城郭 長谷川博美 基本記録

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日本の城の測量文化史 伏見城 江戸城  比較研究論

2024-08-26 13:27:24 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

 

衝撃! 天下人の城 伏見城の謎! - 城郭 長谷川博美 基本記録

衝撃! 天下人の城 伏見城の謎! - 城郭 長谷川博美 基本記録

衝撃!天下人の城伏見城の謎!◆対談者京都山城の伏見城は特に秀吉や家康と深く関わる有名な城跡だと言えます。長谷川先生城郭ビイスタ動画長く好評が続きます。これ見てない...

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日本の城の測量文化史 伏見城 江戸城  比較研究論

◆長谷川

日本の文化能楽の座席には

「正面」しょうめん。

「脇正面」わきしょうめん。

「中正面」なかしょうめん。

3カ所のビューポイントや

観劇の文化がある事は重要

です。安土城のビイスタの

研究を継続していますが

安土城にも

「正面」しょうめん。

「脇正面」わきしょうめん。

「中正面」なかしょうめん。

という能楽で言う「見所」を

ケンショと発音いたしますが

そういう日本の城の測量文化

を研究しようとする学者とし

の姿勢ビジョンを持ってます。

◆質問者

長谷川先生は江戸期の軍学書

を戦争経験のない軍学者学と

として研究には不採用ですか?

 

◆長谷川
私は偏向した学説を申しあげ
る気持ちは毛頭ございません
享保年間まで日本の城はこの
様に測量されていた記録あり
ますから私は基本に従います
日本の伝統文化を否定しない。
 

◆質問者

徳川幕府の江戸城も上記図

の様な様式で縄張されてい

ますか?

 

◆長谷川

江戸城の中核部たる本丸と

西の丸は扇型のビイスタを

Wに重ねたWビイスタ様式

だと思います。これは享保

『量知指南』と同系列縄張

や測量と私は考えています。

◆対談者

城やってる人は城郭ビイスタ

論は令和の時代に必須です!

 

◆質問者

徳川家康は伏見木幡山城を

秀吉時代の城を改修したと

れますが徳川のビイスタ

特徴が伏見木幡山城にも

読みとれますか?

 

◆長谷川

木幡山伏見城跡赤色立体図

(大阪歴史学会様)の図

をお借りしてビイスタ線を

考察、熟慮検討すると家康

の伏見木幡山城にもWビイ

スタは読み取れます。この

部分は徳川の縄張の可能性

があると私は思います。

史学会様には敬意と尊敬の

念とリスペクトの意志を含

めて図版原図を学術目的で

引用させて頂いた事を謹ん

で投稿上で申し上げます。

▼伏見木幡山城Wビイスタ

◆対談者

慶長期に入ると内大臣「内府」

こと徳川家康が右大臣として

伏見小幡山城で政務を執り初め

徳川の城として改修された事か

と思います。慶長5年1600年に

は石田三成方に徳川方武将鳥居

元忠が籠城して落城致しますが

伏見木幡山城にも天下人として

の織豊系、扇型ビイスタも読み

取れるのでしょうか?

 

◆長谷川

天下人織田信長の居城たる

近江安土城下街道方面から

巨大な扇型ビイスタ工法を

施している事が私の研究の

進捗から解って来ましたが

◆長谷川

主君織田信長の覇業の事業の

継承し織豊時代を創出した人

太閤秀吉が文禄慶長の役にて

自らの本営とした肥前名護屋

城は典型的な扇型ビイスタで

縄張りされた天下人の城だと

言っても過言ではないのです。

◆質問者

的確に質問に答えて下さい

伏見木幡山城には典型的な

扇形のビイスタがあるのか?

 

◆長谷川

やはり赤色と黄色で表現した

伏見木幡山城の扇型ビイスタ

は読み取れるという事です。

◆一般者

素晴らしい長谷川先生の研究

学問です。ならば長谷川先生

を慕う弟子様や支持者様とは

日本国に多数存在される事と

存知あげますが?

