故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。
絵のタイトルは、「恋心」です。
いつまでも感じる人でありたい。
今日のタイトルは、「裾を踏む 誰かと見れば 恋女房」とちと長い。
好きな人しか眼中にない。
若いころは、そんなもんです。恋となると、極端に視野が狭くなる。
いい加減なもんで、あんなに焦がれたのに次の恋に挑戦していました。
恋は、いつでも初舞台。
「夢芝居」の一節です。
妖艶に踊り、謡う梅沢富美男が出した初めてのシングルでした。作詞作曲は小椋佳です。
すれ違う女性に恋をするとは思ってもみなかった。
どの女性にも歴史がある。歴史が様子ににじみ出る。
果ては笑顔です。そして、いちころです。
馬鹿なことを、それしかないんかいと思われますか。
柔肌だけが女性ではありません。
「あれ」と気づき、違うと感じます。
昨日と違うのか、他の女性と違うのか。この人らしいと、個性に眼を止める。
素敵な何かに触れて、OKサインが出る。走る場合もあったが、今は「灯がともる」です。
摘み取るばかりが恋じゃない。
「裾を踏む 誰かと見れば 恋女房」で、手一杯です。
恋と花 狂わんばかり 咲き乱れ
2020年6月18日
<<参考までに>>
2019年9月2日投稿記事「恋」では、
好きな人ばかりを見て、決して来ない未来を想像した若いころとは違う。
目の前を通過する女性は、何する人ぞと興味が湧く。そしてすれ違う。
気の迷いで立ち止まり、小さな言葉と微笑みに、ほんわかとなります。
「恋」の枝垂れ花火です。
スターマインとなって、ドーンと弾けた幼な恋ではない。
(記事より抜粋)
2017年10月22日投稿記事「続けること(Part6)」では、
老鶏も 鼻水垂らし 初舞台
(記事より抜粋)
と俳句を書いています。
有機肥料を20年間入れ続けた。
手で掘れる畑です。
写真でごめんなさい。
今日のタイトルは、「草場の影」です。
草葉の陰ではありません。
庭の草が伸びてきました。
昨晩の雨で、葉の表面がきらきらと輝いています。
風を受けそよぎ、光を反射しています。
影は涼しそうです。
空気が澄んで、影はいつもより柔らかくて濃い感じです。
草いきれさえ、してきそうです。
いつもなら、草が伸びてきた。刈らねばと気が重くなる瞬間です。
今日は定休日です。書類の処理が半分終わりました。
のんびりと庭を眺めています。
私達は、気分の持ちようで景色が変わります。
奥入瀬渓流の銚子大滝は、今の時期雪解け水を大量に流し壮観です。
台風の時期は、どうなのでしょう。滝には泥水が流れ、流域の氾濫が心配になるのでしょうか。
耕した土の表面から、湯気が上がります。
残った草が愛おしくなるものです。
さあて、今日は何をしようか。
やる仕事は、数え切れぬほどあります。
妻が見つけたクワガタを友人の孫さんに届けることから始めましょう。
うまい下手 そんなことない みな上手
2020年6月17日
絵のタイトルは、「跳べよ未来へ」です。
立川駅前で見ました。毎日飛行機のことしか考えていなかったはずです。
いつも悩む。
今日のテーマ「毎日書く」ことです。
毎日書く効能や心がけ(動機)について、過去何度も挑戦しています。
今日は、「毎日書く」そのものについて考察します。
毎日書いていると、それほど大変な作業ではありません。
夏休みの宿題の「読書感想文」より、楽な作業と言えます。
食事や排せつと同じです。
ただ、書き手のトーン(考え方や話題)は日々創る料理の味付けと似ています。
和洋中と料理には幅があります。
和のテイスティングは、出汁からとなります。
出汁がいつも共通と言えるのです。書き手の生きざまです。
読まれることを前提として書いています。日記と違うところです。
大変さ故、挑戦できる。毎日書いていると、作業をしながら考える癖がついてきます。
キーワード探しが早くなり簡潔になる。
キーワードがタイトルにもなり、その範疇を逸脱しないよう真剣になっていきます。
読者の便宜を計り、「タイトル」をつけています。自分への挑戦でもあります。
毎日書くからよいとも言えます。
空ぞうきんをさらに絞り上げるような作業です。
搾る手も痛い。もう出ないと毎日繰り返す。
マゾ的行為かもしれません。
人間の脳は無限です。絞っても絞っても出てくるのです。
身体の状態がいつも違うように、気持ちも考え(気持ちへの対処)も日々異なります。
実に複雑で単純です。複雑なのは生きざまで、抽出されるもの(単純さ)がタイトルです。
同じ話を何度も聞かされる。
私も同じです。きっと同じ話を何度もしているし、聞いています。
待てよ。
