さいきんの流星光
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僕は、僕が面倒くさいと思ったことはやらない。

そのあと、どうなろうと関係ない。

責任も取らない。


僕は、誰も責任を取らない社会にしていきたい。

責任をとらない代わりに、その瞬間瞬間、各人、ベストを尽くす。

その時その時、必死で考え、一番いい方策をとる。

それで、思うようにいかなくても仕方ない。

その責任を取る必要はない。

そんな社会。


誰かが、責任を取らずに、その場から去ってしまっても、
僕が引きつぐ。

僕は、文句を言わず、誰かの後始末をする。

そんな社会がいい。


誰かが、良かれと思ってやったことが失敗に終わって、責任を取らなければならない社会はいやだ。

「責任者は誰だ! 誰の責任だ!」

と、責任追及ばかりしている社会は嫌だ。

そもそも時間の無駄だ。

誰の責任かなんて追求しても、誰の利益にもならない。

それよりも、これからどうするか、その方法をさぐるのに時間と労力とお金をかけるべきだと思う。


これからは、AIの時代。

AIは、この僕の意見について、どういう判断を下すだろうか。




長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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111年  


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 夏目漱石の『こころ』を読んだあと、山崎ナオコーラの『可愛い世の中』を読んでいます。
 ギャップが、すごい。

 文章のギャップが、すごい。



 夏目漱石=1867年生まれの小説家・評論家・英文学者。

 山崎ナオコーラ=1978年生まれのエッセイスト・小説家。

 1978-1867=111

 111年の時をへだてて生まれた二人の小説家の作品を、連続して読む……。

 考えてみたら、すごいことですよね。
 この二冊が、普通に本屋さんで売られてるところを想像してみてください。

 なんか、プチ・タイムスリップ みたいな。


 っていうか、111年どころか、もっと以前に生まれた人が書いた本も、普通に書店に並んでいますからね。

 宮本武蔵の『五輪書』なんて、何年前だっつー話!

 宮本武蔵=1584年生まれの剣術家・兵法家・芸術家。

 1978-1584=394

 すげえ…。

 『五輪書』 いま、本棚にあるけど、いちおう。

 でも読んだことない……。


 あ、話が本筋からそれた。
 
 つまり何が言いたいかっていうと、今から111年後の人は、夏目漱石も山崎ナオコーラも読めるわけで。
 すごいですね、って話。

 そうでもないか。

 その頃には、写真みたいに、本を並べて写真に撮るなんてこともできないんだろうな。
 本なんて、なくなってるだろうな。




長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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「宇宙は、どこまで続いているのか」

結局、僕が知りたいのは、空間的な「果て」は、どこにあるのかという問題なんです。

よくテレビとかに、学者の先生が出てきて、

「ビッグンバンで一気に爆発して、広がり続けている宇宙の一番先端がここだから、そこが宇宙の果てなんです」

という言いかたをしてるけど、僕が知りたい「果て」は、そこじゃない。

ビッグバンという爆発の爆風の先端がそこな訳ですよね。

その先、その先にも宇宙空間が広がってるとしたら、その空間の果てはどこなのかって話です。

僕の思考は今まで、ここで止まっていた訳なんですが、今回、もう少し先まで進むことができました。


つまり、昔の人は、地球のことも、そんなふうに思っていたのではなかったのかってこと。

僕の記憶が正しければ、昔の人は、
地球の果ては、滝になっていて、船で行くと、その滝から落ちてしまうと思い込んでいたらしい。

そうですよね。
うん、確かそうだった。

それって、今までの僕と同じじゃないですか。

宇宙空間には、「果て」があって、それがどこかわからないって、悩んで騒いで。

でも、地球には「果て」なんてなかった。

平面だと思ってた地平は、実は、大きな球体の上だった。


そもそも、なぜ僕は、宇宙空間に「果て」があるなんて思っていたんだろう。

それはたぶん、気持ち悪いから。

僕は、「果て」がない空間を想像できないんです。
だから、気持ちがわるい。

貧乏人の性(さが)なのか?

日本人の特性?


なんか悔しいな。


空間には、区切りがあるなんて、誰が決めた?

でも、区切りがないなら、どこまで続いてる?

