城郭 長谷川博美 基本記録

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『吾妻鑑』服喪三年の歴史的意義 喪とは何か?

2022-09-28 06:31:44 | エッセイ

『吾妻鑑』 服喪三年の歴史的意義

◆読者メール

古代中国の服喪3年思想

甲斐武田氏の信玄三回忌

鎌幕府準公式資料

『吾妻鑑』における頼朝

死後3年間の記録の欠落

を併せて比較研究される

発想の切り口がスゴイ!

 

◆長谷川

服喪三年とは古代中国から

伝わる前王の死から三年に

及ぶ服喪期間を経て新たな

為政者となる次代の王たる

人物が選出される国家的な

政権移譲の葬祭概念と言え

ます。前王の正式葬祭全て

を挙行する者が次代の王権

を担う為政者となる事は歴

史上多くの記録に残ります

羽柴秀吉と柴田勝家が双方

とも織田信長の葬儀をそれ

ぞれ別々に大々的に挙行し

事も前王政治体制を継承

せんが為の政治的なパフオ

マンスの実例と言えます。

両者の政治権力の協議闘争

は清洲会議そして戦国最強

の城塞群を羽柴柴田が余呉

城塞群を構築して軍事闘争

決着を付けたのが1583年の

賤ケ岳の合戦と言う事にな

ります。さて『吾妻鑑』は

源頼朝の死後三年の記録が

欠落している事は北条氏が

服喪三年を実施した事を暗喩

させる意図が潜在してる可能

性があります。次期将軍選定

をめぐる政治協議や闘争戦争

が存在した可能性もあります。

『吾妻鑑』

自体こそ北条氏が鎌倉幕府

政権の中枢と印象付ける為

の北条政権の為に書かれた

書物である事に留意すべき

でしょう。服喪三年の葬祭

の概念は中国東洋に広がり

次期政権誕生の為の準備の

期間葬祭です。魏志倭人伝

でも葬祭が服喪「もがり」

喪仮 期間を設け弔問客に

酒食提供し歌舞音曲ある

祭礼としての側面が記録

れてます。さて前王の偉大

業績を賞賛する葬儀葬祭

次の時代を継承支配する

が執行し国の内外に告知

知らしめる行為が東洋社会

の葬祭儀礼と言う服喪三年

で時期政権誕生の為に費す

政治調整期間まつりと解釈

出来る。まつり=まつわり

連携連帯の調整が「まつり」

と言う事で諸氏諸族は競って

新体制の勝組に所属希望する

人間の保身心理が存在します。

 

甲斐の武田勝頼

は信玄の三回忌を実施して

甲斐武田氏の権力を継承し

したが諏訪四郎勝頼と呼ば

れ本来は武田家の嫡男には

相当せず。大河ドラマ鎌倉

殿の13人は執権の北条時政

が鎌倉幕府の政治を差配す

る実権者となるも諏訪四郎

勝頼が武田家の政治権力を

継承する事になったった如

く江間小四郎こと北条義時

が二代鎌倉幕府執権の実権

を掌握して行く物語になっ

ています。『吾妻鑑』にし

ろ武田氏『甲陽軍鑑』を読

むにつけ歴史は為政者によ

書かれた文字記号の羅列

ある事に注意したいです

武田勝頼は新甲斐王となる

るべく『新府城』の築城を

致しました。さて葬祭とは

前王者の遺徳業績を顕彰す

事より、次世代王が政権

を継承をする為の葬祭であ

りセレモニーや 儀礼です。

本願寺の記録『天文日記』

では浅井三代の初代亮政の

葬儀に喪主の浅井明政へと

香典を送ってる。この時点

で浅井の着宗は明政とされ

た。つまり元来浅井久政が

浅井家二代目を襲名する位

置でなく浅井明政こと高島

の田屋明政が対外的は浅井

氏の政治継承者と本願寺は

考えみなした事になります。

現代の民間葬儀でも喪主の

長男が居るにもかかわらず

喪主の弟の嫁が親戚に事前

協議して喪主に香典が届か

ないように画策するような

は長男を名目上喪主とし

ながら、弟夫婦が葬祭実権

を掌握した事に該当します。

つまりはまつりの実権掌握

これで親戚達は〇〇家の宗

主が弟夫婦になった事を認

識し弟夫婦が一族まつりの

実権を握った事を認識しま

す。エジプト王ッタンカー

メン王も神官が葬式を挙行

前王妃を神官が娶って新王

座を獲得しッタンカーメン

王の歴史や系図は為政者の

作為により消滅させられる

という文字記録の消去歴史

消去や捏造が存在致します。

人間社会の「まつり」には

常に闘争が存在し日本は政治

の事を「まつり事」と古く

ら言います。政治と宗教は

必ず何時の世も形を変えて

結びついておりますが葬祭

の儀礼のセレモニーは歴史

の中で繰り返し為政者によ

り挙行さています。セレモ

ニーやセレブレイシヨンは

祭典の事で日本語の「まつり」

に相当し政治家や為政者とは

歴史上において絶えず意図的

に、民衆心理統制の為の儀式

セレモニーまつりを繰り返し

ています。魏志倭人伝の中で

は女王卑弥呼が「まつり」や

国家的祭礼祭祀を実施し実弟

が実務を執り仕切ったと記録

されています。鎌倉幕府開府

の源頼朝の御台所が北条政子

であり尼として鎌倉における

る頼朝追善供養を継続する人

尼御台たる「まつり」の中心

として位置がありますが実弟

江間小四郎こと北条義時が

二代鎌倉幕府執権の実権掌握

をして行きます。そして得宗

「とくそう家」として実質は

鎌倉府実権差配者君臨します

さて台所の

意味や意義は古いものがあっ

たのでしよう。魏志倭人では

卑弥呼死後複数男王即位する

も国治まらず卑弥呼の宗女の

女性 台与「とよ」なる人を

まつりの主人公に祀り上げて

国家が継続した様子を記録し

ております。ここで「宗」な

る文字の語意を考えると宗と

は政権を担う宗教的、まつり

事の「宗家」と言う事になり

ます。徳川三代将軍の徳川

家光の実母「お江」浅井氏も

徳川の御台所となり先祖の祀

り「浅井長政供養」を実施し

ております。御台所、お江が

まつり継承者と考えられます。

お江は「崇源院」と記録され

邪馬台国の継承者が「台与」

と記録されたごとく「お江」

は「江与」とも表記される

事に留意したいものですが

邪馬台国の卑弥呼の宗女が

台与であった事は卑弥呼の

直属血統の子孫ではないも

のの卑弥呼が属した一族の

「まつり」祭祀執行者斎宮

の様な人物と思われます。

卑弥呼自体かくり宮の如き

斎宮で国家祭祀を担当した

「まつり」の斎主だった事

でしょう。血統と言う意味

において「お江」は前王権

織田の血統や北近江浅井の

血統を引き継ぎ三代将軍の

徳川家光の生母として君臨

したある意味王権の宗女

まつりの中心に位置した人

お江はウィツキペデイアに

よると浅井備前守長政の

第5子に相当するのだが

息子
  • 嫡男万福丸(輝政)
  • 次男:万寿丸(直政 / 正芸 / 万菊丸 / 幾丸 / 虎千代丸 / 覚右衛門)

 

 

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