城郭ビイスタ論 上文字クリック
意外!織田信長、朝倉教景の共通点「見栄虚飾より現実重視!」
戦国武士道の真髄!
対談者
長谷川先生!大河麒麟が来るで越前金ケ崎で浅井
長政に裏切られた、織田信長が異常な声を上げて
孤独に涙を流す演出は真に奇妙滑稽に思いますが?
長谷川
さて織田政権による越前侵攻や越前統治とは我々
現代人が軽々と考えられるほど容易で安易な事で
はありません北陸の大国越前を統治する事自体が
如何に困難か?その道程を年表から考察しますと
①信長越前金ケ崎侵入失敗
1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景と
戦うが、浅井長政の信長陣営離脱により京都美濃へ敗退。
②信長越前朝倉氏を近江浅井氏を殲滅し越前を統治
天正元年8月(1573年 )の事
③【 天正2年(1574 年】正月岐阜での宴会で信長は、
北国で打ち取った「朝倉義景・浅井長政・久政」の
三名の頭蓋骨を酒肴にしている。『信長公記』
④信長越前一向一揆蜂起して是を殲滅し越前を再統治
天正3年(1575年)8月 信長越前国を柴田勝家に任ず。
つまり織田政権は正式に大国越前を支配するのに
1570年から1575年の五か年も年月を要してます。
対談者
なるほど信長は越前を平定するのに①②③④もの
長い道程を年月を費やした③岐阜城も越前北近江
の領主、浅井朝倉3名の頭蓋骨を酒肴にした事も
越前実質統治の時間軸上の途中経過であった事が
本当に良くわかります。
質者者
何故先ず最初に越前金ケ崎城手筒山城奪取を信長は
狙ったのでしょうか?
長谷川
A 社会的PR効果宣伝効果
南北朝期の合戦軍記物で中世の人々にもよく知ら
れていた、越前金ケ崎城、手筒山両城を奪取獲得
する事は北陸道に入口敦賀を制した事になります。
B 北陸物流経済圏の獲得「塩」
東海海産物流経済を基盤とする三河、尾張、美濃を
領有する織田徳川連合軍は当然日本海側や北陸道に
君臨する北陸海産物流経済を合戦という武力闘争に
より獲得する狙いがあります。「塩」
余談
尾張織田氏の故地される越前織田にも劔神社,剣神社
は福井県丹生郡越前町織田に鎮座。織田信長が氏神
と崇めた神社とされるが歴史を遡ると、越前敦賀郡
には『延喜式』神名帳にも記載された織田神社もあ
り尾張織田家は越前を織田の故地とも見立てていた。
長谷川
それほど越前は統治困難な大国であったと言う事
1570年越前敦賀郡金ケ崎城侵攻失敗は信長にとり
大きなシヨックで戦略破綻を象徴する信長の号泣
の演劇的手法演出が、用いられたと私は思います。
長谷川
◆なるほど!織田信長が略奪した、物、国、人
名茶器、九十九髪茄子⇒朝倉教景のかっての所有物
越前敦賀郡金ケ崎城等⇒朝倉教景のかっての所領地
越前国⇒越前の大守 朝倉義景の領国 義景の首級
足利義昭⇒朝倉義景から義昭を獲得して上洛を果す。
明智光秀⇒足利幕臣から織田に抜擢、後に光秀反逆。
斉藤龍興⇒斉藤道三孫天正元年越前刀根坂戦死首級
美濃国⇒信長は国主、斉藤龍興から美濃を奪取した。
長谷川
逆説的に言うとあの織田信長でさえ5カ年も越前
本格統治に費やしたのに朝倉氏100年の屋台骨を
歴代当主の参謀となり、朝倉軍奉行、として活躍
した、朝倉宗滴教景の軍事的、統治的、経済手腕
とはまさに天与の才、教景は稀代の名将なのです。
なにしろ教景は戦国時代に越前九頭流川で北陸の
重要海産物シヤケを人口孵化させる事を実施する
ほどの日本の水産業歴史で見落されてる重要歴史
なのです。勿論シヤケは塩分を含む重要海産物資
として塩を産出しない近江浅井氏や近江湖西また
比叡山そして京都へとその物流経済を掌握し豊か
な経済力を持っていた事は天下の茶器名物である
九十九髪茄子を所持した事で解ります。あの三菱
財閥の基礎を確立した岩崎弥太郎の実弟弥之助が
九十九髪茄子を嘱望所持した事は三菱の弥太郎が
弥之助に購入資金を、援助した事、でも解ります。
そう三菱は、三菱造船や三菱自動車、三菱商事へ
と発展する企業です。あの戦時中の戦闘機零戦も
三菱零式艦上戦闘機です。要するに艦上つまりは
船の上に乗せる飛行機の「船」の意味です。信長
も琵琶湖で大船建造し大阪湾で鋼鉄船を作った人。
★筆頭足利義満も中国から「日本国王」とも言れ
た人。勿論、船を介在し「対明貿易」「日明貿易」
を介し巨万の富を得た歴史上の経済権力者ですね。
◆朝倉教景の慧眼の側面
若き尾張の織田信長の才能を見抜く慧眼と洞察力?
