城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆一般歴史愛好家
長谷川先生の城郭ビイスタ論は私から見たら
蜘蛛の巣の網の線にしか見えず縄張じやない。
そんなの城郭と放射線は全く関係ない事です。
第一山城も平城も自然地形だと考える事です。
◆長谷川
山城は自然地形を人口的に幾何学的に人為的に
加工しています。その形状を観察するのが見学
つまり城郭見学です。平野部にある平城も人為
的加工されています。城に訪れる事は探訪です。
城に行く事は観光行楽と言う分野です。城郭は
人為的に縄張、縄打、普請、丁張、しています。
◆質問者
『兵法雄鑑』の付城の図を紹介して下さいよ!
◆長谷川
江戸の軍学ですから参考程度に見ておいて下さい。
◆対談者
多賀道場山城見学会は長谷川先生が講師
解説されましたか私達城郭見学者は大変
勉強になり本当に有意義な城郭学習会で
した。
◆長谷川
曲輪も1、2、3、と区画されいましたし高度な
放射線測量「ビイスタ工法」跡も見学しました。
◆みんな
すげえー僕も行きたかった。私も行きたい。
◆助言者
ただ山に行くだけでは何にも勉強にならない
わ。チヤント図面を書いて教えてくれる先生
が貴方の会に居られるのか?自分は何を求め
城に行くのか冷静に考えてみる事が大切よ!
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論を理解する
人々やその特性を持った人の傾向とは?
◆長谷川
それは歴史書の文字ばかり追い求めるゴリゴリ
の文字歴史愛好家様よりも、幼少期少女時代か
ら折り紙「幾何学練習」糸取り「織物の練習」
として脳を柔軟に使って来られた御婦人が多い
んです。つまり幾何学発想思考の素養が根本的
に見付いている人は私の理論を逸早く理解する。
城郭っとはそもそも幾何学で成り立っている畑
で取れるナスビやキュウリなどの天然の形状で
ないのです。何故平城鯰江城の御殿屋敷が四角
形ではないのか?よくよく考えて見る事ですね。
◆例えば正方形の折り紙を繰返しすれば45度の角
度を八カ所を求める事が可能です。これ応用可能。
◆長谷川
城郭の放射測量に持ちいられる角度は規矩術を応用
城郭の放射測量に持ちいられる角度は規矩術を応用
した勾殳玄の角度により各部の角度が規定測量され
ています。規矩術を応用した「勾殳玄法」で角度を
出します。扇や桶の設計は典型的な東洋規矩術です。
◆また360度角度とは異なる弧度法という分度方法もある。
これは家族でケーキを切ったり西瓜切る時自然に使います。
◆対話者
長谷川先生!先生の城郭ビイスタ論の
視聴者の人数が増えていますよ!先生
の城郭放射線講演をウチの町でも是非
ともコロナが終息しましたら実施して
欲しいです。ところで近江国鯰江なま
ずえの城にビイスタ設計は存在します?
◆長谷川
見事に明確に蒲生郡誌図は存在致しますが
残念な事に現在令和の現代は確認不可能!
◆対話者
この鯰江城で気になる構造やはり何処です?
◆長谷川
元亀元年浅井長政は鯰江城に兵員を入れて
織田信長の岐阜城帰還を妨害した事が文献
『信長公記』に記されています。私が注目
したい部分はAとBの半円形の大きな堡塁
に興味を強く引かれます。おそらく東海型
や甲信越型の丸馬とは異なる半月堡塁半円
形の堡塁です。これは近江鎌刃城でも存在
し、半月堡塁の一種の曲輪かと思われます
◆長谷川 鯰江城のA、B、の曲輪は本当に
内側、ア、イ、から綺麗に縄張されています。
◆長谷川
ちにみに小谷城のお馬屋敷「半月堡塁」は緻密な横矢
が前面に密集して今更ながら驚いてしまいます。その
赤線の密集度はまるで扇の如く緻密に縄張されてます。
◆対話者
しかし何本も計測測量線が存在しますね?