地球に「果て」がないように、宇宙にも「果て」が無いのかもしれない。


あ、そろそろ白い霧が出てきたな。

今回の思考は、ここまでか。


という事は、あると思っていた宇宙の果ては、実は、地球の果てのように、どこかでつながっていているって事か。

しかし、地球に対して、地球外があるように、宇宙空間に対しても、宇宙空間外、があるのではないだろうか。

ああ、また霧だ。 霧が晴れない。






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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 『こころ』は、夏目漱石の後期三部作の、最後の作品です。

 僕は順番に、前期三部作から読み始めました。
 『三四郎』『それから』『門』、
 そして後期三部作、『彼岸過迄』『行人』『こころ』。

 その間にも、別の漱石作品を挟んだりしたので、最初の『三四郎』から、
 最後の『こころ』の間が、何年も空いてしまいました。

 『こころ』を読むころには、後期三部作の『彼岸過迄』と『行人』の内容は、ほとんど忘れてしまっていたけれども、それでも、すべて読み切ったわけです。

 どうしても、「読もう」という気持ちが降ってこなかったために、こんなにも時間がかかってしまいました。
 
 それでも、大きな仕事を一つ終えて、じわりじわりと感動が湧いてきているところです。


 このブログの、ブログ内検索で、「三四郎」と検索してみると、出てきました。
 読み終えたのが、2015年の10月12日だそうです。
 本を読み終えるたびにブログに書いてきたので、検索がとても楽。
 大切ですね、記録って。

 で、『こころ』の感想です。
 最後まで読んだけれども、読むのに苦労しました。


ここからは、ネタバレ注意です。
内容を知りたくない人は、読まない方がいいです。
逆に、内容・あらすじを知りたい人は、お読みください。









 最後の「先生と遺書」の章は、長くて重かったです。

 物語は、主人公である「私」が「先生」と再開するところから始まります。
 どこか鎌倉あたりの海水浴場で、以前どこかであったと記憶している年上の男性を見かけて、声をかけるのです。
 以前どこかで会った気がする、みたいな記述にとどまって、具体的には書かれていないので、ひょっとしたら「私」の勘違いの可能性もなくはないようなのだけれども……。

 そして「私」は、東京に戻ってからも、先生の家を訪ねたりして、どんどんうざい若者ぶりを発揮する。
 先生は、用も無いのに執拗にからんでくるその若い男のことを、さほど迷惑そうにはしていない。
 僕は、思った。

「ああ、先生、こんなのに付きまとわれて、うざいだろうな」

 今だったら、完全なるストーカーだ。住所を特定して、リア凸してくるヤツですよ。大問題です。大らかな明治の時代のことなんだろうなと思いました。いや、住所は教えてもらったのかもしれないけど。
 
 で、第二章は、「私」と「私の両親」との関係のお話。
 実は、「私」の父親の具合が芳しくないのです。
 腎臓の病らしくて、だんだん悪くなっていくのです。
 父親がひっくり返ったという手紙を受け取って、あわてて田舎に帰る主人公「私」。

 そして、いよいよ今夜あたりが峠ではないか、という時に「私」が「先生」からの長い長い手紙を受け取るんだけど、それが長い長い。
 というか、封筒の見た目で言うと、厚い。
 原稿用紙のような紙に何枚も書かれた手紙を、折りたたんで無理やり封筒に詰め込んだという感じらしいので、見た目にも、かなり、おって感じです。
 ああ、読むの面倒だなと放っておこうとしたときに、ふと文面が目に入ってしまうんですね。
 何枚もある原稿用紙の下のほう、結末近くに、捨て置けない一文を発見するわけです。

「君がこの手紙を読む頃には、私はこの世にはいないでしょう」

 「私」は、ぐは! となる訳ですね。
 「私」は迷ったあげく結局、電車に飛び乗るんです。
 病気のお父さんは、もう本当に昏睡状態と覚醒を短い時間何にも交互に繰り返す感じで、今夜にでも最期の時を迎えるだろうと誰もが思うような状況です。
 なのに「私」は、東京へ帰ることを急激に決めるわけですね。
 その電車の車内で、「私」は、ようやく先生の長い長い遺書とも呼べる手紙をじっくり読むのです。




 そして第三章に突入です。

 第三章は、その先生の手紙をそのまま書いただけの章なのです。


 もう、まさに最初から最後まで。
 第三章の最初に、手紙の冒頭部分が始まって、そして手紙がすべて終わるのと、第三章が終わるのが同時なのです。

 その内容は、「先生」が学生時代から送ってきた日々について、長編小説のようにつらつらと書いたものです。
 この第三章だけで、一本の小説になってしまうのではないかというくらいに、分量があって、物語がしっかりある章です。
 「私」が受け取った封筒の中には、原稿用紙のような紙が二度、折られて四分の一の大きさに畳まれて入っていたということですから、相当な厚みだったのでしょう。というか、もはやこの分量は、箱に入れる分量です。規定オーバーなわけです。