同じ話の入り口と出口が毎回異なることに気づきました。天候がことなるように毎回違います。
同じ話に趣を感じるようになりました。
この地域では、語尾に「ぱい」と「っぺ」を使い分けます。
「ぱい」は、「こういうことでしょうか」と先輩への謙譲の意味合いを含んでいます。
「っぺ」は、同僚や友達と気軽にかわす会話です。
移住者だから気づいたとも言えます。
毎日書くことがすべてです。
昨日感じたことは、今日は書けません。
それほど人間は繊細と言える。
ブログと小説の違い。
ブログはどこまでも個人の見解です。
小説は、主人公が勝手にしゃべり始める。
個人が書きながら、主人公だったらどうするかと第三者的な眼になります。
予測不能な展開が書けるのも小説ならではです。
絵画も音楽も同様でしょう。
絵画なら、線探し色探しが基本です。
音楽なら、心地よい旋律がリズムとなるようなものでしょうか。
どれも「こうだったらよいな」の展開が作者の意図せぬ想いです。
毎日書くからよいのです。
毎日ご飯を食べるように、毎日心の渇きも飢えも異なります。
それを忠実に書き留める作業です。ほんの30分の練習(綴り)にすぎません。
貯めてできることとは違うのです。
ほぐせたな 毎日凝るを 歩き出す
2020年6月16日
<<参考記事>>
2019年2月14日投稿記事「文章を書く(Part2)」では、
人と話せないなら、自分と話す。
過去の自分でもよいし、未来の自分でもよい。
自ら思うことを文章にする。
これが、孤独から脱出する第一歩です。
(記事より抜粋)
2016年8月28日投稿記事「常に真剣」では、
頭で考えた痛みなんて、張り手一発に遠くかすんでしまいます。
私は、嘘のような本当のこと、本当のことのようで嘘八百を毎日書いています。
しかし読まれなければ伝わらない。
(記事より抜粋)
2016年4月30日投稿記事「何が嬉しい」では、
私は、変人が歴史を作ると信じています。
お利口さんは、誰もが認め予測可能です。
きっとやってくれると期待通りの成果を出してくれます。
変人は、予測不能です。笑われることもあるでしょう。
負けないで自分を信じて、一生懸命意味不明の回答を出し続ける。
この「自分を信じて」が意味するものは、この人は「自分のものさし」を持っている方ということです。
「世の中のものさし」とは違います。素晴らしい。
(記事より抜粋)
絵のタイトルは、「あんさん、どこ行きまんね」です。
話好きの談話を止めるのは難しい。
気持ちよく話し終わっていただくタイミングを計るのも聞き上手です。
カフェに物知りが来た。
物知り顔ではありません。
物事の本質、仕事の流儀について話されます。
ゴルフ場の監修やグリーンキーパーを長い間されていました。
この方の本質を見抜き、適切なアドバイスはどこから来るのか。
人にやらせたのではなく、自ら手を出したからに他ならないと思うようになりました。
私がやっている悩み事を聞いていただきました。
今日のタイトルは、「竹きり談義」です。
竹を割る道具がない。竹切り器具は、鋳鉄製で刃がなく押割の構造である。
どうしたらよいの。
まず、竹切り鋸をそろえなさい。竹は中が空洞だから「アサリ」は必要ない。
竹の細工をするのなら、切断面がきれいな竹切り鋸がよい。アサリがあると断面がささくれる。
(アサリは、木を切るとき鋸の動きをよくするために、鋸の身より少しだけ外に折り曲げられている歯)
次に両刃の鉈を用意しなさい。
片刃の鉈で竹を割ると、均等に割れないでどちらかが薄くなる。片刃だから。
鉈は初めは上から、次に竹を回して反対側(下側を上に)からと交互に刃をいれ割っていく。
さすれば、均等に割れる。
竹柵を作るとき、縦と横の竹を結ぶのはビニールひもがよい。棕櫚や麻の縄は三年で朽ちてしまう。
竹を割る道具のことには最後まで触れませんでした。つまり、鉈で割るのがよい。
竹を細工するのは、切った直後がよい。生乾きの竹は割れやすい。
所定の長さ太さにしてから乾かす。丈夫になる。
話は、どんどん「竹きり談義」から外れていく。
水害の話になった。
オーストラリアでは、川は氾濫することを前提として家を作る。
1階はガレージとし、住居部分は2階から上とする。ガレージは水没してもよい。
よって、川が氾濫しないような堤防は作らない。国土が広すぎるからだろうか。
私は、竹の地下茎を50mほど掘った話をした。
動機は、筍が畑の端にそして中央に出てきたので、「チクショー」と掘り進んでしまった。
自然のものに、「チクショー」と思ってはいけないと言われる。
雉や白鳥の話になった。
この方は、地域で写真を撮ることを趣味としている。
鳥たちに話しかけ(褒める)ながら撮影すると、近づいてきてポーズまで取ってくれるとのこと。
