2011.3.11.東日本大震災が起き、宮城県石巻市の大川小学校で、児童74人、教職員10人、合わせて84人が、津波にのみ込まれ亡くなってしまいました。
先日、傾聴ボランティアの「楽々講座」で、出席した全員が、今年自分にとっての「一字」を出し合いました。
その中の、一人西野さんは、「寄り添う」の「添」を決め、その決めた理由を説明しながら、涙を流し、
「宮城県石巻市の大川小学校で、児童74人、教職員10人、合わせて84人が、津波にのみ込まれ亡くなったのは、『人災』だった」ことを話しました。初めて知り、衝撃でした。
西野さんは、今年の能登震災でも、2011年の東日本大震災でも、ボランティア活動に参加して、「寄り添う」ボランティア活動を心掛けていらっしゃるのですが、「大川小学校の悲劇だけは、人災で、許せない」と怒り、の涙になったのです。
校庭のすぐ裏には山があり、椎茸栽培で、児童たちはなれている裏山だったのに、なぜ、子どもたちが、裏山に逃げようとしなかったのか。
それは、現場にいなかった校長先生が「先生方に、『校庭で待機』するよう指示した」ことで、先生も、子どもたちも、「逃げたくても逃げられなかった」らしいのです。山へ逃げようと言った子どもがいたのに「ここにいなさい」と先生に言われ、津波に飲み込まれていったのです。
その後、父兄たちが、「石巻教育委員と、宮城県」に、損害賠償訴訟を起こし、最高裁が、「子どもたちを安全に保護する義務を怠った」と、父兄たちの訴えを認めたのです。
それにしても、津波が来るまで50分、校庭から裏山の、津波が届かないところまでは、歩いて1分も掛からないのに、なぜ、校長の言うことを聴いて、『ここにいなさい』と、子どもたちを逃げさせてくれなかったのか、
信じられません。校長先生の一言が、子どもを守る先生方をがんじがらめにしていたらしいことは明らかです。
校長先生の一言を守ることが、子どもたちと自分たちの命を守ることより大切だった、っていうことなのです。
十分助かった84人の命を、大人の無能力のために、奪われたのです。「人災」だったと言わざるを得ません。
西野さんの怒り、涙が、二度と出ないために、私たちは、「何が一番大事か」を常に頭に置いて、行動する必要があることを肝に銘じなければなりません。
今日は何の日
▲「聖しこの夜」作曲される。オーストリアの山村の神父ヨゼフ・モールが作詞。翌日村の学校の音楽教師フラ
ンツ・クサヴァーが作曲(1818)▲ベルディ作曲「アイーダ」がカイロで初演(1871)▲チョコレートが初広告掲載
され、 「かなよみ新聞」に「貯古齢糖」と文明開花の明治当て字表記(1878)▲日本初の無線電信成功(1897)
▲有楽町に日本劇場(日劇)開場(1933)▲戦後、アメリカ軍の支配下にあった奄美群島返還日米協定調印(1953)
▲NHK、FM放送開始(1957)▲南ベトナムでクリスマス停戦(1965)▲アポロ8号世界初の月周回飛行(1968)
▲チャップリン死去。88歳(1977) ▲ソ連アフガ二スタン侵攻(1979)▲消費税法案成立(1988)▲ノルウェー
女性初南極点到達(1994)▲福岡ソフトバンクホークス誕生(2004)▲フジモリ、ペルー元大統領恩赦(2017)
▲韓国政府、収賄などの罪で22年の実刑が確定した朴槿恵前大統領を赦免すると発表(2021)