◆参加者A様
令和4年3月24日の米原学びステーシヨンでの
長谷川先生の講座に参加しました。太尾山城
の図面をA3で三枚分学習したんですが図面
が物凄く破格に繊細に詳細だったんですよ!
勿論長谷川先生が作成された図面ではない。
あのうそれから〇〇〇城も御教示願いたい!
◆対談者B様
全く長谷川先生が太尾山城の図面書かれて
いる事自体に気付いておられない訳ですね
?〇〇〇城もう何十年も前から知ってます。
◆客観者
A様B様大事な事は仲良くする事が大事!
人間は同じ人間でも評価される場所や風
土で全く人間評価と認識が異なる事です。
アメリカの季節労働者でもA地区で優良
社員ところがB地区では風采の上がらな
い低評価のくすぶつた人間、として認識
される例が報告されています。野球選手
でも移籍したら別人の様に活躍する人は
もともと優れた人材だったしかし周囲の
環境がその野球選手を見抜けなかった事
にあります。企業でも素晴らしい人材が
眠っているのに凡クラがその部署を仕切
つてその会社の社長は社員の本質を看破
出来ないという事が発生しています。人
は時に心の目で良い政治家を選ぶ事です。
◆長谷川
なんの事やら私には全く解りませんが?
▼三重県菰
菰野町での長谷川博美歴史講演過去写真
◆一般者
彗星のごとく光彩を放ち令和の社会の出現された
長谷川先生の城郭ビイスタ論が巷間で大変話題!
◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画視聴数が2000回
に達しました、これ100人の講演を20回先生実施
された事に相当致します。先生の実力の証明です!
◆長谷川
城郭ビイスタ論動画を撮影しようと企画された方
はロハス長浜の前川社長と長浜市民の生月会長様
です。この2人様が一般の人々が持ち合わせてない
人間を見る洞察力/慧眼「けいがん」の持ち主だと
と言う証明であり私の実力では決してない訳です。
多数の米原市民様の格別の推薦を賜り米原学びあい
ステーションの城郭講師に起用された事もこれ一重
に格別に慧眼ある米原町民様の御蔭により感謝です。
ようするに万人が見過ごしても少数が気付いて頂け
る幸運に恵まれた事を、心より深く感謝を致します。
▼今度の下記講座
御注意!令和4年3月24日当講座は座学のみです。
◆質問者
今回を講座の特徴とは?
◆関係者
①城の図面の見方をキッチリ基本から学び直す
②忍者と誤解せずに戦国武闘集団の記録を認識
◆反論者
私はもうキッチリ基本を既に学んだ人間です!
◆対談者
さあ?そうかしらね?貴方の基本と私の基本
がもし根本的に違っていたら一体どうします?
本格城郭見学とは反省や修正がスタート地点!
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
伊賀忍者の活躍!と太尾山城跡 完全解説!
◆米原町民様
太尾山って見た事も聞いた事も無いんですが?
◆長谷川
毎日朝夕米原駅から貴方は見ておられる山!
◆質問者
この城の見学会は何日にありますか?
◆長谷川
ウッデイパル城郭フオーラムのチラシ
を見るか『ウッデイパル余呉のブログ』
を検索して改めて御確認下さい!
▼余呉城郭研究会 過去写真
▼余呉城郭研究会 過去写真
◆質問者
戦国時代の近江で伊賀の人々が活躍した例は?
◆長谷川
文献として浅井長政の飯福寺文書にもあります
二次資料としは米原駅東側の太尾城山城にある。
伊賀で城郭の考古学の発掘させて頂いた経験で
は伊賀の国の人々の言葉イントネーションとは
極めて近江の湖北に近くほぼ同じ訛なんですね。
伊賀の人々が近江湖北で活躍した事は文献でも
証明されています。湖北と伊賀は友好的でした。
★さて飯福寺は伊賀の忍びを雇用した小谷城と
大嶽城の城主浅井長政の城ですが小谷山の北に
山田山そして更に北に己高見山があります飯福
寺は己高見山山系に属しており小谷山とは山尾
根続きです江戸時代の小谷城古図に越前山續忍道
と記入されいおり忍道の記載は非常に重要です。
また彦根城博物館様所蔵の「伊賀歩行由緒書」
「いがかちしゅう」と言う記録もありますね。
彦根市の方は伊賀町の存在も知っておられる。
▼彦根城下の旧伊賀町 現在は錦町となる
▼彦根城下 池田屋敷案内板「伊賀者」の表現
◆対談者
忍者って本当にいたんですね!記録に残ってる。
◆長谷川
忍者と言う言葉は昭和の時代劇造語ですから
「忍び」「透破」「乱破」「細作」と呼ばれて
た特殊技能を持つ傭兵集団とも言えましょう。
◆対談者
歴代城主は多数で米原の太尾城要約致します!