◆長谷川
漢字の計の意味は既に解説されてますが
多数の計測は言葉を十回以上交して測量
するまあ十は測量針の意味があるとされ
ます。針とは測量ポイント固定の針です。
▼小谷城出丸放射線測量痕跡
◆質問者
近江の半月堡塁のほんの少しだけでも例を教えて下さい。
◆長谷川
浅井長政/羽柴秀吉の小谷城出丸のその構造です。
とくに半月堡塁や桝形は見事な縄張設計ですし
城郭縄張幾何学も見事で非常に高度なものです。
◆質問者
近江の国の半月堡塁の類例を更に紹介して下さい。
◆長谷川
永禄末年期に佐々木六角が織田信長迎撃用に築城
した東近江市の和田山城を見てて下さい。土塁に
囲まれた元古墳だった半月堡塁「前衛」?古墳を
利用して作られた櫓台「後衛」?はそれぞれ半円
形の縄張を用いられております。前衛と後衛の中
には仕切土塁として「喰い違い虎口」が現存する。
◆質門者
浅井備前守長政の長女「淀殿」の居城、慶長大坂
城の有名な真田丸の形状はどの様なものとです?
◆長谷川
正確に詳しく解明されていないと私は思います。
◆番外質問者
慶長大坂城女主は浅井備前守長政の長女の茶々こと淀殿で
す。大切な大坂城の城主は浅井長政の外孫に当たる秀頼で
す。慶長大坂城籠城では最初後藤又兵衛を大坂城の出丸に
いれますが次に真田信繁「幸村」を入れて真田出丸として
真田が徳川軍を真田丸で難渋させた「真田丸」が有名です
が真田丸は浅井氏小谷城出丸に似た構造ではありまんか?
私個人は真田丸は小谷城「御馬屋敷曲輪」や「出丸」の様
式を継承した堡塁つまり砦ではないかと考えてるんですが?
▼ 『極秘諸国城図』大坂真田丸図
◆長谷川
全く私には真田丸の縄張は解りません。
『石山要録』に「寛永三年秋、備中守阿部正次
為下知、先年闘戦刻寄手之仕寄場三ヶ所并真田
丸ヲ破却ス」とあり。真田丸は冬の陣後に破却
を受けた後も寛永3年(1626)も大坂定番に着
任した阿部正次の指示により二度破却されてお
り真田丸の縄張は全く不明です。
◆質問者
長谷川先生の放射状縄張ビイスタ理論ならば
真田丸を私は概略復元可能だと思いますが?
◆長谷川
寺院の町割概略復原想像できますが真田丸の
復原は城郭が破壊された以上無理と思います。
◆質問者
こんな形状の2箇所の半月堡塁を持つ砦かと?
▼近江和田山城
◆大阪府豊能郡能勢町 森上城 長谷川博美イラスト図
◆どの様に縄張や縄打や丁張が存在したのか考える事
◆長谷川
貴方はもしかしたらこの様な真田丸を想像しておら
る私は研究家です現実の城や砦を見て解説する人間。
確かに大坂城女主「淀殿」や羽柴秀吉の人財は近江
出身者が多く大坂城の外郭出丸「真田丸」にもその
もしかしたら影を落としているかもしれませんね?
◆長谷川
淀殿の父浅井長政は小谷城本丸から赤尾郭に降って
最期は本丸でない場所で自害しています。子供の淀
殿や外孫の秀頼も本丸から一旦大坂城の山里郭へと
降って自害しています。これは奇妙にも偶然の事か
とも思いますが?
