城郭 長谷川博美 基本記録

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令和5年 余呉新城郭発見見学会 下見

2023-11-19 14:39:05 | 城址見学会予定 

緊急報告

  真に申しわけありません

 現地の気温の低下そして

 また雨天の天気予報の為

 参加者様の健康面に配慮

 し余呉城郭研究会様より

 11月18日の見学会の実施

 は中止の方向で協議され

 るとの連絡が入りました

 歴史城郭愛好家の皆様に

 は重ねてお詫びを申し上

 げます。また晴れた好日

 を選んで見学会に行ける

 事を謹み期待を致します。

長谷川博美

  11月15日正午記します。

 

令和5年 余呉新城郭発見見学会 下見

 

ウイッキぺデイアより引用

受 勝照(めんじゅ/めんじゅう[7] かつてる)は、

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

柴田勝家の家臣。は初名を照景、後に照、

勝照と改めた。異説として吉親とするものも

ある[1]通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、

後に勝介(勝助)となった[2]

略歴[編集]

尾張国春日井郡稲葉村(現在の愛知県尾張旭市

稲葉町)の人[8]新居城[9]水野良春の4世孫の

毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、

姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。

12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓

として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、

1万石を与えられるまでになった[10][8]

17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め

従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が

一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。

勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入

って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、

自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを

勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに

喜び、精兵を派して家照を救った[11]

勝家は荘介に諱を与え、自身の名前の一字「勝」

の字を与えて、字を勝介に[12]、あるいは諱を勝照

と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」

の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍

羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟した

が、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように

進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて

出陣[12]。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」

を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は

兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を

扶養することを頼む。しかし義を好む母に対して

それは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否

して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」

と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の

脱出の時間を稼いで、討死した。享年25[12]

秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、

毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は

尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野

に戻したと云う[12]

毛受勝照 (家照)
「太平記英勇伝三十四:毛受荘助家照」
落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄元年(1558年)8月
死没 天正11年4月21日1583年6月11日
改名 照景→庄助家照→勝助勝照
別名 照景、家照、吉親[1]
通称:庄助・荘助・荘介、勝助・勝介[2]
戒名 榮中院殿繁室永昌居士
墓所 滋賀県長浜市余呉町全長寺、愛知県尾張旭市稲葉町少林寺
主君 柴田勝家
氏族 毛受氏
父母 父:毛受照昌
兄弟 [説1][3]茂左衛門勝照
[説2][4]勝惟、勝照、吉勝
[説1]照清 [6]
[説2]重之 [4]

毛受兄弟の墓_毛受兄弟の墓

◆世話人様

18日の本番見学会の為

令和5年11月14日 余呉城郭研究

会様の恒例の林谷山陣城の下見や

安全確認に行って来ました。

 

◆長谷川

この土塁の中の林谷山陣城に置いて

25歳の若さで壮烈な戦死を遂げた人

が居た事は忘れされがちになります。

令和5年11月18日余呉城郭研究会の

講師として現地の砦の様子をつぶさ

に検証致します。世話人様が新発見

した林谷山とは上記兄・茂左衛門の

最期の砦であつた可能性もあります。

皆様におかれましては宜しく御参集

のほど重ねて願いをいたします。

 

◆反論者

ふん何が最期の戦い林谷山砦じや!

そんなもん、勝てば官軍、負ければ

賊軍の習いは世の常よ!大学受験で

は合格する!選挙に出たら当選する。

世の中すべて、数かず、員かずこそ

がモノ言う、昨日までボクシングの

チャンピンだった奴も負けた瞬間か

ら友達が全員なくすものよ!ふん!

 林谷山の砦に200人で毛受兄弟が

奮戦しても兄弟の首は勝者羽柴秀吉

の武者どもに打ち取られる事は決ま

っとる。これは武士道の恥じと思う

世中は勝者、勝ち組こそが天下国家

を差配するマウント主導権を握る者

何が負け犬長谷川の林谷山砦などの

見学に向かう奇特な人があるのか?

 

◆質問者

余呉の紅葉は如何でしたか?

◆長谷川

紅葉の色は艶やかでした。それより

山林から発生する秋の香りが最高。

 

◆質問者

クマよけ鈴や鳴り物は持って行った?

 

◆長谷川

用心の為に持って行きました。

◆質問者

林谷山城の遺構はどうでしたか?

 

◆世話人様

犬走や土塁は明確に見えました!

犬走土塁は城郭見学の基本です。

これ天正11年賤ケ岳合戦の現場

柴田方の戦線が残っております。

 

◆634様

私は現地の現実に存在する現場を

素直に見学する城址見学者です。

 

◆一般者

400年以上も前の城の壁の跡が残って

いるのですか?これ本当の事ですか?

◆世話人様

残っているから感動する訳です!

観光看板や石碑の行楽遠足主流

の観光と分野が違う現地見学会

です。誤解されては困ります。

400年以上前の城壁つまり土塁

見学する私が存在致します。

私は私なのです。遺跡を見学

する冷静な私を持っています。

 

◆長谷川

現実や真実の世界

リアリズムの世界

ドキュメント世界

ビュアー純粋な心

これこそ城郭見学

後の世に作られた

偽物ではない本物

▼世話人様が発見された新城郭

の登り土塁の現場写真「昨年」

◆質門者

新発見の砦の規模や長さ何mですか?

 

◆長谷川

A~Bまで

約55m30間の長の規模です。あ郭

近辺見落とさない事を勧めします。

これを削平段や郭跡とも言います。

勿論林谷山は440m土塁長城です。

当日は林谷山口の砦も見学します。

◆高齢者様

どうやつて参加を申し込めば

良いのですか?ラインアカウ

ントの意味や技術については

いけないのですよ。困った!

電話予約もOkと聞いてます!

こんな素晴らしい遺跡発見

されたんでしよ!?素晴ら

しいフイールドワークです!

 

◆反論者

こんな土手を見て何が楽しい?

 

◆長谷川

西南戦争の現場には土嚢土塁

や竹矢来が合戦インフラです。

やはり現場施設の根本ですよ。

◆長谷川

万里の長城も土塁つくりの場所

がある訳です。人類とは城壁を

作り戦線を築造する習慣を持っ

ています。これが人類の歴史

歴史的速報 : 万里の長城がめっちゃガバガバな件

◆長谷川

私は何もむずかしい事を言って

はいないのです。歴史の現場に

必ず長城や壁の跡が残っている。

余呉にも賤ケ岳合戦の壁の跡が

つまり林谷の長城が残っている。

だから、東方見聞録じやなくて

城郭見聞録として林谷山陣城を

厳選セレクトしていた訳です。

 

◆長谷川

やはり土塁見学は古戦場見学

の根本理念にして基本です。

 

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