若い頃、自分は何のために生まれてきたのかとか生きる意味ってなんだろうって自問自答して底なし沼から這い出せなくなった経験って誰にでもあったことと思う。
ボクもそんなことでズイブン悩んだことがある。
今もって、フトしたときに、そんなことを考えてみたりするけど、歳をとったせいか、興味はあるものの、その底なし沼は覗く程度で深入りは禁物と心得て生きているような気がする。
以前、実母が更年期障害かなんかワカンナイけど、トニカク、イロイロ病んでいた時期があって、自分のことを「生きる価値もない人間だ」などと言って嘆いてた。
ボクは実母が以前から好きじゃなかったから、冷徹に言ってやった。
「じゃぁ、あなたの基準じゃぁ、寝たきりの老人みたいな人はどうなるんだ?」
実母の嘆きの背景には「退職」があった。
実母は、それなりの努力をし、それなりの成果を上げ、それなりの生活と社会的地位を得ていた。
当時、実母と話していて、いつも鼻につくのが「社会的価値があってこその人生」みたいなもんだった。そういう親の下で育ったボクは、当然、そういう思想にカブれたこともあったけど、それは一時期だけのことだった。
だから余計に底なし沼から這い出せなくなったってことが若い頃にあったってことなんだけどね。
話しはかわるけど、ボクが偽善者かどうかは、みんなの判断にまかせたい。
我が家から狭い市道を挟んだ正面はゴミ置き場となっている。
ボクは二世帯住宅の2階に住んでいてベランダでタバコをふかすことが多い。
だから、ゴミ出し日の前日を問わず、夜中にゴミを出しに来る人々を目撃することが多い。
ゴミの出し方、取り扱い方は十人十色で、車の窓から思い切り投げるつけるように出す人もいれば、出されたゴミにケリを見舞う塾帰りと思しき学生がいたり、はたまたゴミを物色してナニか持ち帰ろうした挙げ句の果てに、得るものがなかったという当てつけかワカンナイけど、我が家の観葉植物を根こそぎドロボーするオバサンがいたり・・・、
そういう行為を見て、憤りが脳内に発生するのは事実だけど、ナゼかその人々の人生をイロイロ想像するのもこれまた事実だから仕方がない。
空き缶、空き瓶の収集日の前日の晩に決まってやってくる自転車の年配者がいる。
もう2年くらい毎週のようにやってくる。木曜の晩だ。夏の暑い日も冬の寒い日も。
その年配者は、出されたゴミ袋からアルミ缶だけを選別し、一つ一つ手足で潰していく。
夏、エアコンを殆ど使わない我が家では、窓からの風で涼を得ているわけだけど、その涼と一緒に空き缶の潰ぶれる音が部屋に入ってくる。
「・・・・・クシャ・・・・・・・クシャ・・・・・・」
その音に関してトヤカク言う者は、我が家にはいない。
ボクはその年配者と言葉を交わしたことが無い。
その年配者を思うとき、年配者にとってのボクなんかは空き缶より価値のない人間かもしれないと思ったりするからだ。
だけどボクは、その年配者に対し、その人の存在がボクの重要な思索の引き金となったことに価値を見出し感謝している。だからってわけじゃないけど、その年配者と出くわすと、ボクは頷く程度の会釈なんかをしてしまう。
以前、ある本に書いてあったことだと思うけど、片意地はって自分の価値や人生を自分で考える必要なんてなくて、むしろ人の価値ってぇのは、その人の周囲に良い意味悪い意味で影響を与えるって存在そのものが価値であるからして、ぶっちゃけ、人生の意味ってのは「生きること」あるいは「生き抜くこと」だってくだりがあったような、なかったような・・・、
それが正解かどうかは別として、ボクはなんとなくそれに共鳴したか、あるいは実体験の延長としてそれを感じていたかどうかワカンナイけど、ここ数年、入退院を繰り返していた祖母さんを見ていて、祖母さんの人生や祖母さんの価値を最大限感じるべく、子供と一緒によく話しよく見舞いをしていたのかもしれない。
祖母さんの死に際に接して、最期の最期まで生き抜こうとしていた身体の生命力を感じたボクは、その考えが間違いじゃぁなかったと確信したように思った。
祖母さんの告別式は、曾孫10数人が最前列付近で大泣きになった。彼等の泣き声が住職のお務めの声と混合し、さらにそれらが線香の煙と香りに包まれて、式は単なる「セレモニー」ではなくホントの「葬儀」となった。
翌日、お寺にお礼に行った際、住職が最近の葬式では親族の泣き声を聞くことが少なくなったとおっしゃったことが印象深かった。
そしてあらためて思った。
祖母さんの人生には確かな意味があったと。
だけど、祖母さんが亡くなって1週間が過ぎ、その間イロイロと考えたけど、自分の人生や生きる意味をイロイロ考えたりしたっていいんじゃないのと思うようになった。これが新たな悩みのタネになるのは間違いないけど、若い頃、そのタネを拾おうとして転んで底なし沼に落こっちゃったのとは違って、その『タネ』が美しい花を咲かせるのを待つのもいいかもしれないと思うようになった。
