も来る
2020年6月24日
絵のタイトルは、「この人はいつもこうです」です。
補足説明は不要。
流れる川で釣りをしている。
釣れたと喜んだ。連れた場所を記憶しようと、船に印をつけた。
「時代遅れ」とは、そんなことでしょうか。
二十年前にある役をやった。後輩たちを指導して誰もが俺に従ってうまく行った。
困ったことがあったら何でも相談しろ、俺が口添えしてやる。
後輩さえ死んでいく。それは、「時代遅れ」でしょう。
でも、他に話すことがありますか。
生きてきた証と、昔の話をする。
何度も聞いた自慢話です。
じゃあ、年寄は黙っていろと言うの。
そうではありません。
「時代遅れ」が、生きることがある。
今でも槍で突いて、クジラをとる島民がいる。
命がけの漁である。獲れない日が続く。島民全員がひもじい想いをする。
獲れたら、皆に均等に獲物を分ける。漁に出ていない後方支援者にも均等に配る。
ある時、島民の一人が使い古しの銛(クジラ漁に使われた発射銃)を手に入れた。
クジラは面白いように獲れた。一人とそのグループが残った獲物を独り占めにした。
島は荒んでいった。その時から、突き漁に戻したと時代遅れは語った。
誰もが「時代遅れ」になります。
新しいこと(スマホを使いこなす)など、やめた方がよい。到底、若い者に追いつけない。
昔取った杵柄で良いじゃない。人間国宝とはいかぬまでもできることがある。
得意なこと(農業など)をやり続けられる人は救われる。
農業のリベンジは、一年後であり成果が出る迄数年はかかる。
若い者は、そんな風に悠長に生きてはいけない。
お袋の味が忘れられぬ。
お袋は、限られた旬の食材で手早く料理をして、ひもじい子供たちに食わせた。
美味しいと欲張る子に、お袋は自分のものまで分け与えた。
それしかなかった。料理本どおりに作ったって美味しいものには仕上がらない。
お袋だってそうだった。姑に泣くほど絞られて、アウェーで生き抜いた。
料理本にない野菜の切り方だって、いつしか覚え、美味しくなあれと振った塩梅が味を決めた。
汗をかいたときは、少し塩分を効かせた。この心遣いと臨機応変さがお袋の味なんです。
グルメ全盛、男だって台所に立つ時世です。だが、にわかシェフに負けないお袋の味です。
でも、こってり味を好む若いもんにとっては、野菜中心の時代遅れです。
生きざまは、時代遅れになりません。
どんな生きざまですか。
シャッター街の再生に、しわくちゃの眼光鋭い老人の写真を使った。
その顔には、物語が刻まれていた。
だから、シャッター街になったんじゃないと誰も言わない。
昔のようにとも言わない。
俺たちも頑張ろうと、若者が動く。
時代遅れは、ほくそ笑む。
これ美味い 老練シェフよ 舌を巻け
2020年6月23日
絵のタイトルは、「そばを作る人」です。
「精が出るね」と通りすがりの知り合いが声をかける。
誰も、「こんなところで作らなくても」とは思わない。
得意なこととは、人より少ない努力で人より優れた結果を残せること。
朝ドラ「エール」の一節です。
今日のタイトルは、「興味」です。
興味とは、物事にひきつけられること。おもしろいと感ずること。
心理学では、ある対象やできごとに特に関心を向ける傾向。
(広辞苑より)
畑で働くのが好きな妻です。
畑にいると、いろんな方が話しかけてこられます。
移住したばかりの頃、三人のお年寄りが毎朝話しかけてこられました。
地域のこと、野菜づくりのことでした。一人2時間近く話されていきました。
合計6時間で仕事にはなりませんでした。
そのうち自分たちの家庭事情や近所のこと、そして私たち自身のことが話題になりました。
一人30分になりました。合計1.5時間です。
見れば分かる。およそ私達の人となり、農業の腕前が分かったのでしょう。
今では、挨拶だけで通り過ぎます。仕事の手が止まることは無くなりました。
そして、挨拶する方が増えました。
名前は知らないが、時々見かける人も挨拶されます。
通りがかりの知り合いに、私たちが作った野菜をあげることも増えました。
新聞紙に包んで渡します。ありがとうとお礼を言われます。
好奇心から興味に変わってきたのでしょう。
都会の人から地域の人になったのでしょうか。
少ない努力で、伝わる仲間になったのだと思います。
カフェで売れ残りそうなものや自分たちが作って美味しいと思うものを、
「美味しいよ」とお客さんにプレゼントします。
しばらくして訪ねてくれ、「この間いただいたベーグル美味しかったよ」と話がはずみます。
