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モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

わが国電信事業の創業

2017年03月18日 | モールス通信
1.電信事業の創業

わが国の公衆電報取扱いは、明治2年(1869)9月19日に東京横浜間の電信線建設工事が着工したときをもって始まった。なお、9月19日は、太陽歴では10月23日にあたり、この日を電信電話記念日と制定していることは、すでに周知のとおりである。

この電信線建設工事は、横浜傳信機役所(明治2年9月19日、わが国最初の傳信機役所)の地を起点として、神奈川から東海道を東京に向かって進められた。

なぜ横浜を起点として電信線の建設工事が開始されたのかといえば、明治2年8月9日、横浜において、フランスから購入した電信機による通信実験が成功し、わが国における電信機実用化の最初となったためである。

「神奈川県の初代県知事、寺島宗則(薩摩国出水郷出身)の依頼により、明治2年(1869)2月、スコットランドの鉄道会社で電信技師をしていたジョージ・マイルス・ギルベルト(George Miles Gilbert)がお雇い外国人電信技士第1号として、横浜港にやってきた。このギルベルトの来日と前後してかねてから購入を計画していたフランス製ブレゲー指字機など電信設備いっさいも届いた。

さっそく、ギルベルトの指導によって、横浜灯明台と神奈川裁判所(当時の県庁)との間約760メートルに電線を架設し、ブレゲー指字機を装置して官用通信の実験を行った。

ブレーゲル指字機は、文字を配列した円盤面を、針が電磁石の動作によって回転するもので、送信側から、針が指定文字を指示するのに必要な電流を送って、針を回転させ通信を行うものである。

受信側では、1名が指針を読みとり、他の1名がそれを毛筆で書きとるというもので、通信能力は1分間に4字から5字であった。」

(参考)※現在、郵政博物館(スカイツリー内)が所蔵している。同博物館の資料によれば、「フランスのブレゲ社が19世紀に製作した電信機である。同館には送信機1台、受信機2台、携帯型の送受信機一体型1台の計4台を所蔵している。平成14年に国の重要文化財に指定された。
特別に訓練を受けなくても使用できる利点がありましたが、受信側では針から目が離せないという難点がありました。そのため、明治5(1872)年にはモールス方式の電信機に取って換わられてしまいました。」とある。増田


明治政府は、横浜を起点とした電信線を東京の築地鉄砲州の運上所(のち税関)構内の東京電信機役所まで架設したのである。この東京傳信機役所は、明治2年10月12日に設置され、公衆電報取扱い開始の前日に「東京傳信局」と改称された。


この電信線架設工事完了が間近になった明治2年11月、いよいよ12月25日(太陽歴では明治3年(1871)1月26日)から公衆電報の取扱を開始する旨を「傳信機の布告」により公示した。

東京の築地は当時、文明開化の発祥の地であった。貿易のために外国人居住の特別住宅地と指定され、居留地と呼ばれていた。外国文化の見本市の観があり、その風俗習慣や流行は東京市民の文化面にいろいろと影響を与えていた。

東京傳信局は、職員6名と小使6名でスタートしたといわれる(寺島遜の談話「電気の友」)。

職員のうち田中銀之助は、神奈川県修文館の塾生で、英人技師ギルベルトから、日本人として初めて電信技術の教授を受けた4人のうちの1人であった。初代局長にあたる人物は、誰だったか不明である。

2.電信創業時の電信サービス

公衆電報の取扱開始にあたり発布された「傳信機の布告」は、電信サービスの内容を次のように伝えている。その内容は、通信の効用、頼信の方法、料金、配達料、電報の受取方法、隠語の使用、取扱開始月と取扱時間などを定めている。

まず第1に、「電信機は幾百里相隔る場所にても人馬の労を省き、線の連なる場所までは音信を一瞬間に通達する至妙の機関なり依て通信相願候も左の規則を心得べし」と電信の効用を述べている。

第2には、「傳信の用向き有之者は横浜は裁判所東角の傳信局に、東京は鉄炮州運上所門右側の傳信局まで、要用を成べく簡略なかなにて相認め持参可申こと」と電報のカナ文字使用はこのときに始まっている。