『続々群書類従』第83条『朝倉家禄』に、朝倉宗滴は
※1臨終の際「今すぐ死んでも言い残すことはない。
でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しん
でいるのではない。織田上総介(=織田信長)の行く末
を見たかったのだ」と言い残したと言われている。
※1朝倉宗滴が亡くなったのは1555年
◆朝倉教景の文化人と情報収集の側面
朝倉宗滴は若年期より文化的な才能も発揮、1494年に
公卿歌人、飛鳥井雅康から『二十一代集巻頭和歌』を
伝授さる。和歌や連歌も好み、金吾谷の山荘に連歌師
宗長を招き、度々連歌会を開催。茶道に親しみ、足利
義満が所有の名器・九十九髪茄子を一時所有した。
公家儒学者の清原宣賢より儒学の常の教えを学んだ。
文人と交流する事により、諸国の情報情勢を収集した。
◆朝倉教景の水産業経済家としての側面
庭で鷹を卵から育てる人工繁殖、鮭の卵を温度調節
された水槽で飼育し人工孵化に成功させ水産経済家。
◆朝倉教景は天下に名だたる武人のひとり!
名物九十九髪茄子の歴代所持者「オナー」
★足利義満
足利義政
I
山名政豊
I
村田珠光
I
三好宗三
I
★朝倉宗滴教景
I
小袖屋
I
松永久秀
I
★織田信長
I
豊臣秀吉
I
藤重藤元
I
★岩崎弥之助
I
静嘉堂文庫
長谷川
◆大河ドラマ麒麟が来るの妙味と深意
美濃は塩が取れない海産物が摂取できないと
美濃の戦国大名、斉藤道三が、つぶやく、名
セリフがあり太平洋伊勢湾東海から登る太陽
を背にした織田信長が船に乗り異様な漁師の
装束で登場する奇妙な場面が強烈に印象に残
っている。是は織田信長が東海海産物流権益
を掌握する戦国武将である事を暗喩する暗示
的ドラマ効果であろう。つまり塩を介在する
戦国武将織田信長をテレビ監督は意図的暗喩
的な暗示効果演出。また斉藤道三の娘で信長
の正妻である帰蝶/濃姫をして越前に流浪して
いた明智光秀に相談して越前を攻め取る事を
信長に献策。つまり海産物の宝庫越前を攻め
取る事を進言する帰蝶/濃姫をして言わしめる
劇的暗喩手法が大河ドラマには採られている。
浅井謀反に端を発する元亀の騒乱を暗喩する
水桶の中の「亀」を見るまだ僧、覚慶時代の
足利義昭を大河ドラマでは用い暗喩する。現
に『信長公記』で信長は「元亀の年号不吉に候
まじく改元しかるべき」と信長の言説を生々し
く記述している。亀甲紋を用いる、近江浅井氏。
亀甲を連想させる信長の上洛を阻む近江の佐々木
六角氏などの暗喩を含むものと思われるが、
たかが大河ドラマとあなどり、看過していると
隠されたドラマの作者側や演出側の深意や寓意を
読み取れない事も発生する。大河ドラマとは創作
された架空の人物を登場させ世の大衆に歴史の真意
や虚実を大衆に改めて問いかけ考えさせる寓意も含
む事を看過できない。元亀から天正年号へと推移
する過程においてお大きな事変が発生した「元亀の
騒乱」は、忘れてはならない事だ。
▼本ブログにも過去に投稿した『元亀の騒乱』
◆長谷川 朝倉教景の事
NHKの大河ドラマ麒麟が来るに登場する大国越前国
の大守、朝倉義景は軍事的決断力面において精彩を欠
