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こもれびは囁くように
私の額の上を泳いでいます
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寒風吹く中
横浜女子駅伝大会
強風の中を女性選手が煽られながら走っていました。
出かけるつもりが寒いし
電車が遅れたこともあり
Uターンしてテレビ観戦しました
マラソンは走る人を応援しますが
応援する人と一体となる楽しみもあります。
それができる人は楽しみが倍増し
冷ややかに傍観する人は単なるニュースに過ぎない
最近、その差異が見えてきました。
楽しいとはその真ん中に位置することなのですね
結果はどうかもありますが
今日も胸がわくわくした
そんな満足が残ります。
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駅(昭和という時代)
戦争後の駅には今とは違った特別の意味もありました
復員してくる兵隊さんが駅に降りてくる場所だったのです。
ぼろぼろの服装でゲートルを巻いた足
何もかも疲れているのに喜びに満ちている。
なぜか、そんな風景を覚えています。
駅には、行商を始めた大きな籠を担いだおばさんたちに混じって
親戚の人が出迎えていました。
もんぺ姿で下駄履き
カーキ色に襟のついた服を着たおじさん
学生服に半ズボンの小学生などが迎えにきていました。
そこでどのような喜びのシーンがあったのか記憶にありません。
駅には改札口と出札口があるのは大きな駅でした。
駅の看板にはまだ昔のままでした。
木製の檻の様な箱に駅員が入り、挟のようなもので
切符に切り口を入れるのです。
カチカチと音を立てて軽快にリズムをとる姿は
小学生にとっては運転手と共に憧れでした。
私の記憶では、昭和30年ごろには復員の人もおらず
蒸気機関車と電車が入り混じったように覚えています。
あの蒸気電車での別れ、ホームで見送るのが歌謡曲の別れの風景でした
そういえば、沼津から東京に向かうとき
丹名トンネルという当時日本一長いトンネルがありました。
事情を知っている人はトンネルに入る前に窓を閉めたものです。
確か函南という駅を通過するとすぐに入りました。
蒸気機関車の煤が窓から入ってくるとたまったものではありません。
顔中真っ黒になってしまうのです。
それが遠足などで記者になるときの話題でした。
そういえば、私たちの年代の人間は「電車」ではなく「汽車」なのです。
国鉄一家といわれるように、東京電力、国鉄勤務者は、警察官と同じ程度に
憧れの仕事だったのですね。
親子三代の国鉄一家という人がけっこういましたね。