近江長岡 近江黄和田
◆同行者
近江長岡にある京極氏頼
が隠棲した安能寺遺跡に
行きましたが長谷川先生
は迷わず歩いて行かれる
事に驚きを隠せないです。
◆長谷川
地勢や地形を読んで現地
遺跡に到着しております。
当時の武士が館を構える
に相応しい地形へ行く事
佐々木 頼氏(ささき よりうじ、1242年~1297年2月1日)。
鎌倉時代の武将、鎌倉幕府の御家人。通称は対馬太郎、
佐々木対馬太郎左衛門尉。左衛門尉。豊後守。
のちの京極氏となる家系に生まれ、京極頼氏とも呼ばれる。
佐々木氏信の長男。弟に範綱・満信・宗綱、子に氏綱・貞頼がいる。
◆同行者
東近江方面で江戸期農業
遺跡の猪垣「シシガキ」
を見たいと思います!
◆長谷川
ハイ眼前に農山林遺跡である
「シシガキ」見えてきました。
黄和田城、南北朝時代小倉氏の築城と推定される。
室町時代に京極家内乱に敗れた京極大膳大夫政高
「京極政経」と子の京極治部少輔材宗が黄和田城
隠棲したされ 永正年間に河副公政、永禄年間
には河副吉長が在城したとも一般認識されている。
◆同行者
武士の墓石らしき物も見える
◆同行者
すごい石垣があります
◆長谷川
黄和田城近辺の写真なの
ですが様々な近世の別の
石垣が見られて楽しめる。
◆質問者
鎌倉期に山寺「石応寺」改め
近江長岡の京極氏頼が再建し
て隠棲した安能寺遺跡とその
起源南北朝とされる黄和田城
の共通根はあるのですか?
▼安能寺遺跡
◆長谷川
両者は規模も立地条件も
酷似しており遺跡の根源
は山寺遺跡を根源として
いると思います。黄和田
城は「館」と言える様式
後世の猪垣ししがき線が
後から作られた事に注意
◆同行者
この城を拠点とした
京極材宗とは?何者?
◆ウイッキペデイア引用
京極 材宗(きょうごく きむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。京極政経の子。吉童子丸の父。初めは父より一字を与えられて経秀(つねひで)と名乗っていたが、後に室町幕府第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を賜り改名した。
文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命、多賀高忠を所司代に任命された。この処置は父政経を京極氏当主に復帰させ、従兄の京極高清を追放する目論見があった。しかし、父が配下の所領横領を阻止出来なかったことが将軍足利義材の怒りを買い、家督を高清に代えられると材宗も失脚、明応の政変で義材が廃位されると京極氏復帰を狙った。
父が高清に敗れて出雲へ下向した後も高清と戦い、文亀元年(1501年)に浅井直種を従えて今浜を攻めたが、上坂家信の防戦で失敗。文亀2年(1502年)、永正2年(1505年)にも高清を攻撃したが失敗、同年に高清と和睦したが、永正4年に高清に自殺させられた。
翌永正5年(1508年)に父も亡くなり、子の吉童子丸は父から家督を譲られたとされるがその後行方不明、出雲は守護代尼子経久の領国となった。また、京極高吉の父ともされている。
◆質問者
材宗に従軍した浅井直種とは?
浅井 直種(あざい なおたね)は、戦国時代の武将。近江国の守護大名京極氏の家臣。浅井亮政の実父。
浅井氏の庶流に当たる。文明12~13年(1480~1481年)ごろの『清水寺再興奉加帳』に「江州浅井蔵人丞直種」の名が見える。『江北記』では文明18年(1486年)に下坂庄代官職を求める下坂秀雄による夜討ちに合力したとある。『東浅井郡誌』では、この時期に直種が浅井氏を代表して行動していることから、直種は浅井直政の叔父であり、早世した直政の父に代わり直政が成人するまでの間家政を行ったとみる。
明応5年(1496年)、美濃国守護・土岐氏の内乱(船田合戦)において、石丸利光・利高討伐のため京極氏は浅井氏・三田村氏を鵜飼(岐阜市黒野)に派遣しており(『船田後記』)、この浅井氏を『東浅井郡誌』では直種とみる。
文亀元年(1501年)6月、浅井氏と三田村氏は上坂家信を除こうと京極材宗を立てて今浜(長浜市)で戦った(『江北記』)が、討ち死にした(『東寺過去帳裏書』)。『東浅井郡誌』ではこの討ち死にした浅井氏を直種とみる。
『江北記』に「浅井蔵人、今の備前守親なり」とあるように、甥で宗家の浅井直政に男子がいなかったため、次子の亮政を直政の娘蔵屋の婿として宗家を継がせた。
『柳営婦女伝[10]』『浅井家譜[11]』の系図では亮政の父を備後守廣政とするが、直種が備後守を称したことは確認できない。
◆質問者
もう少し簡単に浅井家を!
◆長谷川
浅井直種
↓
浅井亮政 備前守
↓
浅井久政 下野守
↓
浅井長政 備前守
↓
茶々淀殿 初 お江
↓ 「京極高次妻」 ↓
豊臣秀頼 徳川家光