①
米原駅東の太尾山城に伊賀軍団が来ていた事。
②
太尾山城が非常に緻密軍事的優秀な城だった。
③
元亀年間佐和山城は織田方に開城も太尾は無事
④
浅井家の中島宗左衛門が太尾城門櫓を普請した
⑤
この様な城が稚拙な縄張りであろうはずがない。
⑥
長谷川先生の図面は当時の緊迫した状況を生々し
さ伝えており城郭遺跡遺構を繊細に学問的に解説
◆一般様
本当にスゴイですね!城郭ビイスタ論が!
◆長谷川
当時の城郭の測量技術たるや現代人の城めぐり
や城探訪や城見学とは全く次元の異なる恐ろし
高度なハイテク技術であった事に悩まされます。
◆対談者
太尾山城は日置流の弓の名手吉田安芸守の
弓衆の守備により完璧に守られていた鉄壁
の城だった。長谷川先生作の図面は超繊細
に太尾山城を現地調査されて豆腐で言う所
のキメが細やかな絹越豆腐のような本当に
緻密プロフエッシヨナルな城郭図面に圧倒
されます。これマジか?城とはこんなに?
スゴイと唖然とする細密繊細な城郭図面を
見たらやはり衝撃を受けるんです。城址と
はこんなにも複雑高度なものなのかと仰天!
◆長谷川
城郭は当時の戦国ハイテクを用いた兵備で
人間の生死を賭けた緻密な構造こそ城です
また浅井長政は私達が想像する以上に経済
的感覚のある人で「伊賀衆」を雇用します
がその金銭費用は伊香郡の飯福寺に借銭を
する文献資料が残り 浅井氏=銭=経済家
◆忠告者
長谷川先生は450年前に産れたら築城者と
して戦国大名に即雇用される可能性もある
現代の城郭遺跡分析解説のエキスパートと
とも言えます。しかし令和に生きる人々は
城郭遺跡などリアルに現実に見学検分しな
人達で長谷川先生は商業性/大衆性/通俗性/
普及性など大衆人気獲得ポビュラリティー
無い人だと言えます。つまり令和お城世界
では大衆から冷遇され無視される影の人だ
と言えます。長谷川先生は本格派城郭研究
家の欠点である超専門的な城郭研究家です。
でも現代は偽物フエイクこそが流行る時代!
流行や「はやり」はすぐに流れ去ってしまう
地に足のついた地道ないぶし銀の城郭研究を!
◆長谷川
忌憚のない手厳しい御意見に感謝申し上げます。
しかし私が割り切った城郭稼業に専念していた
ら城郭ビイスタ論には到達できなかった。学者
としての魂を売ってコマーシャリズムメデイア
に迎合し過ぎたら研究の進展には至らなかった。
◆世間様
伊賀の特殊武闘集団を用いた浅井備前守長政
は米原太尾山城の奪取確保を希望したんです。
この城をなめたら、あかんぜよの本格派です!
◆対談者
3月24日の座学では米原太尾山城図を用いて
戦国リアリテイの生々しい現実を解説下さい!
◆反論者
ふんそんな米原太尾山詳細図など意味をなさん
書き過ぎじや!そんな図面が何の意味あるか?
あのなあ~現代のお城文化は遊び行楽が王道よ!
御学問やないねん!遊びじや!物見遊山が本質!
◆対談者
あらあら無粋な事を言う人!描き過ぎが駄目なの?
有名な格言「神は細部に宿る」の言葉を知ってる?
英語ではGod is in the details.とも書きますのよ!
◆長谷川
反論者様貴方の城郭の師匠は誰ですか?
◆反論者
ある先生じやい!文句がるのか?
◆長谷川
私の師匠は人間ではなく現地の城郭遺跡が先生
です。私の師匠は厳しいんですよ。お前の図は
成ってないと、何度も何度も書き直しを命じら
れます本当に厳しい先生が城郭自体本体ですよ。
◆城の精の声
有るがままに城を計測してあるがままの形を
記録しなさい。真に素直な貴方は重要な事に
やがて気付きます。城跡をしっかり丁寧に!
◆提言者
長谷川先生の岐阜県上石津の「島津豊久」墓所
長谷川先生の図面には仰天致しました。あれを
後世の墓域の区画土手や溝と解釈するべきか?
それとも島津の純戦闘員とは別の忍者集団達
が事前に陣所をしつらえておいた陣場なのか?