◆長谷川
大坂真田丸には水溜めが存在したとされます。真田
丸の空堀水色の部分は「水」が存在したのでしょう。
騎馬には大量の飲料水が不可欠です。小谷城で前衛
に馬洗池があります。真田丸には全面の空堀に三重
の柵が存在したとされますが小谷城の半月堡塁たる
馬屋の高土塁の下の周囲「お茶屋」の低土塁も見学
の時には必ず見学するように致しましょう。
浅井長政の評価
◆経営者的感覚の人
①状況判断のミス 交渉相手選択のミス
浅井長政は経営者として手本とすべき武将でありません。
まず彼は織田信長や徳川家康と敵対して北近江の小谷城
に自滅した武将です。また本来、織田徳川と友好関係を
継続すれば少なくとも日本を代表する№2名門大名です。
嫁=信長の妹「お市」
娘=淀殿 淀城主秀頼生母
孫=豊臣秀頼 大坂城城主
娘=お江 三代将軍家光生母
孫=徳川家光 徳川三代将軍
娘=初 京極高次妻
子孫=現代皇室
②人材確保のミス 有能人材の認識不足や不採用
彼の配下に以下の様な有能な人材が眠っていたが
1 築城者 大名 藤堂高虎「犬上郡」
2 作庭家 大名 小堀遠州「坂田郡/浅井郡」
3 戦闘家 城主 磯野丹波「伊香郡/坂田郡」
4 民政家 大名 石田治部少輔三成「坂田郡」
5 民政家 武家 石田正澄 同正継「坂田郡」
6 戦闘家 大名 宮部継純「本姓土肥」坂田郡
7 有識家 大名 新庄駿河守「坂田郡」
8 民政家 大名 田中吉政 「浅井郡」
9 戦闘家 武家 渡辺了「睡庵」「浅井郡」
10 大名 賤ケ岳七本槍 脇坂安治
12 武家 賤ケ岳七本槍 片桐且元
13 日本屈指の鉄砲生産地坂田郡国友管理不足
14 一時 竹中半兵衛を浅井郡に居住させ保護
15 一時 武人甲冑家の日野根備中を保護した
これだけ持ち駒や人材を採用育成促進できない人。
優れた武将を採用し育成したの者は羽柴/豊臣秀吉。
◆長谷川
まあまあ歴史人物談義はそれぐらいにして下さい。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論「放射状測量」縄張術論の
動画が全く衰えをみせず順調に動画視聴物が増えてます。
驚愕!織田信長を恐怖震撼せしめた浅井長政の行動範囲
◆城郭人
すみません!追加質問です!元亀の騒乱浅井朝倉
の比叡山山中の比叡山中の一本杉の砦図の城郭内
通路、いわゆる、当時の兵員達が使った、城道
「城内通路」を解説して下さいませんか?ああ
そかれら今巷間で大変話題になっている縄張の
ビイスタ論「放射線」縄張論も一本杉の城に存
在しますか?
◆長谷川
それでは一本杉の城の放射状縄張図面2図を見て
下さい。
図1
図2
◆みんな
すげえー!超絶縄張図が展開されすご過ぎ!
長谷川先生!スゴイわ城郭研究視点大革命!
◆対話人
それ見て見なさいやはり流石は伝説の研究家!
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆長谷川
冷静に願います。城郭は謙虚冷静丁寧が必須!
小谷城は浅井備前守長政の居城です。出丸は
非常に優れた城郭遺跡です。城の前面の半月
堡塁/半円形銃座も見事な形状と縄張でしたね?
