滋賀『民俗文化』で私は日本の「11日」の文化に
ついて言及し続けたたが、菅沼会長が亡くなられて
続編を投稿する事は出来なくなってしまいました。
私の故郷は滋賀県北部の極北部余呉町であり隣県
の敦賀市には馴染が深い故郷の様な感覚を持って
いる、私の造語で言うならば、私の精神性とは、
江越人、福滋感覚の人、ではなかろうかと思う?
日本では余りにも十一の日の瑞兆に関する事案
には無関心の様に思われるが私個人は興味がある。
11の文化は確実に日本に存在する。
貞観十八年(八七六)の秋、道真は越前国気比神宮
に参拝した。『菅家文草』の詩に、気比大神に参拝
し、社前に広がる気比の海辺に照る月を賞美している。
その海岸の付近には北陸道松原駅や松原客館もあった。
現在、この海岸は気比の松原と呼ばれ、三保の松原、
虹の松原とともに日本三大松原とされている。気比の
松原はまた、一夜いちや松原とも呼ばれる。
一夜松原の名の由来について
『日本歴史地名大系福井県の地名』では『気比宮社記』
の説話を引用して説明している
聖武天皇天平二十年、
異賊将襲二来于西海一、于時十一月十一日夜、敦賀
地震動 而久志川浜辺数千緑松忽然出現、翠色高聳
数万白鷺群二集于樹上一、為二白旗之翻相一、又数
丈ノ巌石出二現北海一、為二楯石城門之威粧一、此時
西海之賊船悉覆ヘリ、賊徒_二海水一云云(注二十三)
聖武天皇の頃、敦賀の地に西方の海から異賊船が襲来。
すると、十一月十一日の夜、大地が振動して浜辺に数千
本の松が忽然と出現した。樹上には数万の白鷺が群れて、
あたかも白い軍旗が翻るようであった。湾の北方には
数丈の巌が出現し、楯となって守った。賊船は転覆し賊
徒は悉く海に呑まれた。
伝説の真相はともかく十一月十一日の夜に異変が発生し
た記述に私は注目したい。なお断っておくが、私は神秘
主義者ではなく何故日本人は11の日に拘るのかを学門で
言うところの宗教心理学的に民俗学的に分析してみたい。
追記 滋賀民俗学会
2020年6月12日
元滋賀民俗学会理事の長谷川博美は
元滋賀民俗学会理事長の粕淵先生に
偶然米原市立近江図書館で面会する
機会を得た。粕淵先生からは、近江
図書館の「豆本の展示」と米原公民
館の遊具「めんこ」の展示に付いて
話された。失われ行く日本の昭和期
の民具や遊具には、興味が尽きない。
追記雑感
非常に小さな文字を描く豆本の文化は世界
に広く存在する。これら極小文化がやがて
公文書たるマイクロ文書保存や、超細密の
現代のハイテク、ミクロ文化に継承された。
我々が日頃使うスマホ文化やパソコン文化
もマイクロ文化ミクロ文化と言えるものだ。
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