1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

熊本に、もう一個、野球スタジアムができます

2008-02-10 22:27:42 | 雑談の記録
自信を持って宣言したいことがある。
言わせてもらう。

「熊本に、もう一個、野球スタジアムができます。」

なんでこんなことが言えるかというと、それは、ボクというか、作りたいと考えている人間がいるからなんだ。

話しは変わるけど、今日、ボクが午前中に記録したバカブロクを読んだ人の中に、今、NHKでやってる「戦うリハビリ」を見てみたいと思った人がいると思う。

ボクは、今、番組でやっている中身が、実体験としてそれがどういうことなのか判る。

話しはかわるけど、実は、7時から、宮崎市日南市の焼酎メーカーが作った「甕雫」って名前の焼酎を熊工野球部出身のNKMオヤジとずっと飲んでるんだけど・・・。

結論から言おう。

ボクらは共鳴という世界に生きている。

その共鳴がナニから生まれるか。

それは世界を作るカタチなのだ。

雪の結晶、正しくは氷の結晶だけど、そのカタチを見た人は多いと思う。
みんなに、素直に訊きたい。
この結晶はいいな、この結晶はなんだか気に食わないなって思ったことがあったと思う。

それが共鳴なんだ。

だけど、カタチってなんだろう。
そのカタチがホントにあるかどうかボクには判らない。

だけど、カタチを感じているのは間違いない。
じゃぁ、カタチをカタチ作っているってモノはなんだろうって考えたら、それもカタチがあるものだとボクたちは考えてしまうというか、思ってしまうというか、そうあって欲しいと思う。だから、そこにボクたちはカタチを残念ながら見出してしまうのだ。


夜空を見上げると、そこには宇宙が広がっている。
でも、その宇宙は、根源的にはボクたちがそう思った宇宙に過ぎないってことがわかると思うっていうか、思い込んでるだけんだ。

だけど、それがなんだか共通の理解みたいにして、みんなが理解しているのは、単にみんなが同じ人間というカタチをしているからなんだ。

今、ボクは思う。

今、ボクが感じている宇宙のほかに、別の宇宙が無数にあるっていうことを。

だけど、残念ながらそれをホントに感じることはできないし、「科学」で説明することもムリっぽいと思う。

だけど、それが説明できる日が来るのも近いと思う。

なんで近いって思うかっていうと、それは近いと思うからなんだ。

そういうもんなんだ。人間は思ったものが見えてしまうっていうヘンテコな癖があるんだと思う。だから、思ったものが目に見えてしまうんだ。普通に考えれば、単に見えるものと、そこに物質があるということは、違う事象のように思ってしまうことかもしんないけど、物質があるってことは、そこに物質があるように見えているに過ぎないんだ。

ボクらが生きてる宇宙に、他の宇宙人がいたとしよう。そもそも、この仮定はおかしいんだけど、たぶん、その宇宙人は、ボクらに気づくことができないじゃないかな。
そして、残念ながら、ボクらも、ボクらが生きている宇宙に宇宙人がいたとしても、彼らに気づくことはムリなんじゃないかな。

なんでかっていうと、最初っから、ボクらはボクらが生み出した宇宙にしか存在しないからなんだ。宇宙人とは共鳴し合えないからなんだ。なんで共鳴しあえないかっていうと、宇宙人とボクたちでは、たぶん、カタチが違うからなんだ。

話しを元に戻さなくちゃいけないけど、人間同士が共鳴しあって見たいと思ってしまったことが現実になるというか、見えてしまうと、そういうことなんだ。

そう考えると、スタジアムができると思えば、出来てしまうっていう仕組みが判ってもらえると思う。

だから、ボクは気軽に言うことができる。

「熊本に、もう一個、野球スタジアムができます。」

これが「意識」ってヤツなんだ。
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爆発だ!

2008-02-10 10:33:19 | 雑談の記録
今、ボクのアタマの中では爆発が起こっている。ような気がする。

それを具体的にどう表現したらいいかワカンナイけど、岡本太郎だったかな、変な芸術家だとおもうけど、その人が「芸術は爆発だ」って言ったことが、実体験としてボクの脳の中に起きているって言えばそれでいいのかもしれない。

爆発のトリーガーとなったのは、池谷祐二っていう人が書いた「進化しすぎた脳」って本だ。まだ読み終わっていないけど、だけど、その本を読むキッカケとなったのは昨日、読んでた茂木健一郎の「欲望する脳」って本で、それを読むキッカケとなったのは、自分とは何ぞやという疑問をもう一度考えなおそうという思いで、でもその思いのキッカケとなったのは、祖母さんの生死で、祖母さんの生死を見つめたいと思ったのは・・・・、

それでナニが爆発的なのか、言葉で書くのがモドカシイ。
今、ボクの頭の中が非常に三次元的な宇宙みたいだったら、それをいっぺんに取り出しといてどこかにコピーしといて、後からそれについて言葉を選びながら表現すると同時にXYZ座標におけるネットワーク図にしたいって、そんなかんじなのだ。

とか言いながら、この表現のしたかたは、昨日ちょっとだけ立ち読みした、1ページだけ、「乳と卵」だっけ?、それを参考にしているあたりなんかがなんとも情けないなんて思っていたりする。

爆発な気分になっている内容をほんの少しだけ記録したい。
その前にボクにとっての爆発な気分ってのは「ワカッタ、ツナガッタ!」ってことなんだってことをワカッテもらいたい。