▼小谷城 出丸 穂斜線 ビイスタ 縄張図 城郭幾何学
▲長谷川
素晴しく計画的で緻密な放射状縄張が見られますよね。◆反論者
ふんウソだ!このな砦だと私は絶対思っていません。
◆対談者
反発せずに先入観に捉われず率直に土塁の形を見学
しましょうよ!城郭探訪は行く事!城郭見学は素直
に城郭の形状を冷静沈着に観察し考える事なのです。
『城郭探訪』と『城郭見学』では分野が全く異なる。
◆長谷川
それでは複雑に曲輪構成されて縄張りされた城址
の部分は今回省略して解説致しますが、城址には
袋小路状になった所謂、行き止まり曲輪も存在致
一廉の名の武将が布陣した、遺構と思います。
船で言えば船長室、会社で言えば社長室や重役室。
◆織田信長は尾張時代に守護職斯波
義銀を傀儡守護職としてやがて是を廃棄
し次は覚慶を朝倉義景が義昭とすると次
は足利義昭を将軍として傀儡政権として
利用し信長は近畿に北陸に東海に中国に
自らの覇権を拡大して行くのであるが、
中国の毛利氏に属する陣僧安国寺恵瓊
の天正元(一五七三)年十二月二十日付
の山県越前守宛書簡は巷間に流布してい
る。「信長の代、五年、三年は持たるべく候。
来年あたりは、公家などに成らるべしと見及
び候。左様て後、高ころびにあふのけに
ころばれ候ずると見申し候。
藤吉郎さりとてはの者にて候」 と
安国寺恵瓊は信長の滅亡と秀吉「藤吉郎」の
命運や力量を分析予想している事が興味深い。
対談者
それにしても浅井朝倉が比叡山に布陣築城した
遺構も滋賀県中世城郭分布調査報告9で、非常に
詳細に縄張図を作成しておられますね?令和2年
の十月初頭に私はそれらの図が長谷川博美先生の
作成である事を知り改めて腰を抜かしております。
平成4年は1989年の事です。現在は令和2年です。
2020年です。これは今から約31年も前の事になり
ます。しかし長谷川先生は全世間に知られてない。
意図的に過小評価される全く無名歴史城郭研究家
だと私は痛感致します。誰かが先生を発掘し顕彰
しエールを送る事をしなければと、私は常に思っ
てます。伝説のレジエントの城郭研究家!ですよ!
▼過去写真です。(注意)
長谷川
私は常に職も名誉も地位もなき無名の素浪人。
一般大衆様
しかし、何と言っても1983年の資料を見れば
何と早くも長谷川先生の名前が早々と登場し
ています。やはり長谷川氏は城郭調査の老舗。
城郭見学人
下図は素晴らしい精度!信じられない解像度だ。
有名先生が長谷川先生の事を「縄張りの魔術師」
その調査能力は「神の領域」とまで言われて驚い
た事、があります。野球で言えば「鈴木一郎」氏
ボクシングで言えば「井上尚弥」氏などの信じら
れない超絶技巧、粘菌学者なら南方熊楠的な人だ。
一般者
いるよね~え!時代劇に登場する長屋に住む素朴
で貧乏で人情家、そのくせ稀代の剣豪の浪人とか?
17人だけで美濃稲葉山城占領した竹中半兵衛とか?
全く一般社会には登場しない、謎の人物が居ます。
質問者
有職故実「ゆうそくこじつ」とは一体何ですか?
長谷川
ならわし、式次第、衣冠束帯、殿中昇殿作法等など
を言います。江戸次第の勅使饗応役指南をしていた
人物は室町時代から続く高家筆頭の吉良上野介です。
勅使饗応の作法式次第由緒の事柄を有職故実の識者。
日本の宮中行事の有職故実を記した『公事根源』と
言う宮中行事を記した書物があります。勿論これは
宮中行事概論とも言えるもので、実際の宮中行事を
再現するには更に詳しい口伝の有職故実を必要とし
ます。令和の天皇即位には、皇室の伝統的な所役の
さしば所役「大きな団扇」を持つ人9名が省略され
て令和の現代に相応しい電子照明装置も用いられて
おります。中世から「松」は皇室の翳し「かざし」
言葉皇室を意味する言葉、「山」は皇居の鬼門を
守護する、霊山、叡山、比叡山を意味します。現代
も皇居の式典が実施されるのが「松の間」忠臣蔵で
登場する刃傷松の廊下にも「松」が描かれています。
また太田牛一の著した『信長公記』にも安土城天主
に「松の絵を描いた座敷」が記されている事も是は
安土城に来訪する皇室の勅使を接待する為の部屋で
しょう。松は皇室を意味します。また庭は朝廷をも
意味します。古典や記録に潜む掛詞や延喜式所収の
忌言葉も見ておくと良いでしょう。現代の結婚式で
も、割れる。切れる。の忌言葉を禁忌として使う事
を控える習慣が日本の言霊文化の中にも潜在します。
明智光秀は室町幕府の昇殿作法有職故実も知ってた
事でしよう。『公事根源』も蔵書していたかもしれ
ませんがやはり宮中昇殿作法や有職故事に詳しい人
光秀の友達と言える人は、やはり当時神祇官神職の
吉田兼見でありましよう。これらの有職故実を知る
為には、美濃よりも公家が疎開してきて住んでいる
越前一乗谷や京都近辺が学門的に有利と言えましょ
うか?