レタスの植え替え時期には、地域中でレタスが出回ります。
我が家にも回ってきます。それも1個ではなく、10個です。
「もらってよ」と目が訴えていました。
お客さんに、「もらいもの」と言って、その日のうちに配ります。
過疎は、互いに興味があるうちは進まないように思います。
田舎で、互いが無関心になることはありえない。それが起こるのはなぜだろう。
大家さんの息子さんは、広い家に一人暮らしです。
コロナの影響で、職を失いました。
同じように派遣だったバングラディシュの方が、大家さんの家に引っ越してきました。
息子さんの大きな笑い声を初めて聞きました。
夜勤と昼勤の繰り返しをされていました。
疲れてなのか、興味がないのか畑も庭も手入れができないようでした。
私は、何も言わず大家さんの庭の草を刈り、木々の剪定をし、裏の耕作放棄地を耕していました。
ある日、隣地との境界に繁茂するしの竹を切る音がしました。
息子さんが、刈っていました。
こんなことがしたかったんだと思いました。できなかったのです。
地域の若者に「都会に行ってこい」と言って背中を押します。
いつでも帰ってこい。それまで俺らが守っている。
と若者を笑顔で送り出す隠岐の島の市長の話を思い出しました。
興味があれば、いつかやる。そしてできる。
それを待つのも楽しみです。
竹きりの 褒美に握り 惜しみなく
2020年6月20日
絵のタイトルは、「ひねもすのたりかな」です。
釣れてもそうでなくても時間は流れる。
妻が毛虫にやられた。赤い斑点にキンカンを塗る。
かゆみが治まって寝てくれた。
コーヒーに動物性ミルクと固形シュガーを入れてお湯を注ぎ、スプーンで程よく混ぜる。
飲みながら、タイトルを考える。出てこない。
昨夜の後片付けをする。洗い、拭き元の場所に戻す。
冷蔵庫の使いかけの食材を見る。タッパに残っている食材を観察する。
大根の茎と葉、大根のざく切り、刻んで冷凍しているシイタケ、豆腐とわかめを入れて味噌汁を作る。
朝餉で苦労するのは、いつも味噌汁です。味を整えて火を止める。
ごぼうをと大根を千切りにする。タッパのチャーシューも刻んでフライパンに入れ火にかける。
ええいと、孟宗竹の筍を切って足していく。酒とみりんを入れ、チャーシューの残り汁を入れる。
味を見る。コチュジャンを足す。何か足りぬと酢を入れる。まあまあの味となり皿に盛りラップをかける。
もう、一品欲しい。お好み焼きの材料に使う蒲鉾と竹輪が残っている。わか竹煮の残り汁を入れる。
煮あがるころ、卵丼にしようとご飯を炊く。
ついでに、洗濯を始める。
ブラックコーヒーを入れる。
亡きかみさんが癌を患って朝ごはんが作れなくなった。4時に起きて、朝餉と弁当7個を作った。
洗い物から始めた。俺の貴重な時間を盗るなと、家族を恨んだ。
11種類のレパートリーの中から、5種類のおかずを作り弁当に詰めた。6時には終わった。
今は、残り物の箱から宝物を探すように食材を選び、おかずを考える。
妻は、箸をつける程度の食欲しかない。ほとんどが私の胃袋に納まる。昼めし抜きでも十分やれる。
今日のタイトル「両刀遣い」を決める。
両刀遣いとは、
両手に刀を持ってたたかう剣法。またその人。
両立しにくい二つの芸能・技術に熟達していること。二つの仕事を一人でひきうけて同時にできること。
また、その人。
酒と菓子とを共に好むこと。また、その人。
(広辞苑より)
私の両刀遣いは、ブログのタイトルが出てこないことに端を発する。
作業をしながら、どう書こうかと考えている。
パッパッパと両手の包丁を使い菜を刻み、鍋とフライパンを駆使して火を通す。
両手に調味料を持ち、目分量で落としていく。そんな風景だろうか。
味見だけは忘れない。これまで何度も失敗している。妻に食べてもらえない。
洗濯が終わるころ、ブログも書きあがる。
洗濯を干し、外に吊るす頃、俳句が浮かぶ。
洗濯し 蛙鳴くから 中に干す
2020年6月19日
<<後述>>
こんな亭主は嫌だ。こだわりばかりで面倒くさい。
やろうかなという時に、何々しなさいとお母さんに叱られる子供が思うこと。
2015年1月28日投稿記事「ちゃっちゃとやらんかい」を参考にしてください。
<<ちょっと、ちょっと>>
風呂桶を洗い、水をため始めました。
プロフェッショナル「革命は地方から起こす~編集者・岩佐十良」に見入ってしまった。
あーあ、1時間水を流しっぱなしにしてしまいました。
「ちゃっちゃ」もいいんですが、「ちょっとちょっと」と立ち止まるのも必要ですね。
ぼっけもんです。