ルート365ルート307小砦を見逃すな
◆長谷川
文室山の賤ケ岳合戦土塁は重要です。
◆反論者
ふん何が文室山だよ!歴史書には
登場しないんだよ。マイナーだよ!
◆対談者
貴方は合戦の大局を知らない凡人
秀吉自身がここに現地視察に来て
ます。貴方は秀吉の器の大きさや
戦略眼全く解ってない秀吉無視派
◆対談者
長浜市余呉町の東野山砦菖蒲谷砦
を長谷川先生の解説で見学した時
に小さなトーチカの様な小砦見学
出来て私は幸運でした先生の解説
を傾聴していた甲斐がありました
◆反論者
私はこんな砦発見出来なかった
認識出来なかった事は納得できず。
◆長谷川
ヒントです。長浜市余呉町の堀秀政の陣城
東野山城とその出丸、菖蒲谷城の中間地点
に両陣城を中継する繋ぎの役割を果たす小
規模な陣城を見学しましたね?城郭遺跡見
学の定石や基本として2ヵ所の城郭が存在
するならば両所の中間には必ず中継連絡所
を担う連絡用城塞が存在する事は城郭遺跡
見学の常道でありこれオーソドクスな城郭
基本見学です。こういった土塁による小砦/
阻塞見落とさない事が城郭見学の深奥奥義
や奥の院の入口と言えます。初心者向です。
◆反論者
この様な大坂城仕寄の土塁は絵空
事で嘘なのですよ!
◆対談者
城跡見学の基本ってやはり土塁を見る
事が基本で土塁に銃身据え銃を放つ。
◆長谷川 ↑ ↑ ↑
この屏風絵を見て下さい!左手の塹壕
伝いに土嚢を運ぶ工兵の姿の屏風絵で
す土塁の陰に隠れて銃砲を放つ鉄砲衆
生々しく描写されています。
◆反論者
それはウソだ!絵空事の世界ですよ。
◆多賀田さん
長谷川先生 八之塚古墳見学に行き
ましょう。
◆反論者
そんな六世紀の古墳群など城郭とは
関係ない事でしょうが?
百済寺凸ー八之塚砦凸ー鯰江城凸
◆長谷川
そうでしょか?文献『信長公記』の
天正初頭の記録を読むと反織田信長
勢が百済寺から兵糧を鯰江城へ供給
してたと記録しています。さすれば
百済寺からの兵糧補給線を阻止する
為に織田信長方は陣地を八之塚近辺
に構築する事が兵法を知る者の常道
です要するに鯰江城のライフライン
つまり生命線が百済寺だった事など
誰でもが解る事でしょう。今川義元
配下だった松平元康/徳川家康が兵糧
を入れたりした事は桶狭間合戦では
有名な事です。ロジステイック物流
の流れライフラインを断ち切る事が
合戦に用いられた戦略策と言うもの
◆多賀田さん
ふふふ確かに八之塚古墳は古墳どす
が土塁を見落としたらあきませんで
◆反論者
お前ら馬鹿か!古墳の石室露頭
している事も解らないのかよ!
◆多賀田様
ふふふ甘いどすな史跡観察力が!
◆長谷川
現地に行って仰天致しましたよね!
勿論遺構の起源は二段築造の周溝
を伴う古墳ですが小型戦国城塞に
見事に改造している事なのです!
要するに鉄砲陣地に改造してる!
◆長谷川
砦の導入経路も読取ります。
▼桶狭間合戦
織田方佐久間大学の付城
◆長谷川
八之塚古墳の遺跡鳥観図
陣営として理想的な形状
をしています。
◆長谷川
八之塚砦 推定復元図
『信長公記』より
百済寺伽藍 御放火の事
元亀四年1573年
四方より取り詰め付城させられ侯。
近年、鯰江の城、百済寺より持ち続け、
一揆同意たるの由、聞こし召し及ばる。
4月11日、百済寺 堂塔・伽藍・坊舎・仏閣
、ことごとく灰燼となる。哀れなる様、目も当
てられず。その日、岐阜に至りて御馬を納められ
侯ひき。
◆長谷川解説
★付城
鯰江城を攻める為の臨時城塞の事
▼佐々木義治鯰江城のビイスタ ▼至百済寺
◆長谷川解説
鯰江城古図をみると佐々木六角
も半月状の堡塁を築城した模様