一般様
最近大河麒麟が来るに『公事根源』が登場しました。
長谷川
まあドラマはドラマ、歴史は、歴史ですから気楽に
驕らず誇らず謙虚に、純粋に城址を見学しましょう。
城郭人
真に、すみません!ほんの一部だけでも良いです。
長谷川先生上図城郭遺構を簡単に解説して下さい。
長谷川
上図面見れば何の為に築城されたのか一目で解る
と思いますが?下図でほんの一部だけ解説します。
城郭人
長谷川先生!すげえ~!まるで精密機械の設計図
みたい、長谷川先生は凄腕の素浪人の剣豪みたい
これで仕官の口「就職先が有れば良かったのに?」
長谷川
言葉を謹んで下さい。私がスゴイんじやなくて
戦国城郭遺構は当時の最高レベルの技術を駆使
したハイテクである事を認識して欲しいのです。
長谷川
城郭の本当の先生とは人でなく城そのものです!
一般様1
浅井長政は現代皇室の先祖の1人にも相当します、
また大坂城の淀殿の実父であり豊臣秀頼の外祖父
に、また徳川二代将軍徳川秀忠の御台所正室小督
の実父に相当浅井長政は徳川三代将軍徳川家光の
外祖父にも相当致します。彼の歴史的存在意義と
戦国大名として行動範囲を是非とも御教示下さい。
対談者(近江旧浅井郡居住者/現長浜市)
※浅井長政は浅井郡近辺だけで活動していたと
言う狭い地域社会歴史観や固定概念から脱却し
て浅井長政が広域活躍活動した人物である事を
認識する事を長谷川先生と大観する事が出来た。
一般様2
それは地域歴史観や地域限定行政歴史観と呼ぶ
歴史的人物の行動範囲を狭く理解解釈する俗に
世間で言う狭視野自治体歴史観と違いますか?
長谷川
言葉を慎重に選んで、誤解の無いような言動で
社会を冷静に観察しますと、民間、地域、有志、
行政、学府、観光、商業、など様々な社会集団
が存在致します。従ってそこに集合される様々
な人々の目的や趣旨によって、歴史講演の趣旨
が異なる場合を時に沈着冷静に観察しましよう。
一般様2
歴史城郭研究家の長谷川先生と活きた生涯学習を
実体験された経験※メリットを是非教えて下さい。
対談者(近江旧浅井郡居住者/現長浜市)
①城郭フオーラムに参加城郭構造の基礎知識得た。
②米原城歩会に参加して二重堀切を現地体験した。
③越前金ケ崎城も横山城でも二重堀切に納得した。
④文献『信長公記』を学び浅井長政の家臣の磯野
丹波守が伊勢「三重」に2回も派兵されている事
を学んだ。これは浅井の派兵である事。その他、
金ケ崎の戦い、志賀の陣(比叡山/京都/坂本方面)の
浅井長政の行動範囲が越前敦賀、近江高島、京都
でまでも行動した事なども、改めて認識しました。
対談者(近江旧浅井郡居住者/現長浜市)
先ず私の本質が真実や現実を中心とした歴史の真実
を知りたいと言う性質を持っている事を自分自身が
自覚しました。観光行楽か現実追求を求めているか?