 

◆長谷川

私は日本一無名です。

私は日本一人気ない。

私の支持者理解者も

限りなくゼロに近い。

 

◆対談者

それ知る人ぞ知る研究家

長谷川先生と言う事です。

 

◆質問者

天下人豊臣秀吉の城には

特徴があります。

▼天正17年 秀吉 小田原石垣山城

▼文禄慶長の役

 肥前名護屋城 太閤秀吉本陣

 重複ビイスタ

◆長谷川

小幡山伏見城にも豊臣系の

重複ビイスタが読み取れる。

 

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安土城 ビイスタ(見栄え)論の意義

2024-08-26 07:09:56 | 滋賀の城 ビイスタ工法

安土城 ビイスタ(見栄え)論の意義

◆質問者

ビイスタを解明する意義は?

 

◆長谷川

放射状測量痕跡を読み取る

事で当時の城を見る視点を

読取る事が可能です。

 

◆質問者

六角の観音寺城城下町石寺と

安土城の城下町は設計的には

類似していますか?

◆長谷川

観音寺城の城下は石寺とよばれる

城下集落ですが上図の如く中山道

に面して多数の放射腺ビイスタが

読み取れます。佐々木六角は石寺

に楽市を開設して城下経営の経済

基盤を計画経営していました信長

は新たに中山道を通る商人を規制

してまで安土居その城下を新たに

形成致しました。安土城は下街道

と呼ばれた未整備の街道でしたが

織田信長はこれを改修し下街道を

京畿への道また佐和山城岐阜城へ

のロジステックな物流経路として

経営していきます。安土から美濃

に戻るには山崎に御茶屋を建てて

休憩所としています。近江山崎山

は宇曽が麓を流れ当時の佐和山城

は芹川が松原内湖に流れ込む水陸

の交通の要所であった事を留意を

すべきです。安土城は常楽寺港や

豊浦港とも密接にリンクした信長

の近江支配の新規城郭であつた事

は述べるまでもありません。従っ

て下街道側に安土城の武家屋敷群

の放射状測量痕跡ビイスタ工法の

測量の痕を見出す事は重要な事!

◆対談者

織田信長の安土城の東大手方面の

視座の中心が下街道にまで及んで

いる事が最重要だと思ってます。

下街道安土城下の楽市に集められ

た商人達は信長の安土城天主閣の

威容を全国の人々のもとへと自然

伝達しますから織田信長天下布武

のスロガーンやプロパガンダとは

自然と日本全国にその風聞が届く

事になると思われます。宣伝塔ね。

◆長谷川

未だ全国平定を成し遂げていない

段階の安土城に東北の伊達輝宗等

が信長に献上品を次々と献上して

くる様は『信長公記』に詳らかで

す。安土城の宣伝塔の役目は既に

効果を奏していた事になる訳です。

 

◆質問者

安土城を見物出来るヒエラルヒー

階層とはどの様な社会階層ですか?

 

◆長谷川

天正10年正月には安土城を一般

公開していますが下街道を旅す

る人、城下に住む武家、信長に

近く使える側近武士の安土城の

みえ方は其々違っていた事です。

 

◆長谷川   一段階

下街道を行く旅人にはこの距離

や角度から安土城の見栄え考慮

している。これは長目「眺め」

だと思います。長距離測量法。

◆長谷川 ニ段階

次のビイスタが伝秀吉邸近辺

からのビイスタ眺望ですよね

これは大手門内に入城出来た

階層が見た安土城のビイスタ。

◆長谷川 第三段階

信長の神体を祀った総見寺

や本城部も含めたビイスタ

 

◆長谷川 第4段階

安土城を身近に見る人々

の為の設計測量ビイスタ

 

◆質問者

長谷川先生と個人的に城に

行きますと笑顔や冗談全く

ないと思うのですが?

 

◆長谷川

私は城の縄張や設計について

城址に行くと深く悩んでます。

 

◆対談者

それが本物の研究家の姿勢ね!

城は本来行楽や観光の場では

なかった後世になり観光地や

憩いの場所としての立ち位置

を与えられた現代価値観です。

 

◆長谷川

城に行く人は普通5W1H

で物事を処理しています。

私の場合さこにDデザイン

Pプラニング「縄張設計」

が入力されているから城

に行くと急に顔面蒼白に

なるんですよ。城が恐い。

 

 

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