 その手紙を読んで、そのあと、主人公である「私」がどうした、とか、そういうのが、まったくなしに、唐突に終わるのです。
 この小説自体が、いきなり、ずどんと終わるのです。
 そして次のページからは、漱石作品にはお馴染みの、「注釈」が始まるのです。

 僕は、あっけにとられました。これは一体何だ!と。

 だいたい純文学作品なんてものは、結構、ずどんと終わるものです。

「えっ? これで終わり?」

 なんて言いながら、ページをぺらぺらめくったり戻ったりして、やっと終わったことを納得するんです。
 その方が、「はい、犯人は誰々です」とか、オチ的なシーンを持ってきたり、さも情緒のあるエンディングがあるとかよりも、読者の心に深く残る気がします。何かを、残してくれる気もしてきます。
 その、ずどんが純文学の本質と言ってもいい。

 この『こころ』は、漱石作品の中でも、ちょっと異質というか、変わった作品ですね。
僕は、そう思いました。
 結局、何を言いたいのかわからなかったんですけど、まあ、かなり心に残りましたね。
 それもこれも、最後の「ずどん」の効果でしょうか。


 しかしまあ、なんと口下手で自分の気持ちをまっすぐ言葉にできない人たちなのでしょうね。
 明治という時代性なのか、それとも20歳そこそこの若者の若さゆえの過ちというべきことなのか。
 とにかく、自分の気持ちを隠して隠して言わないもんだから、問題は、どんどんこじれていく。
 一体何のための言葉なのだ、と言いたかったです。

 日清戦争だか何戦争だかわからないけど、乃木大将という有名なエライ人が、明治天皇が崩御した直後に、明治天皇の後を追って殉死したってことを知って、驚きました。
 それを、昭和の時代が終わってすぐに亡くなった人たちに重ねたりして。
 例えば、手塚治虫さん、松田優作さん、とか、そういう人たちのこと思い浮かべました。

 そんなところでしょうか。
 以上、読書感想文でした。



長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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妻とふたりで、東京国立博物館に行った。

予定としては、御徒町で電車を降りて、



アメ横の途中の路地をちょっと入ったところの有名っぽいトンカツ屋さんでお昼ご飯を食べてから、上野公園へ徒歩で向かおうという計画だったんですが…。



 目的のとんかつ屋さんへ行くと、長蛇の列。
 
 とんかつ屋さんどころか、
 ほとんどすべての飲食店に、長い列が出来ていた!

 スマホで「上野」「ランチ」で検索。
 ヒットしたお店を訪ねてみると…

またもや列!

列!!

列!!!

列!!!

どうなってんだーーー!


「上野で、昼めしなんて食うもんじゃねえ!」

 心の中で、そう叫びながら、徒歩で上野駅へ向かう。

 上野公園に近づくにつれて、何だか人が多くなってきている気が…。

途中にあるお店、大戸屋、餃子の王将、寿司ざんまい…、ことごとく行列!!


うおお!


 そこで、僕たちは気がついた。

「今日は、花見だ!」

 なんてこった。

 僕たちは、花見の時期に、上野公園に隣接した博物館に行こうとしていたのだ。




上野公園は、ものすごい人だかり。





博物館の中のレストランも、やっぱり行列!

僕たちは、おなか減ってたけど、我慢して博物館の中を見て回った。






帰り。

こういう日って、上野駅も満員なんですよ。

もう、電車乗るってレベルじゃねーぞー!って感じ。

そんな感じで、御徒町まで、また徒歩で戻ってきて、北海道ラーメンの店で、ラーメンいただきました。午後3時半くらいでした。


総合的に感想を書くと…

う~ん、アートとか藝術ならまあ、何とか、鑑賞してみたいかなって思うんですが、博物館はな~。

昔のものに興味がある、という訳でもないし。

ただ、武器とか防具には、やっぱり興味ありました。

これ、どうやって使うんだろう。実用的にどうなんだろうって考えると、ちょっと燃えましたね。

あと、仏像って、やばいくらいカッコいいですね。

当時、あんなに、すっと立つ人っていなかったんだろうな。
今でいうところの、荒木飛呂彦の絵みたいな感じだろうか。

あと、ハニワはすごい。

あの馬は、すごい。

NHKでも、あのまんまアニメキャラになってたよね。

あのまんま。

あのまんまで、デザイン的にすごいってことですよ。

どうなってんの。



でも、博物館とか美術館って、回るのキツイですよね。

歩くのキツイ。

歩くスピードも、結構ゆっくりだし距離もすごいし、かなり疲れました。

もうちょっと体力つけないとね。


そんで、外人率 高すぎ。

外人ばっかり。


そんな感じでした。

 






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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