城郭 長谷川博美 基本記録

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滋賀県長浜市余呉町西天神古墳 

2021-04-28 21:55:40 | 古代史
城郭ビイタ論 上文字クリック

北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック

滋賀県長浜市余呉町西天神古墳 

◆質問者
本論で一番大切な要点とは何ですか?

◆長谷川
私は踏査中や見学中には城郭だけに集中
していない、同じ山尾には古墳も点在し
実は城郭は古墳を改修して中世や戦国期
に城塞としている。その様な時代を超え
て遺跡の全体像を俯瞰解明しようとして
る私が存在します。古墳だけに固執して
いない城郭だけに固執していない遺跡を
冷静に見る視る観る見学眼を世の中の人
は常に養って欲しいと常に思っています。
今回の投稿は西天神と言う円墳の墳丘の
みに捉われず墳丘を包み込む平面も含め
ての古墳の祭祀をも鑑みた遺跡観察また
遺跡考察の意味が含まれています。

城郭ビイスタ論 上文字クリック

 令和3年4月某日、滋賀民俗学会会員であり、
NPO法人、自然と歴史ロマンの会の理事の
田畑喜久弘氏と西余呉西天神古墳を略測する
為に訪れた。最初の写真は同墳の西部の周壕
を撮影したもので墳丘の西肩部より西部周壕
端部まで凡そ9.15mを計測する事ができた濠
や墳丘は長年の経年変化で風化しており緩や
かな地形を観察する事が可能である。
墓域北部には同古墳の祭祀用削平段または倍塚と
思われる削平面も写真の様に確認する事が可能だ。
平面図を作成したが墳丘は円墳で直径約15mを
計る規模である。墳丘のみに捉われず墓域評価
を巨視的に捉えるなら約南北54.9mに及ぶ遺跡
である事が理解できる。
更に立体的に鳥瞰図を用いて解説するならば
東に墓域入口と思われる痕跡と円墳岡の東と
北には顕著な墓域人工作平面が存在してこの
面から墳丘部のでの高さは約2メートルを計
り円墳北腰部の祭祀用人工平面と合わせ総合
的に西天神古墳を評価するならば遺跡として
は見応えのあるものと言える。円墳である墳
丘側面「法面」には坂口黒田長山古墳のよう
な葺石は認められない。

追記
私は城郭遺跡も古墳遺跡も双方同じく興味
深く観察し見学する習慣を持っている私は
様々な視点や視座に立って遺跡を解説した
いと思っている。当然の事ながら当該古墳
はコンパス円形の設計理論や構図を基準に
し円墳の縄張りが施工されている事が解る。


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愛知の話題! 愛知考古学!

2020-09-16 04:30:18 | 古代史

愛知の皆様へ

炎天下の愛知県で考古学発掘に
取り組む田畑喜久弘先生の姿に
衝撃を受けられた方も多いかと
思います。

 さて愛知県下の考古学や弥生
時代の文化文物に興味のある方
は是非とも以下の催事に御参加
下さい、宜しく御願致します。



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2600年前の日本についての記録 倭国の王とはだれなのか?

2020-07-27 13:48:34 | 古代史
2600年前の日本についての記録 倭国の王とはだれなのか?

日本の歴史が古い事は良く知られている
が大和朝廷が成立する以前の日本の女王
は『魏志倭人伝』の記録する、卑弥呼が
有名だが『魏志倭人伝』よりも更に古い
記録『大蔵経』『一切経』には紀元前八
百年も前の倭国「日本」が記録されてい
る。
『一切経』の中の「倭国、発音はウワと
言う。東海の海のなかにある小さな国で
ある。身体に朱色の丹を塗っている。」
とある。後の時代の古墳時代の遺跡から
発掘されてる人物埴輪にもその顔に朱丹を
塗った例が多く古墳石室内からも、朱丹が
出土している。古代の日本の習俗を想像す
るとたいへんロマンに溢れていると言える。

『一切経』の中の倭国の原文は
「倭国(烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内
以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也
従人委声)」と言う記録である。

現代から約2600年も前に既に日本「倭国」が
存在した事に驚きを隠せない。さてその頃の
倭国の王は、どの様な氏族や一族であったの
であろうか?もしかして?その王族の血統的
な子孫は御近所に住む平凡な「おっちやん」
が2800年も前から続く倭国王の子孫であると
想像すると何故か微笑ましく身近に感じられ
る事であろう。日本の歴史は間違いなく何万
年も前から継続している事は唯物論的考古学
遺物が証明している。民主主義日本国の主役
は言うまでもなく我々日本に住む人々である。
コメント (6)
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縄文遺跡発掘

2020-06-16 18:12:22 | 古代史
縄文遺跡発掘

某年某月某所で私は縄文遺跡を発掘していた。

①漁具石錘「せきすい」を採取した。
 石の左右に糸を結ぶ為の加工痕が残っている。

②赤チヤート製のスクレイパーを採取した。
石器としては完形ではなく片刃が付いて
いた鋭く鋭利に加工された状態だった。
今でも切れそうな鋭い感覚が残る。

③縄文土器も発見した。
羽状紋がかすかに認められた。

④隣で発掘する人は
 黒曜石の鏃を発見された。
ガラス片の様に鋭く透明だ。

◆城郭見学でもそうだが実際に歴史の現実
を体験学習する事は貴重な人生体験である。

▼イラスト 長谷川博美 



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考古学の森 縄文の森 おきながの郷にて

2020-06-16 04:53:56 | 古代史
考古学の森 縄文の森 おきながの郷にて

某年某月発掘作業に出掛ける。
羽状紋の縄文土器を発見する。
凸帯紋の縄文土器を発見する。
サヌカイト製の鏃を発見する。
猪垣の土塁側面の側溝を発掘。

しかし是等を作って生活して
いた人々は全員もうこの世に
はいない。全ての生き物には
必ず臨終が訪れる。人が生き
ている間に人は学び集い喜怒
哀楽と生労病死を、体験する。

みんな仲良く日々を暮したい。
人間の考えや方や発想は様々
あるが互いの人格を尊重して
穏かに暮したい。縄文の森に
も伝染病や幼児の早世や不猟
や飢饉や他族との抗争が存在
した事であろう。しかし月日
は光陰の如く流れさり土中へ
と縄文の歴史も消えて行った。

今令和という時代を生きてい
るが、やがて全ての人々は、
消えて無くなる運命にある。
景で助けや協力を賜った人
に深く感謝を申し述べたい。
御蔭様で本当に感謝します。

息長の郷にて「更級日記」

雪降りあれまどふに、ものの興もなくて、
不破の関、あつみの山など越えて、近江
の国おきながといふ人の家に宿りて、四
五日あり。みつさかの山の麓に、夜昼、
時雨あられ降りみだれて、日の光もさや
かならず、いみじうものむつかし。そこ
を立ちて犬上(いぬかみ)神崎(かんざき)
、野洲(やす)、栗太(くるもと)などい
ふところどころ、なにとなく過ぎぬ。湖の
おもてはるばるとして。なで島、竹生島
などいふ所の見えたる、いとおもしろし。
勢多の橋みなくづれて渡りわづらふ

『 更級日記 』(さらしなにっき /
 さらしなのにき)は、 平安時代 中
ごろに書かれた回想録。 作者は 菅原
道真 の5世孫にあたる 菅原孝標 の次女
 菅原孝標女 。 母の異母姉は
『 蜻蛉日記 』の作者・ 藤原道綱母
 である。

犬上とは現在の滋賀県犬上郡の事。
多賀大社も近江国犬上郡多賀町に。


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