また浅井長政が永禄中期に佐々木六角の後藤騒動の
後、蒲生郡の布施三河守を救援する為に東近江布施
山城に向かった記録も読んで非常に驚きました浅井
は蒲生郡まで布施三河守救援に向かった事に驚いた。
▼講師長谷川博美布施山城見学会、(市辺の皆様とともに)
対談者(近江旧浅井郡居住者/現長浜市)
また『江濃記』長谷川先生から学んで織田信長
が美濃を領有する以前の浅井長政の賢政時代の
文献も学んで浅井長政の美濃進出の頃の事も学
びました。浅井は美濃に蒲生郡に高島郡滋賀郡
に京都に出陣していた歴史的事実を私は知った。
一般者
長谷川先生!浅井長政軍が京都、醍醐、山科、
そして山崎まで元亀年間に進軍した文献記録
が存在しますか?
長谷川
元亀元年9月21日付けの『護国寺文書』に
ある浅井長政自身の文書に記録されてます。
長谷川
また浅井朝倉の元亀年間の進駐記録として
1570 | 元亀1 | 10 | 20 | 朝倉義景軍と浅井長政軍が ,山城修学寺・一乗寺・松崎等 を焼く〔言継卿記,尋憲記) |
●修学寺は修学院(読み)しゅがくいん京都市
左京区北東部、比叡山南西側のふもとにあった寺。
現在、その跡に修学院離宮がある。 すがくいん。 修学寺。
●一乗寺は京都市左京区一乗寺
●松崎は京都府 京都市 左京区 松ヶ崎
以上浅井が京都洛北部に相当します。
一般者
浅井はすごい行動範囲ですね?京都方面まで
元亀元亀元年6月21日には一旦進軍した現実が!
長谷川
下は元亀年間の戦国年表です。
★は金ケ崎城戦いです。
★★は姉川の戦いです。
長政の書状『護国寺文書』は下図の
★★★元亀元亀元年6月21日に相当します。
一般者
チョトツと待って下さい!驚くべき事に
浅井長政は★★の姉川の戦いに、敗戦したのに
も関わらず★★★元亀元亀元年6月20日頃には
意外な事に、京都、山科、醍醐、山崎に進軍し
ていますね?こんな事は歴史の真実なのですか?
長谷川
歴史的真実現実でありましよう。浅井軍が
京都に進軍した現実を証明する為の文献と
して京都の寺社が浅井軍に対して乱暴狼藉
をしない事を約束保障してくれる浅井長政
直筆の「禁制」や「安堵状」つまり歴史の
真実を証明する文献が将来京都で発見され
る可能性が充分にあると私は思っています。
一般様
ありますよ。これですよ。
勝林院(しょうりんいん)は、京都府京都市
左京区大原三千院の北にある天台宗の寺院。
魚山大原寺勝林院(ぎょざんだいげんじしょ
うりんいん)と号する 。
浅井長政の安堵状(京都市左京区の寺、勝林院)
當院領志賀郡所々
散在公方米内、徳田
畠・屋敷等之事 任
為當御知行旨、全御
領智不可有異儀候
恐惶謹言
元亀元年 浅井備前守
十一月十二日 長政(花押)
大原
来迎院
御同宿中
當院領志賀郡所々
散在公方米内、徳田
畠・屋敷等之事 任
為當御知行旨、全御
領智不可有異儀候
恐惶謹言
元亀元年 浅井備前守
十一月十二日 長政(花押)
大原
来迎院
御同宿中
長谷川
2020年8月に発見された元亀元年11月12日付け
文献資料ですね!下図の年表に是を書き込むと
勝林院文書は★★★★印の場所に該当致します。
冷静に分析しますと、勝林院の当院領を安堵し
て欲しいとある。安堵して欲しい現実の地域は
「志賀郡所々」とあり現代の大津市近辺の事案
を記している事に注意が必要です。また下年表
でも解りますように12月13日には公方足利足利
義昭の仲介で織田と朝倉浅井は和睦し一般に言
う「志賀の陣」は終了します。浅井長政の遠征
や出陣もここまでと言う事になりますが、永禄
初期に未だ織田信長が美濃を領有していなかった
時期の浅井賢政/長政の美濃に進駐した時期の、
社寺宛安堵状禁制将来は、発見される事でしよう。
そこには賢政でない浅井猿夜叉と著名されている
場合もありましよう。禁制の特徴としまして戦国
武将が完全掌握した領地の社寺に宛がうという解釈
よりも短期的に進軍した地域の社寺が自ら進んで
自らの領土の安全保障を進駐した武将に金銭的な
上納金を治めて進駐大名に保護保障してもらう為
の現実的な処置と言えましよう。生き延びる為の、
質問者
長谷川先生比叡山や坂本は何故浅井朝倉勢が
北国に退陣したのに何故織田信長は比叡山を
焼き討ち攻撃したのでしょうか?
