城郭 長谷川博美 基本記録

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近江長岡の山城跡群の謎

2024-10-30 18:06:31 | 城址見学心得

近江長岡の山城跡群の謎

 

◆長谷川

天文三年浅井亮政饗応記とは

1534年を記された文献資料で

当時の北近江の武家社会序列

を明確に表す指標と言えます。

◆対談者

熊谷下野守の所有する中世城郭

10城を長谷川先生と見学し彼の

当時の湖北での上席権力席次に

納得致しました。さて京極加賀

守家は坂田郡長岡に隠然たる領

地を所有して支配する有力勢力

と言われております。

 

◆長谷川

天文三年浅井亮政饗応記による

京極加賀守家いわゆる加州家は

やはり江北でも上席の武家階級

で上層をしめてる歴然たる武家

階層だと言えると思いますが

従って城郭や城館を多数所有し

と見るべきでしょう。

◆長谷川

加賀氏の衰退は徳永眞一郎氏

の近江源氏の系譜で述べられ

ております。

◆助言者

加州家は一般に馴染みがない

がしかし加州屋敷は上平館の

古図には記載されています!

◆対談者

これだけの坂田郡で有力武家

が時代の推移により衰退して

歴史の表舞台から消滅した事

は仕方がない事でしょう負組

の身とはいつも歴史が証明を

するように隠滅や抹消される

運命にあるのです。

 

◆長谷川

私の元に集合され学ばれる人

はスレていない純粋ピュアー

なインテリの人も時に多く。

こたび坂田郡長岡の山城の

城郭群を真摯に学ぼうとする

人と長岡の巨大山城を求めて

現地踏査に入りましたしかし

城があまりに多数存在する事

が解り現代社会状況を鑑みる

と精神的に深く落ち込みます。

果たして巨大な城郭遺跡群を

私は射程圏内に補足したが

見学を加えてよいものかと?

 

◆参加者1

長谷川先生の城址見学で一番

驚く事はネットにも遺跡台帳

も城郭図書に載ってない城の

見学その巨大な城址を見た時

の驚き他者に説明不可能です。

 

◆参加者2

こんなのアリかよの想定外の

奇跡に近い見学会を体験した

これを他会の人に表現しても

信じて貰えないのが現実です。

 

◆長谷川

それは私のコミユニケーション

表現が極めて下手だと言う事で

す。例えばタコの具が大きくて

特上に美味しい岩塩などで調理

された特上たこ焼き三個セット

と言ってもその話聞いただけの

人はああそうか程度の反応しか

ないが 直接3個の食事の匂い

暖かさを感じて食事をしてる人

を見たら人は自分も欲しくなる

▼長谷川博美 素描図

◆長谷川

近江長岡駅で下車しても

特大の山城3城は先ず発見

は不可能です。特別な道

選択して行かないと無理

◆一般

そもそも近江長岡に大きな

城が存在した事などは郡誌

にも城講演も聞いていない。

◆長谷川

3000年頃には常識になって

いるかもしれません。私の

生命は長く持ちませんので

歴史の現実京極加賀守一党

の巨大山城を見学したい!

◆長谷川杞憂

しかし私が2~3名で見学会

を開いても武家城館の隅櫓

を見学されずに城跡を飛び

まわっておられる人を見た

場合私は研究家学者として

は幻滅する折角調査したる

甲斐がゼロに消滅して虚し

い後悔の念を強く抱きます。

残念である私の本質とは異

なる趣旨や世界に違和感を

強く感じてしまう勿論これ

は見学会開く私にこそ責任

が80%存在し明確な趣旨の

解説提示が大事になります。

 

◆質問者

長谷川さんは絵空事を言って

おられるのです?長岡に山城

など存在しないそんなの常識

 

◆対談者

 それは故意に作られた焼き付

けられた記憶であり私は現地の

城址へと行ってみたい!現場に

は現場の真実が残されています。

◆長谷川

私は土塁や櫓台跡見学する

タイプの研究家なのですよ。

だから矢倉台は必ず写真で

撮影が可能です。城跡犬走

や切岸を見る意志のない人

と城跡見学しても櫓跡見な

い切岸見る習慣のない人と

見学会しても城ではないと

暴言を吐かれてその見学会

はつぶされてしまう。これ

見学会のやりがいなき徒労

に終わってします。私とは

城跡走り回りのマラソンを

開催してない訳です。私は

来られる方の趣旨を最大限

に理解しようと努力してま

すが城を見る方の個性とは

千差万別の対応求められる。

◆批判者

長谷川さんは誇大妄想癖が

ある長岡に山城などないし

加賀氏など聞いた事ない!

その城の縄張図書きました?

◆長谷川

縄張図を作成し遺跡鳥観図

を作成しております。この

城巨大城郭群のほんの一部

全長110mで約一町の長さ

がありますよ。数か所の城

をそそっかしく飛び回る事

は私の趣旨でなく巨大100m

の丸つまり「丸」を丁寧に

見学する事が趣旨なのです。

◆質問者

それらの城址の図面や解説は

どこで実施される予定ですか?

京極加賀守系の巨大山城群が

発見された事はこれはトップ

ニュースに相当する大事件だ!

 

◆長谷川

私にには相談相手がいません。

私のブログは無視されている。

私は理解者支持者がゼロです。

不人気の私は講演や見学無理

第一猫の子一匹見向きもされ

ない。巨大な城址を眼前にし

これを見られず歴史を語る人

は多い事でありましょうが。

 

▼京極高数ウイキペデイア

京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将守護大名室町幕府侍所頭人兼山城国守護出雲国隠岐国飛騨国守護。

生涯

[編集]

京極高詮の次男として誕生した。

応永18年(1411年)、飛騨の国司姉小路尹綱(あねがこうじ ただつな)が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、幕府軍の総大将に任命され、越前国朝倉氏甲斐氏信濃国小笠原持長らと共に5千余りの兵を率いて鎮圧している。応永28年(1421年)から正長元年(1428年)まで侍所頭人と山城守護も務めた。

応永20年(1413年)に兄の高光が亡くなり甥の持高が跡を継ぐが、持高も永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなる。『薩戎記』はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。

嘉吉元年(1441年)6月24日、赤松満祐が開いた酒宴に6代将軍足利義教、諸大名・公家らと共に招かれ、宴の最中に義教が赤松氏の家臣により殺害される(嘉吉の変)。管領である細川持之をはじめ多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い、討たれた。

京極宗家の家督は持高の弟の持清が継いだ。高数には子がおり、足利義教から偏諱(「教」の字)の授与を受けた長男の教久(のりひさ)は別家し(=京極加州家)、次男の高忠多賀氏の家督を継いだ。

 

 

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