これを今後は検討すべきではないでしょうか?
長谷川先生はもう既に未知の砦発見されてます。
◆長谷川
間道や通路の要衝には現代人の目に触れる
事のない防御施設を私は数多く検分してま
すが今後研究課題とすべき事かと思います。
◆薩摩通さん
島津家は忍者を「山くぐり」と呼んでます。
山に潜り抜ける潜伏する特殊技能集団です。
山伏(修験者・行者)に身をやつす特徴が
あり他藩でも山伏雇用していたが医師僧侶
の役目を兼務し俸給を受け領内の山伏管理
統括する仕事で陣中てせ戦勝祈願や呪いも
薩摩島津藩は他藩より山伏重用していた。
山伏は平素藩士として仕事をし時に山伏
は安産、男子誕生、参勤交代の無事、病気
平癒または呪詛をも加持祈祷していました。
薩摩忍者の始祖は島津忠良(1492~1568)
で忠良は、薩摩国(鹿児島県)武将であり
島津家の中興の祖、出家して日新斎と名乗
る。紀州根来寺と密接な関係をもち琉球貿易
もし自作の「いろは歌」が薩摩鹿児島藩士の
教訓書となり薩摩忍者組織を創始者の人物。
◆長谷川
非常に興味ある話題を賜り感謝します。島津
は「山くぐり」ですか?興味深い言葉です。
さて令和3年3月19日見学する小谷城からも
真に不可思議な事に大量の琉球銭が出土し
たり浅井氏家臣の垣見氏が琉球甲を残して
いる事が民俗学的に不思議と言えますね?
なによりも小谷城最高峰の城を「大嶽城」
とかいて「おおづく」と読むまるで沖縄
のグスクに似た音韻を用いていて不可解!
◆対談者
浅井長政って本当に「お坊ちゃん」育ち
私が浅井なら国友鉄砲鍛冶全員を小谷城
隔離して浅井独占で鉄砲を製造させるわ
◆長谷川
鉄砲生産地国友を持ちながら石田三成も
浅井長政も残念ながら国友を独占しては
いませんね?信長の旗印は「永楽通宝」
であり経済家である事は確実です。信長
は銅銭を鋳直す「選銭」をしています。
長政の文献にも彼は「選銭」をしてい
ます。小谷城の大量の琉球銭とは貨幣
流通貿易を示唆する遺物と言えますが
信長が浅井と縁組を画策したのは上洛
や国友鉄砲の確保でありましよう。方
や浅井の本質は小谷城に東海と北陸を
結ぶ物流倉庫を保持して巨万の金銭を
得ていた事でしょう。小谷城は文献の
『信長公記』に天正3年まで秀吉が小谷
におり秀吉は信長の尾濃兵員すべての
兵糧を小谷から提供しています。小谷
城の本当の巨大さに驚かれる全国区の
人々は小谷の経済力こそが、全国五大
山城とのひとつと小谷城が称されてい
る事に理論を知って小谷城に来ている。
3月19日小谷城では楽しく解説します。
経済家信長VS経済化長政の両者対立
利害関係が激しく元亀の騒乱の原因に!
浅井長政最期の書状は天正年間に書か
れたものなのに元亀4年と記されてる。
▼飯福寺について
の霊地であった己高山(こだかみやま、923m)
焼失し、その後は事実上廃寺となっているが、
伝来した仏像のみ山下の収蔵庫に安置され、
地元住民によって管理されている。旧飯福寺は
紅葉の名所として名高く、秋には多くの観光客
でにぎわう。びわ湖百八霊場第30番札所。
旧木之本町中心部の東方に位置する己高山の山頂
付近および西麓には、古代から中世にかけて多く
の寺院があり、天台系山岳仏教の聖地であった。
これらの寺院は近代以降全て山麓に下り、また
は廃絶している。応永14年(1407年)の奥書の
ある『己高山縁起』によれば、近江国の鬼門
および泰澄によって開かれたという。
鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の
、行基によって開基。いったん荒廃したものを延暦18年
兼帯であったのを真言宗に改宗した。
奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務
五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺
の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺
が挙げられている。鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の
山頂近くにある。また、山麓の古橋地区から徒歩15分ほど
の山中にも「鶏足寺(旧飯福寺)」と称する寺跡があり、
現在では秋の紅葉の名所として知られている。
私はこの本を読んでいないので何とも言えませんが、想像するに、歴史の事実を知りたい人と歴史ドラマを楽しみたい人の違いがあるのかなと思いました。また読んでみます。
を差し上げます。楽しみにして下さいませ。
集合時間河毛駅午前9時30分に御注意下さい。