鯉に餌をやるときは、ばら撒いたらだめ。餌を載せた手を水面より下に入れて食べさせる。
鯉は、足音(体重の移動振動)の違いを判断して近寄ってくる。
話は尽きない。
アプローチ用の芝生を植えるのなら、砂は必要ない。土に直接植えてよい。
「竹きり談義」は、「今度、俺が手伝ってやる」で、終わった。
丁重に断った。この方のスケージュルで仕事が進むのが嫌だったから。
苦労して やったからこそ 面白味
2020年6月15日
絵のタイトルは、「昔からそこにいたような」です。
そんな感じでよいのかな。
「あんたがたどこさ」とトンボが聞いたような。
いつもどおり、妙な夢を見ます。
そして、何故この夢をと考えます。
従妹を始め、母方の親類縁者の夢を見ました。
とうとう、死者のことを書くはめになったかと、お寺からの卒塔婆をどうするかの手紙を読みました。
継承した墓を訪ねなければ、住職と石屋のかみさんに礼を言わなければと想いを固めています。
今日のテーマは、「あんたがたどこさ(Part5)」です。
これまでは、自分を含め奇妙奇天烈な人たちのことを書いてきました。
Part4では、気に止まる人に真摯に向き合いたいと思うようになりました。
今夜の夢は、今しかできないことを教えてもらったのではないでしょうか。
親せきは近い関係にありながら遠い存在です。
この頃は、不幸の席でしか顔を合わせることがありません。
故郷に恩返しができないものかと、短編小説「さなさん」を書きました。
私は、いろんな人に薫陶を受けながら育ってきました。
あのおっちゃん、このおばちゃんに見守られて生きてきました。
その人たちは、故郷そのものです。
私は、「故郷へ恩返し」の練習をこの地でしています。
何が、人々の役に立ち、「明日も生きたい」を生む癒しとなるのか考え実践しています。
この地で育てられていると言ってもよい。
このままで良いじゃないと、友人たちから言われます。
そうです。ここは、心地が良い。このまま住みたいと時々揺らぎます。
2年後に故郷に帰ると決めています。
半世紀近く離れた故郷に何の恩返しができるのか。
いつも感じるのは、恩を受けた人にはもう返せない。
返す当てのない恩返しです。
足立美術館で見た「借景」のようなものはできないかと挑戦しています。
故郷の自然に溶け込みながら、自分らしさを表現できる何かです。
それは、何かの施設ではない。
借景は、案外心の中にあるのかもしれない。
この地が好きだ。人々も自然も。ぽつんと自分らしさを表現したい。
文章であったり絵画であったり、花であったり、音楽であったりするのです。
自分らしさはなんなのか、一生懸命練習をしています。
この地は、懐が深いから何でもさせていただけます。
「あんたがたどこさ」は、案外自分の中の理想像かもしれない。
決してユートピアではない。むんむんと息吹を感じる生きざまなのだと感じています。
自分らしく生きようとすれば、そして生かせてくれれば、どこもかしこも故郷なのです。
一里塚 向こうは都 実はここ
2020年6月14日
<<参考までに>>
2018年6月14日投稿記事「あんたがたどこさ(Part4)では、
会話をしても、上の空だったんじゃないかと反省しています。
永くはない命です。
これからどれだけ「あんたがたどこさ」と話し込むことができるのでしょう。
真摯に向き合いたいと思っています。
(記事より抜粋)
2018年2月22日投稿記事「あんたがたどこさ(Part3)」では、
置き去りにされた人々は、何かが変化したことさえ気づかない。
昔からこうだったと思うしかない鮮やかな仕事ぶりです。
「あんたがたどこさ」はいつも一瞬の大仕事をやり遂げるのです。
そうなりたいと、縁の下の力持ちを続けています。
(記事より抜粋)
2017年10月10日投稿記事「あんたがたどこさ(Part2)」では、
男に連れて行ってもらった喫茶店で、今に始まる夢のような瞬間を待っていました。
連れの男がいつまでも帰って来ませんでした。
やっと、事態が飲み込め「警察に行こう」とその男の肩を掴みました。
落ち着いたもので、「お前、誰と間違えたんだ」と。
馬券師から、渡した給料袋そっくり返してもらいました。
(記事より抜粋)
2014年11月12日投稿記事「あんたがたどこさ」では、
引っ越したばかりの頃、トイレの後水洗を流さないでいたのが、
S先輩に見抜かれ怒られました。
得意な料理はと聞かれ、卵焼きと答えました。
黄身をゴミに捨て、殻をフライパンでガラガラやっていました。無意識でした。
S先輩がきょとんとした顔をされました。その後、大笑いで頭をはたかれたのでした。
後々、大いに話のだしにされました。
(記事より抜粋)