信長狙撃の杉谷善住坊の出身地の考察
ウイッキペデイア引用
杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう、生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。
生涯
[編集]鉄砲の名手であったという以外の確かな人物像は不明であり、出身については甲賀五十三家の一つである杉谷家出身の忍者とも、伊勢国菰野の杉谷城の城主とも、あるいは雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。信長を狙った理由も、近江国を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な怨恨、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。
元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた織田信長は、翌5月に岐阜城への帰途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発銃撃したとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。
その後、善住坊は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。その結果、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、領主・磯野員昌に捕縛される。織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。なお『フロイス日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」事件のことが記されている。それによれば、この仏僧は書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていたという。
◆長谷川
新年おめでとうございます
私の担当させて頂きました
旧年中の歴史城郭の催事へ
多数の皆様が御参集された
事を謹んで御礼を申し上げ
ます。今年もどうぞ皆様に
は宜しくお願いを申し上げ
ます。米原学びあいステー
シヨンで今年1月23日です
◆質問者
的はずれな質問を致しますが
浅井備前守長政の家臣にして
近江佐和山城主の磯野丹波守
は伊勢長島に精通してました
か?一般に浅井家臣が伊勢の
長島へと 織田信長軍団へと
従属していた記録ありますか?
◆長谷川
浅井氏家臣として織田の伊勢
長島城攻撃に磯野丹波守には
2回文献『信長公記』に参戦
をした事が正式に記録されて
います。磯野は伊勢路を知ら
ないと絶対に言えないのです。
◆対談話
さてさて織田信長を伊勢の千
種超えで狙撃した杉谷善住坊
の本拠地とは何処なのですか?
◆長谷川
1根来寺の僧説
2甲賀53家の杉谷氏説
3伊勢菰野杉谷説等の
諸説あり確定していません。
今のところ正解ありません。
◆対談話
千種超の途中にある巨岩
杉谷善重住坊隠れ岩など
伝説地を長谷川先生達と
見学致しましたが通行が
難関で良い射撃地点だと
感じました?
◆長谷川
あの伝杉谷善住坊隠れ岩
が確実に杉谷善住坊自身
の信長狙撃地点なのかは
確定してはおりませんが
ただ現実には列石削平地
は隠れ岩の近辺に存在し
ており歴史現場の生々し
さの様な雰囲気がありま
すが確定してはいません。
◆質問者
千種超えで信長に対して
20間約36m離れて狙撃を
して信長の暗殺の失敗を
しても信長家臣に即刻に
捕縛されると私は思いま
す。
◆長谷川
狙撃に失敗したが善住坊
は現場から逃走して高島
郡へと逃走に成功してる
ので逃走経路は事前想定
していたかと思われます。
峻険な鈴鹿山系の絶壁を
登坂する忍びの器具類も
用意して織田の追手自体
をかわせた事は善住坊が
根来や甲賀の人物よりも
鈴鹿山系を常に往来して
土地勘や地理に熟知した
伊勢菰野杉谷の善住坊の
可能性もあると私は思う。
◆質問者
杉谷善住坊は信長に向け
て、ニ発鉄砲を放ったと
記録されていますが?
◆長谷川
それは解釈の間違いです。
二つ玉とは弾丸を薄紙を
用いて包み一度に発射を
する散弾銃の元祖の様な
砲術を「二つ玉」と言う。
被弾ケ所を2カ所に浴びせ
敵の生命を取るべき工夫
された当時の最高峰と言
える射撃技術といえる。
◆質問者
二つ玉を使った城持ち武人
は織田信長家臣で存在しま
すか?
◆長谷川
ウイッキペデイア引用します。
橋本 一巴(はしもと いっぱ、
の師匠であった。名は一把とも。
また道求の名でも伝わる。官職名
として伊賀守を称した。
人物
[編集]であったという。『信長公記』によると、
信長は16、7、8歳のころ、弓を市川大介、
鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて
稽古した[1]。この情報は、尾張の味鏡村の
訪れた際、彼を通じて武田信玄にも伝えら
れている[2]。同時代の史料ではないが、
寛永10年(1633年)に記された『国友鉄炮記』
撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達
して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命
鉄砲500挺を注文したという。
鉄砲対弓矢の戦いを演じた[4]。その戦闘で
弥七郎に銃撃を与えるが自らも脇に深く矢
を射られ相打ちする形で戦死した。あるいは
戦死しなかったが重傷を負ったともとれるが、
いずれにせよ、以降は史料に姿をみせなくなる。
◆長谷川
と言う事は二つ玉の鉄砲は
尾張中島郡片原一色城主の
橋本一巴、伊賀守、道求と
いう僧形体の武人の流れと
言えます。杉谷善住坊自身
が千種超えで放った二つ玉
もこの東海系の流れの砲術
で杉谷善住坊は東海系砲術
を用いた伊勢菰野杉谷善住
坊という推理も出来きます。
◆一般者
流石は『信長公記』の講師
の長谷川氏だけの事はある
二つ玉の文言を見逃さない
『信長公記』読みの講師の
実力が明白と言うものです。
◆質問者
長谷川先生は尾張中島郡の
橋本伊賀守の城跡に行った
事がありますか?
◆長谷川
第三次の発掘に参加させて
いただき直ぐに伊賀の成瀬
兵馬屋敷の発掘行きました
尾張中島郡の橋本伊賀守の
城跡は堀が深い城跡で規模
も大きな中世城郭遺跡です。
◆質問者
鉄砲の名手「二つ玉」
橋本一巴の尾張中島郡
片原一色城規模大きい
それなら伊勢菰野所在
の杉谷城も土豪として
城は大きかった僧院も
兼ねていたと思います。
◆長谷川
非常に大規模なる杉谷城
だと言えます。また皆様
と御一緒に行きたいです。
◆質問者
杉谷善住坊は何処で捕縛
されたのですか?
◆長谷川
佐和山城から高島郡へ信長
から領地を保証された例
の磯野丹波員昌が捕縛し
た。でもこれ磯野にとっ
危険な信長への報告です。
何故なら織田家中からは
磯野と杉谷もともと伊勢
以来のグルだと織田家の
家中が騒ぎ出して磯野氏
は磯野丹波家は高島郡を
逐電した記録が『信長
公記』に掲載されている。
高島は織田信澄に与えら
れた。
★湖の道「ずうみ」の道
の存在を考察する
A
浅井家臣佐和山城磯野氏
佐和山に籠城する事8ケ月
↓舟で高島郡へ赴任した
B
杉谷善住坊
伊勢から高島郡へ隠棲
船便なくば高島行けず
C
織田信長は何故佐和山を?
松原内湖で高島郡攻めの為
30間の大船をつくり高島
郡を制圧した
D主水 カコ
佐和山内湖「大洞弁財天」
弁財天は水運の神様でも
ある。彦根松原主水町は
「カコチョウ」船の櫓を
漕ぐ人々の町、彦根藩の
松原屋敷「浜屋敷の役目」
E
高島郡大溝城の瓦は甲賀の
水口岡山城に運搬された事
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