第3、第4の項は、「傳信機の布告」の中心となる料金を定めている。
当時の料金は、通信料と配達料の二本建てとなっていた。通信料は、「仮名1字に付値銀壱分之割合」であり、配達料は距離によって「早飛脚」による「届賃」が定められていた。ちなみに、横浜関内・関外および東京居留地関内・関外に区別されていた。横浜関内は銀6分、関外(野毛、戸部、石川口など)銀壱匁5分というぐあいである。

東京については、東京居留地関内は銀5分、関外の木挽町、汐留、新橋、数寄屋河岸、銀座町、京橋、中橋、東京府、久保町、三十間堀辺までは銀3匁である。その他、銀4匁5分の人形町、日本橋など、銀6匁3分の両国、浅草など、銀8匁の市ヶ谷、内藤新宿、品川などを定め、以上のほかは「1里銀7匁弐分乃割合を支払うべし」となっている。なお、公用電報はすべて無料であった。

当時の電報料金は、利用者にとっては、どの程度の値段だったか。電文20字の電報を横浜から東京中電局所在地(当時の鎌倉河岸として)に依頼したとすると、通信料、配達料の合計で10銭7厘となる。この額は、電信創業当時の米価(1升は9銭)からみて、米1升2合分に相当する。昭和43年当時の米価(1升217円)で計算すると1升2合の米はおよそ260円となるとなるので、かなり高額であったことがうかがえる。※

※この「かなり高額」との見方があるので、現時点でも試算し、参考としてお示ししたいと考えたが、近年、米価は多くの要因により変動しており、米価のみを利用しての値に確信がもてないので、試算は中止した。(増田)
第5 諸相場其外秘密の儀申し渡し遣し度節は、兼て諸店とも申合し隠し言葉等を以て申し遣してもよい。役所にては申出のまま相認め封の上相達する事に候、若しあらわに申出ても、掛り役人も其往復の事一切他言致さざる掟に付漏るる事なし」と、隠語の使用、通信の秘密を厳守するなど、まことに興味ぶかいものがある。

「布告」は、最後に12月25日からサービスを開始するむね述べ、取扱時間を「「朝第八時より夕第八字迄開場」と記している。これは、現在でいう「朝8時から午後8時まで」の意味である。

3、横文電報サービス

在留外国人からの要請によって、横文電報(欧文電報)のサービスを開始したのは、明治3年(1870)4月16日である。この横文電報の開始にあたって、政府のもっとも頭を痛めた点は、通信事務を担当する役人の語学力であった。このため、日本政府機械方燈明台局お雇い技師長ブラントンの名で、英字新聞に広告された「布告」には、次のように正直ないいわけまで書かれていたことは興味深いことである。

295号  4月16日

横文通信の布告

一、横浜東京間傳信機当時日本語通信開局ニ相成居候処此度外国人ノ利便ヲ度リ横文ヲモ通信セン事ヲ欲ス依テ当日ヨリ右傳信局へ書翰横文ニ認メ持来候ハ丶可成丈精密且速ニ通信スヘシ然レトモ別段欧羅人ハ不雇置故ニ急速且精密ニ通スル事慥ニ請合難キ事モ可有之ニ付右ノ廉ハ兼テ承知ニテ来ルへシ

一、傳信局横浜ニ於テ県庁構内東京ニ於テ築地運上所内ニ設ク発局時限ハ毎朝第八時ヨリ毎夕八時迄トス

一.横文通信賃銀二十語以下金壱分但シ名当書六語迄ハ賃銀ナシ
 右二十語以上ハ十語ニ付金壱分ツ丶ノ割合ナリ

一、書翰持込ノ儀ハ里数二マイル内ハ無償二マイル外ハ一マイルニ付金弍朱ツ丶ノ割合ナリ

右神奈川県庁ノ命ニ依テ布告スル者也

横浜弁天 

日本政府機械方
アール・ヘンリー・ブラントン

なお、取扱時間であるが、旧歴が一般に使用されていた当時でありながら、新時刻法が使用されているのは、電信が舶来じこみであったことだと解釈される。ちなみに、明治5年駅逓寮※から出された郵便に関する「覚」では「朝六ツ、昼九ツ半時、夜五ツ半時」のように時間が記されている。
 
※駅逓寮は、駅逓局と名称を変更し、明治18年逓信省となった。

◆出典; 
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)












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