長谷川
不思議な事に元亀2年織田信長は比叡山焼き討ち
を実行しますが叡山山麓の日吉山王社の復興や
再興を目的とした越前の朝倉義景の記録が残っ
ております。これも越前、湖西、高島郡の連合
浅井氏の小谷城主要部詰め曲輪「山王丸」なる
城郭名称や浅井久政、浅井長政の幼名が日枝
山王神の使いである「猿」に因んだ「猿夜叉丸」
を名乗っている事にも比叡山信仰、小谷の馬借
坂本の馬借、疋田の馬借などの中世物流ルート
も再検討されるべき事だと思います。浅井朝倉
高島比叡山と言う都への北陸中世海産物流通の
現実を調査研究すべきではかと私は思います。
織田徳川の東海物流圏と浅井朝倉の北陸物流圏
の激しい利権闘争こそが元亀の兵乱の根本では
ないのでしようか?
1572 | 元亀3 | 6 | 朝倉義景,焼討ちを受けた 日吉山王社への寄進のため, 越前国内諸商買人に役銭を課す 〔(4)浄光寺-4〕. |
質問者
長谷川先生?織田信長にとり北陸物流圏を主催
していた、朝倉義景、浅井久政、浅井長政など
織田信長にとり問題外の武将だと思うのですが?
長谷川
そうでしょうか?天正元年に北国で信長が打っ取
った武将の首の骸骨を天正2年まで保存して是を
鑑賞する衝撃的な酒宴が『信長公記』巻には記録
されています。巻七は天正二(1574)年の記事が書
かれ「義景・浅井下野・浅井備前三人首御肴の事」
という記事があり、正月朔日(一月一日)に岐阜城で
行ったと書かれています。この3名とは他ならぬ
北陸北陸物流圏を支配していた、浅井朝倉であり
織田信長を恐怖震撼ならしめた北国の武将達です。
対談者
なるほど信長は「朝倉殿は天下を持ち候らへ」と
まで一時言うほど朝倉義景を過剰に意識していた。
浅井朝倉の首を捨てられないほど心因的恐怖を抱
いて言う事でしょうか?