く凡武将としての印象を受ける演技設定になっている
ユースケ、サンタマリアさんの見せる空虚で虚無的、
退廃的な表情は演劇人、役者としては大変な名演だ。
実際に朝倉義景の若年時の当主として前半を補佐して
越前経営していたのは元越前敦賀郡司で朝倉氏戦奉行
の朝倉金吾教景である。この人物こそ越前北陸の要だ。
金吾が亡くなった後の元亀元亀年間越前敦賀郡金ケ崎
城に侵入して浅井長政の朝倉加担を聞き急遽織田信長
は京都に逃走し己の生命の見事に危機を回避している。
越前朝倉氏100年の栄華の屋台骨を支えた無敗の優将
朝倉金吾教景の残した名言に
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」
がある。これは当時の朝倉氏の軍事顧問、軍奉行を担当
していた教景の名言である。「戦(実戦)に参加する武将
は犬とも畜生も言われても現実には勝利する事を第一に
心掛けなければならないと言う現実主義者の名言である。
勝つ為には手段を選ばない。とにかく勝利する事を第一
に考える事が武者の本質と説いている事だ。百戦百連勝
の北陸の無敗の名将の言葉だけでに是は非常重い言葉だ。
現代流の言葉に置き換えると資本家は実利が全てだろう。
◆教景と信長の共通点
1、若くして軍事に関わり強敵を撃破する天与の軍事的才腕。
2、両将天下の名器★九十九髪茄子を所持した経済文化有識者。
3、教景は越前で、鮭の養殖をして海産物の流通経済を指向。
信長は永楽通宝を旗印に伊勢湾の海産物や塩や貿易港を指向。
4、見栄虚飾を嫌い実務実力、実益実践する人を登用する人。
6、信長は元亀年越前敦賀金ケ崎を欲し朝倉教景は元敦賀郡司。
7、朝倉氏は居城一乗城山に海産物の守護神、赤淵明神を信奉。
8、織田信長の父織田信秀は伊勢湾の良港津島港の東海海産物
権益を掌握して尾張屈指の実力者として『塩畑』を勝旗に改
めて織田信長が戦国大名として大成する基盤を築いた人物で
ある。朝倉金吾教景が北陸の塩を介在とす海産物の重要拠点
越前敦賀郡を自領としていた事は看過できない。織田信長の
出生地は、近年この『塩畑』を『勝旗』と改めた「勝旗城」
とする説が有力である。『信長公記』の永禄以前の記録では
何と!美濃大垣城も織田信秀の保有する城であった事に驚く。
◆令和2年 尾張 勝旗城歴史紀行 記念写真
▼名鉄勝旗駅前にある勝旗城復元ジオラマ模型
長谷川解説
内郭「内輪」と外郭「外輪」 水堀を二重に
構えた典型的な平地城館の様相が偲ばれる。
▲さてここで今はもう存在しない初期織田軍団の勝旗城
を観察します。城には内堀と外掘の間に本丸を取り囲む
帯郭が存在します。これが実質帯曲輪なのかまたは二重
堀の中間に存在する中畝なのでしょうか?以前にも織田
信長の築城した旧二条城の中畝をブログ紹介致しました。
▼信長の築城した旧二条城の中畝
また滋賀県多賀町敏満寺の二重堀と中畝も
▼織田家家臣柴田勝家の玄蕃尾城「長浜市60%敦賀市40%」の外畝も
▼織田家家臣柴田勝家の玄蕃尾城「長浜市60%敦賀市40%」の外畝も
二重堀切と中畝のある近江横山城も度々登場させましたが
覚えていらっしやいますか?
