緊急報告
真に申しわけありません
現地の気温の低下そして
また雨天の天気予報の為
参加者様の健康面に配慮
し余呉城郭研究会様より
11月18日の見学会の実施
は中止の方向で協議され
るとの連絡が入りました
歴史城郭愛好家の皆様に
は重ねてお詫びを申し上
げます。また晴れた好日
を選んで見学会に行ける
事を謹み期待を致します。
長谷川博美
11月15日正午記します。
令和5年 余呉新城郭発見見学会 下見
ウイッキぺデイアより引用
毛受 勝照(めんじゅ/めんじゅう[7] かつてる)は、
勝照と改めた。異説として吉親とするものも
後に勝介(勝助)となった[2]。
略歴[編集]
毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、
姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。
として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、
従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が
一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。
勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入
って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、
自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを
勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに
喜び、精兵を派して家照を救った[11]。
勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」
の字を与えて、字を勝介に[12]、あるいは諱を勝照
と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」
の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍
は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟した
が、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように
進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて
出陣[12]。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」
を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は
兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を
扶養することを頼む。しかし義を好む母に対して
それは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否
して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」
と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の
脱出の時間を稼いで、討死した。享年25[12]。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、
毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は
尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野
に戻したと云う[12]。
毛受勝照 (家照) | |
---|---|
「太平記英勇伝三十四:毛受荘助家照」
(落合芳幾作) |
|
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄元年(1558年)8月 |
死没 | 天正11年4月21日(1583年6月11日) |
改名 | 照景→庄助家照→勝助勝照 |
別名 | 照景、家照、吉親[1] 通称:庄助・荘助・荘介、勝助・勝介[2] |
戒名 | 榮中院殿繁室永昌居士 |
墓所 | 滋賀県長浜市余呉町全長寺、愛知県尾張旭市稲葉町少林寺 |
主君 | 柴田勝家 |
氏族 | 毛受氏 |
父母 | 父:毛受照昌 |
兄弟 | [説1][3]茂左衛門、勝照 [説2][4]勝惟、勝照、吉勝 |
子 | [説1]照清 [6] [説2]重之 [4] |
◆世話人様
18日の本番見学会の為
令和5年11月14日 余呉城郭研究
会様の恒例の林谷山陣城の下見や
安全確認に行って来ました。
◆長谷川
この土塁の中の林谷山陣城に置いて
25歳の若さで壮烈な戦死を遂げた人
が居た事は忘れされがちになります。
令和5年11月18日余呉城郭研究会の
講師として現地の砦の様子をつぶさ
に検証致します。世話人様が新発見
した林谷山とは上記兄・茂左衛門の
最期の砦であつた可能性もあります。
皆様におかれましては宜しく御参集
のほど重ねて願いをいたします。
◆反論者
ふん何が最期の戦い林谷山砦じや!
そんなもん、勝てば官軍、負ければ
賊軍の習いは世の常よ!大学受験で
は合格する!選挙に出たら当選する。
世の中すべて、数かず、員かずこそ
がモノ言う、昨日までボクシングの
チャンピンだった奴も負けた瞬間か
ら友達が全員なくすものよ!ふん!
林谷山の砦に200人で毛受兄弟が
奮戦しても兄弟の首は勝者羽柴秀吉
の武者どもに打ち取られる事は決ま
っとる。これは武士道の恥じと思う
世中は勝者、勝ち組こそが天下国家
を差配するマウント主導権を握る者
何が負け犬長谷川の林谷山砦などの
見学に向かう奇特な人があるのか?
◆質問者
余呉の紅葉は如何でしたか?
◆長谷川
紅葉の色は艶やかでした。それより
山林から発生する秋の香りが最高。
◆質問者
クマよけ鈴や鳴り物は持って行った?
◆長谷川
用心の為に持って行きました。
◆質問者
林谷山城の遺構はどうでしたか?
◆世話人様
犬走や土塁は明確に見えました!
犬走土塁は城郭見学の基本です。
これ天正11年賤ケ岳合戦の現場
柴田方の戦線が残っております。
◆634様
私は現地の現実に存在する現場を
素直に見学する城址見学者です。
◆一般者
400年以上も前の城の壁の跡が残って
いるのですか?これ本当の事ですか?
◆世話人様
残っているから感動する訳です!
観光看板や石碑の行楽遠足主流
の観光と分野が違う現地見学会
です。誤解されては困ります。
400年以上前の城壁つまり土塁
を見学する私が存在致します。
私は私なのです。遺跡を見学
する冷静な私を持っています。
◆長谷川
現実や真実の世界
リアリズムの世界
ドキュメント世界
ビュアー純粋な心
これこそ城郭見学
後の世に作られた
偽物ではない本物
▼世話人様が発見された新城郭
の登り土塁の現場写真「昨年」
◆質門者
新発見の砦の規模や長さ何mですか?
◆長谷川
A~Bまで
約55m30間の長の規模です。あ郭
近辺見落とさない事を勧めします。
これを削平段や郭跡とも言います。
勿論林谷山は440m土塁長城です。
当日は林谷山口の砦も見学します。
◆高齢者様
どうやつて参加を申し込めば
良いのですか?ラインアカウ
ントの意味や技術については
いけないのですよ。困った!
電話予約もOkと聞いてます!
こんな素晴らしい遺跡発見
されたんでしよ!?素晴ら
しいフイールドワークです!
◆反論者
こんな土手を見て何が楽しい?
◆長谷川
西南戦争の現場には土嚢土塁
や竹矢来が合戦インフラです。
やはり現場施設の根本ですよ。
◆長谷川
万里の長城も土塁つくりの場所
がある訳です。人類とは城壁を
作り戦線を築造する習慣を持っ
ています。これが人類の歴史
◆長谷川
私は何もむずかしい事を言って
はいないのです。歴史の現場に
必ず長城や壁の跡が残っている。
余呉にも賤ケ岳合戦の壁の跡が
つまり林谷の長城が残っている。
だから、東方見聞録じやなくて
城郭見聞録として林谷山陣城を
厳選セレクトしていた訳です。
◆長谷川
やはり土塁見学は古戦場見学
の根本理念にして基本です。
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