長谷川
織田信長は永楽通宝の旗印を用いた事や当時の
最大貿易拠点である堺を強く欲した経済権益の
獲得を目的とした商業戦略家と言えます。信長
が浅井朝倉から奪取したのは彼等三人の首では
なく北陸琵琶湖比叡山京都難波本願寺へと繫がる
北陸物流権益の獲得や掌握でありましよう。織田
は平氏の後裔と系譜学上はしていますが琵琶湖と
日本海を結節する運河を計画したのも平入道相国
清盛や息子の小松重盛「平重盛」という事です。
信長は比叡山での浅井朝倉との対陣で「朝倉殿は
天下を持ち候らへ」と言ったのは北陸物流権益圏
江戸時代ならば松前船の日本海側就航です。また
越前の柴田勝家が江越国境の超巨大城郭を築いた
事も北陸保持近畿長浜の結節を目指したものです。
歴史は繰り返される明治の宰相伊藤博文が玄蕃尾
城下に北陸やロシアと近畿東海を結節する為に
旧北陸線の柳ケ瀬トンネルを国家事業として実施
しております。この柳ケ瀬刀根坂で越前の大守の
朝倉義景は大敗して滅んでおります。東海勢力、
東海説流圏と北陸物流圏を近江の息長氏「米原」
を結節点東海北陸連合とし尾張連と結び古代大和
王朝に北陸から大和に入部したのも継体天皇です。
継体天皇は織田信長が言う「朝倉殿は天下を持ち候
らへ」を古代に実施した人物です。信長の本心は
古代息長氏の役割を近江浅井氏や米原の堀樋口氏の
調略に求めた。歴史地理的要因は形を変えて時代を
変えて人間の営みは絶えず繰り返されております。
一般様
実に、おもしろい。切口が全く違う。
戦国史は実に興味が湧くものですね。
長谷川
小谷城から琉球銭が多数出土した事
も浅井氏が日本海や物流にも関わっ
ていた証拠でしょう。浅井家臣垣見
氏が琉球頭成兜を所持していた事も
含めて、不可思議な事が数多いです。
元亀年間の戦国年表
1570 | 元亀元 | 1月8日、武田信玄が駿河を概ね占拠する | 1570/02/22 |
1月23日、織田信長、足利義昭に5箇条を送る | 1570/03/09 | ||
4月20日、織田信長越前攻めに向け京を立つ | 1570/06/03 | ||
4月23日、「元亀」に改元される | 1570/06/06 | ||
4月30日★浅井長政の挟撃を受け織田信長京都へ撤退 | 1570/06/13 | ||
5月21日、織田信長、岐阜へ帰還する | 1570/07/04 | ||
6月14日、毛利元就死去。享年75 | 1570/07/26 | ||
6月28日、★★姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉連合軍を破る | 1570/08/09 | ||
8月20日、今山の戦いで鍋島直茂が大友軍に奇襲攻撃を行う。 | 1570/09/29 | ||
9月12日、石山本願寺門徒、信長方天満森の陣所を遅う | 1570/10/21 | ||
9月20日、浅井・朝倉連合軍宇佐山城を攻め、織田信治・森可成戦死する ★★★『護国寺文書』浅井長政9月21日付け文書 | 1570/10/29 | ||
10月3日、北条氏康死去 | 1570/11/10 | ||
11月21日、伊勢長島一向門徒、織田信興を尾張小木江城で破る 11月12日★★★★『勝林院文書』浅井長政安堵状 | 1570/12/28 | ||
12月13日、足利義昭の仲介で織田と朝倉・浅井和睦 | 1571/01/18 | ||
1571 | 元亀2 | 2月、織田信長佐和山城の磯野員昌を調略 | |
8月28日、池田知正に攻められ高槻城にて和田惟政戦死 | 1571/09/27 | ||
9月12日、織田信長比叡山焼き討ち | 1571/10/10 | ||
1572 | 元亀3 | 5月4日、木崎原の戦いで島津義弘軍が伊東軍を破る | 1572/06/24 |
9月、織田信長、足利義昭に17条異見書を送る | |||
11月14日、武田方の秋山信友、岩村城を落とす | 1572/12/28 | ||
12月3日、朝倉義景兵を越前に返す | 1573/01/16 | ||
12月22日、三方ヶ原の戦いで武田信玄が徳川家康を破る | 1573/02/04 | ||
1573 | 天正元 | 2月13日、足利義昭、織田信長討伐の挙兵を行う | 1573/03/26 |
4月4日、織田信長上京を焼き払う | 1573/05/15 | ||
4月12日、武田信玄死去。享年53 | 1573/05/23 | ||
7月19日、足利義昭、槙島城を開城し織田信長に降伏し、河内へ向かう。これにて室町幕府滅亡 | 1573/08/26 | ||
7月28日、「天正」に改元される | 1573/09/04 | ||
8月20日、朝倉義景自害。享年41 | 1573/09/26 | ||
9月1日、小谷城落城。浅井長政自害。享年29 |