3.幕府における電信建設のうごき
列国から電信機があいつぎ渡来する情勢のなか、幕府においても電信の研究に積極的な姿勢をとっていたといってもよい。
万延元年(1860)1月22日、幕府は公式遣米使節団77名をアメリカ軍艦ポーハタン号にのせて横浜港を出港させた。このとき、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟の願いによって、ポーハタン号の護衛として幕府の軍艦”咸臨丸”が同行することなった。咸臨丸には艦長勝海舟のほか、福沢諭吉、松木弘安(のちの寺島宗則)など90名がのりこんで、遣米使節の出発に先立つこと3日、1月19日にサンフランシスコに向けて浦賀を出港した。
渡米使節一行は、ワシントン、ニューヨークなどを訪問、ワシントンでは電信機の見学をしている。
このときの感想は、使節の一員から「器械奇巧は筆力の及ぶところにあらず、実に驚嘆に堪えたり。たとい幾万里を隔つといえども、瞬間に応答をなす。」といった意味の報告がなされている。
ついで翌文久元年(1861)12月22日、江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港延期交渉を目的に、第1回遣欧使節団が横浜からヨーロッパに向かった。一行のなかには、遣米使節団に同行した福沢諭吉、松木弘安なども加わっており、フランス、イギリス、オランダ、プロシアなどを歴訪した。このときにも、電信の効用について、つぶさに見学しており、さらにカイロからフランス、イギリスあてに電報をうったという記録がある。
文久3年(1863)12月29日、第2回遣欧使節団が横浜を出港した。この使節団の目的は、わが国最大の貿易港である横浜の鎖港を各国と談判することであったが、もうひとつ、電信機を買うこともねらいであった。使節団の出発前、幕府開成所(のちの東京大学)から学問用の書籍、機械などとあわせて、電信機を購入するよう命ぜられていたのである。電信機はフランスで購入し、開成所に無事届けたと記録は伝えている。
慶応3年(1867)1月12日、パリで開催された大博覧会にわが国も使節団を派遣した。そのさい、スイスから同博物館に出品されていた「オートテレガラフ」を購入するとともに、一行中の田辺太一、箕作貞一郎の2人に同機の取扱いかたを習得させている。
幕府が企画したこうした一連の電信機導入計画は、もっとも経済効率が高く、しかも技術の習得がもっとも容易な電信機を輸入することにあった。したがって、アメリカ、フランス、オランダなど、先進諸国の電信事情について、さかんに調査をすすめていたのである。こうしたことにより、外国奉行らが電信機に関して、しだいに知識を深め、また外国の電信事情にも通ずるようになっていった。
しかし、幕府が企画した電信創業へのこうしたあゆみは、必ずしも順調には進まなかった。それは幕末の動乱が大きな要因となっている。
それまで、太平の眠りのなかでほしいままを極めていた徳川幕府の独裁政治も、ようやく崩壊の色を濃くしていった。日米和親条約についで日米通商条約を、勅許をまたず締結したことが人心を刺激した。鎖国主義者はその独断専行に憤激し尊王攘夷のスローガンをかかげ、その不信の罪を鳴らした。開国か鎖国か、世相はいちじるしく混乱の様相をみせていった。
そして慶応3年(1867)10月14日、ついに徳川15代将軍慶喜は、家康以来の征夷大将軍の職を辞し、大政奉還のやむなきに至る。
このため幕府が電信創業についやした苦心も、ついに実現できず、すべては新政権の手にゆだねられたのである。<つづく>
◆出典;
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
列国から電信機があいつぎ渡来する情勢のなか、幕府においても電信の研究に積極的な姿勢をとっていたといってもよい。
万延元年(1860)1月22日、幕府は公式遣米使節団77名をアメリカ軍艦ポーハタン号にのせて横浜港を出港させた。このとき、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟の願いによって、ポーハタン号の護衛として幕府の軍艦”咸臨丸”が同行することなった。咸臨丸には艦長勝海舟のほか、福沢諭吉、松木弘安(のちの寺島宗則)など90名がのりこんで、遣米使節の出発に先立つこと3日、1月19日にサンフランシスコに向けて浦賀を出港した。
渡米使節一行は、ワシントン、ニューヨークなどを訪問、ワシントンでは電信機の見学をしている。
このときの感想は、使節の一員から「器械奇巧は筆力の及ぶところにあらず、実に驚嘆に堪えたり。たとい幾万里を隔つといえども、瞬間に応答をなす。」といった意味の報告がなされている。
ついで翌文久元年(1861)12月22日、江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港延期交渉を目的に、第1回遣欧使節団が横浜からヨーロッパに向かった。一行のなかには、遣米使節団に同行した福沢諭吉、松木弘安なども加わっており、フランス、イギリス、オランダ、プロシアなどを歴訪した。このときにも、電信の効用について、つぶさに見学しており、さらにカイロからフランス、イギリスあてに電報をうったという記録がある。
文久3年(1863)12月29日、第2回遣欧使節団が横浜を出港した。この使節団の目的は、わが国最大の貿易港である横浜の鎖港を各国と談判することであったが、もうひとつ、電信機を買うこともねらいであった。使節団の出発前、幕府開成所(のちの東京大学)から学問用の書籍、機械などとあわせて、電信機を購入するよう命ぜられていたのである。電信機はフランスで購入し、開成所に無事届けたと記録は伝えている。
慶応3年(1867)1月12日、パリで開催された大博覧会にわが国も使節団を派遣した。そのさい、スイスから同博物館に出品されていた「オートテレガラフ」を購入するとともに、一行中の田辺太一、箕作貞一郎の2人に同機の取扱いかたを習得させている。
幕府が企画したこうした一連の電信機導入計画は、もっとも経済効率が高く、しかも技術の習得がもっとも容易な電信機を輸入することにあった。したがって、アメリカ、フランス、オランダなど、先進諸国の電信事情について、さかんに調査をすすめていたのである。こうしたことにより、外国奉行らが電信機に関して、しだいに知識を深め、また外国の電信事情にも通ずるようになっていった。
しかし、幕府が企画した電信創業へのこうしたあゆみは、必ずしも順調には進まなかった。それは幕末の動乱が大きな要因となっている。
それまで、太平の眠りのなかでほしいままを極めていた徳川幕府の独裁政治も、ようやく崩壊の色を濃くしていった。日米和親条約についで日米通商条約を、勅許をまたず締結したことが人心を刺激した。鎖国主義者はその独断専行に憤激し尊王攘夷のスローガンをかかげ、その不信の罪を鳴らした。開国か鎖国か、世相はいちじるしく混乱の様相をみせていった。
そして慶応3年(1867)10月14日、ついに徳川15代将軍慶喜は、家康以来の征夷大将軍の職を辞し、大政奉還のやむなきに至る。
このため幕府が電信創業についやした苦心も、ついに実現できず、すべては新政権の手にゆだねられたのである。<つづく>
◆出典;
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
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