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『こころ』は、夏目漱石の後期三部作の、最後の作品です。
僕は順番に、前期三部作から読み始めました。
『三四郎』『それから』『門』、
そして後期三部作、『彼岸過迄』『行人』『こころ』。
その間にも、別の漱石作品を挟んだりしたので、最初の『三四郎』から、
最後の『こころ』の間が、何年も空いてしまいました。
『こころ』を読むころには、後期三部作の『彼岸過迄』と『行人』の内容は、ほとんど忘れてしまっていたけれども、それでも、すべて読み切ったわけです。
どうしても、「読もう」という気持ちが降ってこなかったために、こんなにも時間がかかってしまいました。
それでも、大きな仕事を一つ終えて、じわりじわりと感動が湧いてきているところです。
このブログの、ブログ内検索で、「三四郎」と検索してみると、出てきました。
読み終えたのが、2015年の10月12日だそうです。
本を読み終えるたびにブログに書いてきたので、検索がとても楽。
大切ですね、記録って。
で、『こころ』の感想です。
最後まで読んだけれども、読むのに苦労しました。
ここからは、ネタバレ注意です。
内容を知りたくない人は、読まない方がいいです。
逆に、内容・あらすじを知りたい人は、お読みください。
最後の「先生と遺書」の章は、長くて重かったです。
物語は、主人公である「私」が「先生」と再開するところから始まります。
どこか鎌倉あたりの海水浴場で、以前どこかであったと記憶している年上の男性を見かけて、声をかけるのです。
以前どこかで会った気がする、みたいな記述にとどまって、具体的には書かれていないので、ひょっとしたら「私」の勘違いの可能性もなくはないようなのだけれども……。
そして「私」は、東京に戻ってからも、先生の家を訪ねたりして、どんどんうざい若者ぶりを発揮する。
先生は、用も無いのに執拗にからんでくるその若い男のことを、さほど迷惑そうにはしていない。
僕は、思った。
「ああ、先生、こんなのに付きまとわれて、うざいだろうな」
今だったら、完全なるストーカーだ。住所を特定して、リア凸してくるヤツですよ。大問題です。大らかな明治の時代のことなんだろうなと思いました。いや、住所は教えてもらったのかもしれないけど。
で、第二章は、「私」と「私の両親」との関係のお話。
実は、「私」の父親の具合が芳しくないのです。
腎臓の病らしくて、だんだん悪くなっていくのです。
父親がひっくり返ったという手紙を受け取って、あわてて田舎に帰る主人公「私」。
そして、いよいよ今夜あたりが峠ではないか、という時に「私」が「先生」からの長い長い手紙を受け取るんだけど、それが長い長い。
というか、封筒の見た目で言うと、厚い。
原稿用紙のような紙に何枚も書かれた手紙を、折りたたんで無理やり封筒に詰め込んだという感じらしいので、見た目にも、かなり、おって感じです。
ああ、読むの面倒だなと放っておこうとしたときに、ふと文面が目に入ってしまうんですね。
何枚もある原稿用紙の下のほう、結末近くに、捨て置けない一文を発見するわけです。
「君がこの手紙を読む頃には、私はこの世にはいないでしょう」
「私」は、ぐは! となる訳ですね。
「私」は迷ったあげく結局、電車に飛び乗るんです。
病気のお父さんは、もう本当に昏睡状態と覚醒を短い時間何にも交互に繰り返す感じで、今夜にでも最期の時を迎えるだろうと誰もが思うような状況です。
なのに「私」は、東京へ帰ることを急激に決めるわけですね。
その電車の車内で、「私」は、ようやく先生の長い長い遺書とも呼べる手紙をじっくり読むのです。
そして第三章に突入です。
第三章は、その先生の手紙をそのまま書いただけの章なのです。
もう、まさに最初から最後まで。
第三章の最初に、手紙の冒頭部分が始まって、そして手紙がすべて終わるのと、第三章が終わるのが同時なのです。
その内容は、「先生」が学生時代から送ってきた日々について、長編小説のようにつらつらと書いたものです。
この第三章だけで、一本の小説になってしまうのではないかというくらいに、分量があって、物語がしっかりある章です。
「私」が受け取った封筒の中には、原稿用紙のような紙が二度、折られて四分の一の大きさに畳まれて入っていたということですから、相当な厚みだったのでしょう。というか、もはやこの分量は、箱に入れる分量です。規定オーバーなわけです。
その手紙を読んで、そのあと、主人公である「私」がどうした、とか、そういうのが、まったくなしに、唐突に終わるのです。
この小説自体が、いきなり、ずどんと終わるのです。
そして次のページからは、漱石作品にはお馴染みの、「注釈」が始まるのです。
僕は、あっけにとられました。これは一体何だ!と。
だいたい純文学作品なんてものは、結構、ずどんと終わるものです。
「えっ? これで終わり?」
なんて言いながら、ページをぺらぺらめくったり戻ったりして、やっと終わったことを納得するんです。
その方が、「はい、犯人は誰々です」とか、オチ的なシーンを持ってきたり、さも情緒のあるエンディングがあるとかよりも、読者の心に深く残る気がします。何かを、残してくれる気もしてきます。
その、ずどんが純文学の本質と言ってもいい。
この『こころ』は、漱石作品の中でも、ちょっと異質というか、変わった作品ですね。
僕は、そう思いました。
結局、何を言いたいのかわからなかったんですけど、まあ、かなり心に残りましたね。
それもこれも、最後の「ずどん」の効果でしょうか。
しかしまあ、なんと口下手で自分の気持ちをまっすぐ言葉にできない人たちなのでしょうね。
明治という時代性なのか、それとも20歳そこそこの若者の若さゆえの過ちというべきことなのか。
とにかく、自分の気持ちを隠して隠して言わないもんだから、問題は、どんどんこじれていく。
一体何のための言葉なのだ、と言いたかったです。
日清戦争だか何戦争だかわからないけど、乃木大将という有名なエライ人が、明治天皇が崩御した直後に、明治天皇の後を追って殉死したってことを知って、驚きました。
それを、昭和の時代が終わってすぐに亡くなった人たちに重ねたりして。
例えば、手塚治虫さん、松田優作さん、とか、そういう人たちのこと思い浮かべました。
そんなところでしょうか。
以上、読書感想文でした。
長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!
流星光ツィッター
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