ようやく、ボクなりに祖母さんの生と死を受けとめることが出来たってことなのかもしれない。
ボクもそんなことでズイブン悩んだことがある。
今もって、フトしたときに、そんなことを考えてみたりするけど、歳をとったせいか、興味はあるものの、その底なし沼は覗く程度で深入りは禁物と心得て生きているような気がする。
以前、実母が更年期障害かなんかワカンナイけど、トニカク、イロイロ病んでいた時期があって、自分のことを「生きる価値もない人間だ」などと言って嘆いてた。
ボクは実母が以前から好きじゃなかったから、冷徹に言ってやった。
「じゃぁ、あなたの基準じゃぁ、寝たきりの老人みたいな人はどうなるんだ?」
実母の嘆きの背景には「退職」があった。
実母は、それなりの努力をし、それなりの成果を上げ、それなりの生活と社会的地位を得ていた。
当時、実母と話していて、いつも鼻につくのが「社会的価値があってこその人生」みたいなもんだった。そういう親の下で育ったボクは、当然、そういう思想にカブれたこともあったけど、それは一時期だけのことだった。
だから余計に底なし沼から這い出せなくなったってことが若い頃にあったってことなんだけどね。
話しはかわるけど、ボクが偽善者かどうかは、みんなの判断にまかせたい。
我が家から狭い市道を挟んだ正面はゴミ置き場となっている。
ボクは二世帯住宅の2階に住んでいてベランダでタバコをふかすことが多い。
だから、ゴミ出し日の前日を問わず、夜中にゴミを出しに来る人々を目撃することが多い。
ゴミの出し方、取り扱い方は十人十色で、車の窓から思い切り投げるつけるように出す人もいれば、出されたゴミにケリを見舞う塾帰りと思しき学生がいたり、はたまたゴミを物色してナニか持ち帰ろうした挙げ句の果てに、得るものがなかったという当てつけかワカンナイけど、我が家の観葉植物を根こそぎドロボーするオバサンがいたり・・・、
そういう行為を見て、憤りが脳内に発生するのは事実だけど、ナゼかその人々の人生をイロイロ想像するのもこれまた事実だから仕方がない。
空き缶、空き瓶の収集日の前日の晩に決まってやってくる自転車の年配者がいる。
もう2年くらい毎週のようにやってくる。木曜の晩だ。夏の暑い日も冬の寒い日も。
その年配者は、出されたゴミ袋からアルミ缶だけを選別し、一つ一つ手足で潰していく。
夏、エアコンを殆ど使わない我が家では、窓からの風で涼を得ているわけだけど、その涼と一緒に空き缶の潰ぶれる音が部屋に入ってくる。
「・・・・・クシャ・・・・・・・クシャ・・・・・・」
その音に関してトヤカク言う者は、我が家にはいない。
ボクはその年配者と言葉を交わしたことが無い。
その年配者を思うとき、年配者にとってのボクなんかは空き缶より価値のない人間かもしれないと思ったりするからだ。
だけどボクは、その年配者に対し、その人の存在がボクの重要な思索の引き金となったことに価値を見出し感謝している。だからってわけじゃないけど、その年配者と出くわすと、ボクは頷く程度の会釈なんかをしてしまう。
以前、ある本に書いてあったことだと思うけど、片意地はって自分の価値や人生を自分で考える必要なんてなくて、むしろ人の価値ってぇのは、その人の周囲に良い意味悪い意味で影響を与えるって存在そのものが価値であるからして、ぶっちゃけ、人生の意味ってのは「生きること」あるいは「生き抜くこと」だってくだりがあったような、なかったような・・・、
それが正解かどうかは別として、ボクはなんとなくそれに共鳴したか、あるいは実体験の延長としてそれを感じていたかどうかワカンナイけど、ここ数年、入退院を繰り返していた祖母さんを見ていて、祖母さんの人生や祖母さんの価値を最大限感じるべく、子供と一緒によく話しよく見舞いをしていたのかもしれない。
祖母さんの死に際に接して、最期の最期まで生き抜こうとしていた身体の生命力を感じたボクは、その考えが間違いじゃぁなかったと確信したように思った。
祖母さんの告別式は、曾孫10数人が最前列付近で大泣きになった。彼等の泣き声が住職のお務めの声と混合し、さらにそれらが線香の煙と香りに包まれて、式は単なる「セレモニー」ではなくホントの「葬儀」となった。
翌日、お寺にお礼に行った際、住職が最近の葬式では親族の泣き声を聞くことが少なくなったとおっしゃったことが印象深かった。
そしてあらためて思った。
祖母さんの人生には確かな意味があったと。
だけど、祖母さんが亡くなって1週間が過ぎ、その間イロイロと考えたけど、自分の人生や生きる意味をイロイロ考えたりしたっていいんじゃないのと思うようになった。これが新たな悩みのタネになるのは間違いないけど、若い頃、そのタネを拾おうとして転んで底なし沼に落こっちゃったのとは違って、その『タネ』が美しい花を咲かせるのを待つのもいいかもしれないと思うようになった。
ようやく、ボクなりに祖母さんの生と死を受けとめることが出来たってことなのかもしれない。