以下、爆発な気分

WBCでなぜ日本が優勝できたか。

なぜ王監督であったか。

セックスレスからの脱却方法とセックスレスになっちゃう方法。

なんで野球が好きなのか。

やっぱり政治家の言葉は注視しとかなくちゃいけない。
日本人の多くは茂木健一郎的で、だから日本人は全体となったときに将来を見据える行動がとれなくなるってことだけのこと。だけど、それは地球全体から見ればバランスをとろうとしている一つのベクトルでしかないこと。だけど、その中で自分はどんな行動をとったらいいかワカンナイけど、きっと、そのことを記録しておこうとういう思いがボクの行動で、それに従うのがボクだってことがワカッタこと。

あ~、少し落ち着いたぁ。

今日は昼から練習試合だった。
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喪明けかな

2008-02-08 16:23:20 | 雑談の記録
若い頃、自分は何のために生まれてきたのかとか生きる意味ってなんだろうって自問自答して底なし沼から這い出せなくなった経験って誰にでもあったことと思う。

ボクもそんなことでズイブン悩んだことがある。
今もって、フトしたときに、そんなことを考えてみたりするけど、歳をとったせいか、興味はあるものの、その底なし沼は覗く程度で深入りは禁物と心得て生きているような気がする。

以前、実母が更年期障害かなんかワカンナイけど、トニカク、イロイロ病んでいた時期があって、自分のことを「生きる価値もない人間だ」などと言って嘆いてた。

ボクは実母が以前から好きじゃなかったから、冷徹に言ってやった。
「じゃぁ、あなたの基準じゃぁ、寝たきりの老人みたいな人はどうなるんだ?」

実母の嘆きの背景には「退職」があった。
実母は、それなりの努力をし、それなりの成果を上げ、それなりの生活と社会的地位を得ていた。
当時、実母と話していて、いつも鼻につくのが「社会的価値があってこその人生」みたいなもんだった。そういう親の下で育ったボクは、当然、そういう思想にカブれたこともあったけど、それは一時期だけのことだった。
だから余計に底なし沼から這い出せなくなったってことが若い頃にあったってことなんだけどね。



話しはかわるけど、ボクが偽善者かどうかは、みんなの判断にまかせたい。

我が家から狭い市道を挟んだ正面はゴミ置き場となっている。
ボクは二世帯住宅の2階に住んでいてベランダでタバコをふかすことが多い。
だから、ゴミ出し日の前日を問わず、夜中にゴミを出しに来る人々を目撃することが多い。
ゴミの出し方、取り扱い方は十人十色で、車の窓から思い切り投げるつけるように出す人もいれば、出されたゴミにケリを見舞う塾帰りと思しき学生がいたり、はたまたゴミを物色してナニか持ち帰ろうした挙げ句の果てに、得るものがなかったという当てつけかワカンナイけど、我が家の観葉植物を根こそぎドロボーするオバサンがいたり・・・、
そういう行為を見て、憤りが脳内に発生するのは事実だけど、ナゼかその人々の人生をイロイロ想像するのもこれまた事実だから仕方がない。

空き缶、空き瓶の収集日の前日の晩に決まってやってくる自転車の年配者がいる。
もう2年くらい毎週のようにやってくる。木曜の晩だ。夏の暑い日も冬の寒い日も。
その年配者は、出されたゴミ袋からアルミ缶だけを選別し、一つ一つ手足で潰していく。

夏、エアコンを殆ど使わない我が家では、窓からの風で涼を得ているわけだけど、その涼と一緒に空き缶の潰ぶれる音が部屋に入ってくる。

「・・・・・クシャ・・・・・・・クシャ・・・・・・」

その音に関してトヤカク言う者は、我が家にはいない。
ボクはその年配者と言葉を交わしたことが無い。
その年配者を思うとき、年配者にとってのボクなんかは空き缶より価値のない人間かもしれないと思ったりするからだ。

だけどボクは、その年配者に対し、その人の存在がボクの重要な思索の引き金となったことに価値を見出し感謝している。だからってわけじゃないけど、その年配者と出くわすと、ボクは頷く程度の会釈なんかをしてしまう。

以前、ある本に書いてあったことだと思うけど、片意地はって自分の価値や人生を自分で考える必要なんてなくて、むしろ人の価値ってぇのは、その人の周囲に良い意味悪い意味で影響を与えるって存在そのものが価値であるからして、ぶっちゃけ、人生の意味ってのは「生きること」あるいは「生き抜くこと」だってくだりがあったような、なかったような・・・、

それが正解かどうかは別として、ボクはなんとなくそれに共鳴したか、あるいは実体験の延長としてそれを感じていたかどうかワカンナイけど、ここ数年、入退院を繰り返していた祖母さんを見ていて、祖母さんの人生や祖母さんの価値を最大限感じるべく、子供と一緒によく話しよく見舞いをしていたのかもしれない。

祖母さんの死に際に接して、最期の最期まで生き抜こうとしていた身体の生命力を感じたボクは、その考えが間違いじゃぁなかったと確信したように思った。

祖母さんの告別式は、曾孫10数人が最前列付近で大泣きになった。彼等の泣き声が住職のお務めの声と混合し、さらにそれらが線香の煙と香りに包まれて、式は単なる「セレモニー」ではなくホントの「葬儀」となった。
翌日、お寺にお礼に行った際、住職が最近の葬式では親族の泣き声を聞くことが少なくなったとおっしゃったことが印象深かった。

そしてあらためて思った。
祖母さんの人生には確かな意味があったと。

だけど、祖母さんが亡くなって1週間が過ぎ、その間イロイロと考えたけど、自分の人生や生きる意味をイロイロ考えたりしたっていいんじゃないのと思うようになった。これが新たな悩みのタネになるのは間違いないけど、若い頃、そのタネを拾おうとして転んで底なし沼に落こっちゃったのとは違って、その『タネ』が美しい花を咲かせるのを待つのもいいかもしれないと思うようになった。

ようやく、ボクなりに祖母さんの生と死を受けとめることが出来たってことなのかもしれない。
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