▼名鉄勝旗駅及び勝旗城址案内板
▼勝旗駅前の織田信秀夫婦と 乳幼児信長のブロンズ像
▼勝旗城の解説看板と余呉城郭研究会 田畑名誉理事
▼地元有志様の勝旗城顕彰看板
長谷川
◆織田信長は華麗な鷹狩りや形式的「鷹狩りを無視し捕獲」
を最優先させて、鷹狩りの情報や戦況情報を第一とする人。
『信長公記』巻首の
「六人の衆と云ふ事」より引用
「鷹野の時は、廿人、鳥見の衆と申す事申し付けられ、
二里、三里御先へ罷り参り候て、「あそこの村、爰の
在所に、雁あり、鶴あり」と、一人鳥に付げ置き、
一人は注進申す事候。又、六人衆と云ふ事定めら
れ、弓、三張の人数浅野又右衛門 太田又介
堀田孫七 以上鑓。三本人数
伊藤清蔵 城戸小左衛門 堀田左内 以上
此の衆は、御手まはりにこれに在るなり。
伊藤清蔵 城戸小左衛門 堀田左内 以上
此の衆は、御手まはりにこれに在るなり。
馬乗一人。山口太郎兵衛と申す者、わらを
あぶ付きに仕り候て、鳥の志りをそろりそろり
と乗りまはし、次第次第に近より、信長は御鷹
居給ひ、鳥の見付け候はぬ様に、馬の影にひつ
付いて、ちかより候ひし時、はしり出で、御鷹
を出だされ、「向待」と云ふ事を定め、是れに
は鍬をもたせ、農人の様にまなび、そら田をう
たせ、御鷹取付き候て、くみ合ひ候を、向待の
者、鳥をおさへ申し候。信長は達者候間、度々お
さへられ候と承り及び候」「信長の武者をしられ
候事、道理にて候よ」とぞ、ふしをがみたる躰
にて候間、「御いとまを」と申し候へば、「のぼり
にかならず」と仰せられ、罷り立ち候ひつると、
天沢御雑談候ひつる。
【長谷川解釈】天沢和尚と武田信玄の対話
「鷹狩で、織田信長は、20人を「鳥見の衆」と
「鷹狩で、織田信長は、20人を「鳥見の衆」と
名付け、2里(8km)、3里(12km)偵察させ、
「あそこの村、ここに、雁がいる、鶴がいる」
と索敵させる、1人は鳥に付け置き、1人は報告
に行く役目とする。信長自身はなんと領主たり
といえども騎馬せず山口太郎兵衛に景武者とし
て鷹狩りの馬に乗せておき鳥の後ろを、そっと、
そっと乗り廻し、次第、次第に近く。信長は、
鷹を手に据えて、鳥に見付けられないように、
馬の陰に隠れて近づき、近くになると馬の陰
から走り出て、鷹を放ち鳥を確実に捕獲する。
◆室町期の領内の鷹狩りの様式美としては完全
に領主や大名のする鷹狩りから織田信長の実施
する鷹狩りは逸脱している。信長の従者の武士
達にも農民に変装させて室町期鷹狩りの領主と
しての威厳や見栄や華麗な領主としての体裁は
全くない!武士を農民に変装させる事は忍びだ。
朝倉教景が
「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が
本にて候」と言い放つ見栄より現実実践獲得の
本質を説く現実主義と織田信長の行動理念とは
妙な事に一致する!
◆永禄三年桶挾間合戦で今川義元は信長に狩られた!
信長は鷹狩で鳥を捕獲する為に鷹狩りする領主とし
の見栄や虚飾は一切捨て去った実利獲得主義の狩り
を実行する狩人「ハンター」でもある。駿遠三大守
の今川義元が騎馬ではなく、塗輿「貴族の載り物」
で桶狭間に駐留した事は狩人「人間の狩人」とも
言える織田信長にとり今川義元の首級を切り取り
迅速に本拠地清須城に引き返した桶狭間電撃戦の
勝利は信長が平素鷹狩りで行っている索敵、敵情
確認、密かに獲物に野獣の如く突撃して是を捕獲
する狩人「ハンター」の性癖と言える事であろう。
獲物を確実に己の射程に引付是を撃破する戦法だ!
尾張小牧で講演するブログ著者 長谷川博美 本人