あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

受け継ぎ・そして・伝える・それが私のすべきこと

2008-02-16 18:55:15 | 日記
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伝えられたこと
それを受け継ぐこと
それが私の存在なのです
引きついたことをそのまま伝える
それが私たちの与えられた使命
親から子へ
師匠から弟子へ
そのままでいい
増やすことも減らすこともなく
それでよいのですね
このごろそう思えるようになりました

「ゆれる」橋を渡るような私・どこかで祈っている

2008-02-16 16:00:36 | 日記
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寒風の中
山下公園を歩く
そして、なせか
中華街に迷い込む
食料品を商う店が並ぶ
天津甘栗に修学旅行生が群れている
あちらの店もこちらの店も
赤、黄、青のごてごてな色
不気味で落ち着きが悪い
なにのなぜか生命力に満ちている
客を呼び込むおばさんも
大声で呼びかける
気取ることなく
かといって下品にならず
素人が写真を撮ったメニュー
そして、下手な文字
どれも、食欲をそのまま投げ出している
そして何もかも一緒に飲み込んでしまう
食べたいような
そうでないような
気持ちが揺れる
それにしても、不思議な料理がてんこ盛り
糖尿病を気にする人には
とても残念なところ
結局のところ
野毛町の日本蕎麦屋で
かけそば
満足したとはいえない
中途半端
そんな土曜日

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テレビ(昭和という時代)

テレビが入り込んできたのは昭和30年代ですが
最初の頃は電気屋の店頭で流しているのを見たり
街頭テレビと称すたものを見たりました。
火の見やぐらのような構造物の中にテレビがあり
公開放送となるとその扉を開くのです。
主としてプロレス、ボクシング、相撲などを放映していました。
放映されると近所の人が多くの人が群れてきました。
ものすごい人数の人が押し寄せ
危険な状態にもなりました。
白井義男が世界チャンピオンになったときとか
力道山とシャープ兄弟との戦いなどものすごい人気でした。
やがて豊かな生活をする人が個人用に持ち始めました。
「三丁目の夕日」に出てくるシーン状態が始まりました。
街頭ではなく、テレビをもっている人の家に押しかけ
テレビを見たのです。
「お笑い三人組」
「夢であいましょう」などに人気がありました。
お目当ての時間が来ると
勝手に押しかけていたような記憶もあります。
テレビのある家に10人以上が集まっていたこともあったかもしれません。
テレビをもっている家の人もさほど嫌がっていたような記憶がありません。
むしろ自慢げに周囲の人を誘っていたようにも思えます。
私の家にテレビが入ったのはずっと遅くて
昭和40年代だったかもしれません。
東京オリンピックの女子バレーを見たのが
大型楽器店に展示されていたテレビであったような記憶があります。
そして、いつかどこの家にもテレビが準備されると
街頭テレビも消えてしまい
熱気も個人的ところまでしか広がりませんでした。


あの船は夕日の中に何を運び出すのでしょうか

2008-02-16 15:35:58 | 日記
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船は夢を見させてくれるし
悲しみを流してくれる
そんな歯の浮くようなことさえ
言葉になりそうな気がする。

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海は広いな大きいな
波が寄せたり返したり

遠くへ行きたい
この息苦しいところから出たい
緊張した空気から逃げ出したい
そんな思いから生まれる願望なのでしょうか
この歌を海辺で一人で歌うと
涙が出てきます
一粒ずつ
砂に落ちていきます