城郭 長谷川博美 基本記録

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城歩会 東近近 新城郭発見 見学会 計画

2023-11-11 18:56:03 | 城址見学会予定 

城歩会 東近江 新城郭発見 見学会 計画

日時 未定   永源寺方面

集合場所時間

▼午前10時

①米原駅東口

▼午前10時30分

②愛東マーガレットステーシヨン

▼午前11時

③某駐車場

▼山中昼食12時

▼新発見城郭11時~15時頃

▼和南城に立ち寄り16時頃

 

 

   ①土日開催

   ②平日開催

新発城郭 匿名 城郭     評価

①A城 竪堀 環状帯郭

               評価★★

②B城 竪堀 櫓台遺構

               評価★★

③C城 伏兵地 土塁壁  軽礎石列

               評価★★★★

 

④E城 伏兵地 巨大土塁 連続竪堀

               評価★★★★★

 

 付録見学おまけ

⑤別途 寄り道城郭 永源寺 和南城

               評価★★★★

▼和南城石垣跡

 

                          

    

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ルート365ルート307小砦を見逃すな

2023-11-11 18:10:26 | 城址見学心得

ルート365ルート307小砦を見逃すな

◆長谷川

文室山の賤ケ岳合戦土塁は重要です。

◆反論者

  ふん何が文室山だよ!歴史書には

登場しないんだよ。マイナーだよ!

 

◆対談者

貴方は合戦の大局を知らない凡人

秀吉自身がここに現地視察に来て

ます。貴方は秀吉の器の大きさや

戦略眼全く解ってない秀吉無視派

 

◆対談者

長浜市余呉町の東野山砦菖蒲谷砦

を長谷川先生の解説で見学した時

に小さなトーチカの様な小砦見学

出来て私は幸運でした先生の解説

を傾聴していた甲斐がありました

 

◆反論者

 私はこんな砦発見出来なかった

認識出来なかった事は納得できず。

 

◆長谷川

ヒントです。長浜市余呉町の堀秀政の陣城

東野山城とその出丸、菖蒲谷城の中間地点

に両陣城を中継する繋ぎの役割を果たす小

規模な陣城を見学しましたね?城郭遺跡見

学の定石や基本として2ヵ所の城郭が存在

するならば両所の中間には必ず中継連絡所

を担う連絡用城塞が存在する事は城郭遺跡

見学の常道でありこれオーソドクスな城郭

基本見学です。こういった土塁による小砦/

阻塞見落とさない事が城郭見学の深奥奥義

や奥の院の入口と言えます。初心者向です。

◆反論者

この様な大坂城仕寄の土塁は絵空

で嘘なのですよ!

 

◆対談者

城跡見学の基本ってやはり土塁を見る

事が基本で土塁に銃身据え銃を放つ。

◆長谷川  ↑   ↑   ↑

この屏風絵を見て下さい!左手の塹壕

伝いに土嚢を運ぶ工兵の姿の屏風絵で

す土塁の陰に隠れて銃砲を放つ鉄砲衆

生々しく描写されています。

 

 

◆反論者

それはウソだ!絵空事の世界ですよ。

 

◆多賀田さん

長谷川先生 八之塚古墳見学に行き

しょう。

 

◆反論者

そんな六世紀の古墳群など城郭とは

関係ない事でしょうが?

 

      

百済寺凸ー八之塚砦凸ー鯰江城凸

 

◆長谷川

そうでしょか?文献『信長公記』の

天正初頭の記録を読むと反織田信長

が百済寺から兵糧を鯰江城へ供給

してたと記録しています。さすれば

百済寺からの兵糧補給線を阻止する

為に織田信長方は陣地を八之塚近辺

に構築する事が兵法を知る者の常道

です要するに鯰江城のライフライン

つまり生命線が百済寺だった事など

誰でもが解る事でしょう。今川義元

配下だった松平元康/徳川家康が兵糧

を入れたりした事は桶狭間合戦では

有名な事です。ロジステイック物流

の流れライフラインを断ち切る事が

合戦に用いられた戦略策と言うもの

 

◆多賀田さん

ふふふ確かに八之塚古墳は古墳どす

が土塁を見落としたらあきませんで

◆反論者

お前ら馬鹿か!古墳の石室露頭

している事も解らないのかよ!

 

◆多賀田様

ふふふ甘いどすな史跡観察力が!

 

◆長谷川

現地に行って仰天致しましたよね!

勿論遺構の起源は二段築造の周溝

を伴う古墳ですが小型戦国城塞に

見事に改造している事なのです!

要するに鉄砲陣地に改造してる!

◆長谷川

砦の導入経路も読取ります。

▼桶狭間合戦 

田方佐久間大学の付城

◆長谷川

八之塚古墳の遺跡鳥観図 

陣営として理想的な形状

しています。

◆長谷川

八之塚砦 推定復元図

『信長公記』より
 
百済寺伽藍 御放火の事
 
元亀四年1573年
7月7日、信長公、御帰陣。その日は守山 
 
 に御陣取り、これより直ちに百済寺 
へ御出で、2,3日御逗留あって、
鯰江 の城に 佐々木右衛門督 立て籠もるを、
攻め衆人数: 佐久間右衛門尉 ・ 蒲生右兵衛大輔 ・
 丹羽五郎左衛門尉 ・ 柴田修理亮 に仰せ付けられ、
四方より取り詰め付城させられ侯。
 
近年、鯰江の城、百済寺より持ち続け、
一揆同意たるの由、聞こし召し及ばる。
4月11日、百済寺 堂塔・伽藍・坊舎・仏閣
、ことごとく灰燼となる。哀れなる様、目も当
てられず。その日、岐阜に至りて御馬を納められ
侯ひき。
 
 
◆長谷川解説
 
付城
鯰江城を攻める為の臨時城塞の事
 
▼佐々木義治鯰江城のビイスタ   ▼至百済寺
 
◆長谷川解説
鯰江城古図をみると佐々木六角
も半月状の堡塁を築城した模様
 
 
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