伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

無批判に持ち上げてはだめと良く分かりました

2019年12月15日 | 憲法
 遠藤弁護士の経歴がユニークだ。

 東京大学法学部を卒業して同法学部で助手になり、3年後、東北大学法学部で助教授になり拳法講座を担当した。9年後、同法学部助教授を辞任した。その理由は宣教師になろうとしたのだという。

 辞職時に教授は、指導している生徒たちがいるのに辞職するのは「わがままだ。いや間違いだ」と指摘しながらも、辞職後も勉強を続けるように求めたという。

 釜ヶ先での日雇い労働に従事した後、宣教師ではなく弁護士となって、憲法の理論研究と実践を続けているという。

 ①象徴とは-「ねじまき鳥クロニクル」から「騎士団長殺し」まで
 ②主権とは-カール・シュミットとやー鼓舞・多雨ベス
 ③憲法訴訟とは-私たちは行き直すことが出来るのか

 3つのテーマでそれぞれ1時間ほど話した。

 全体のお話を十分理解したかというと、なかなかそこは・・という感じで、あらためて資料に目を通さなければと思うのだが、「象徴とは」のお話は考えさせられた。


 ある道を踏み外した宣教師の説教から、宗教は社会の一分野ではなく、深さを示すもので、全てを捧げることを求めるものであり、宗教と結びついた国家は、国民に全てを要求し、国民は全てを奪われていくという。

 また、人間が象徴を作るのは、究極的なものは象徴でしか表せないからなのだという。

 戦後日本は、象徴天皇制を導入したが、代替わりの大嘗祭を無批判に取り上げる状況には、象徴天皇の危険性が表れていると指摘して、天皇が究極的象徴とならないように、私たちが逆の象徴を持つ必要があるというのだ。

 また、ジョージ・オーウェルの「1984」で、集団的記憶を作り上げて個人的記憶を上塗り改ざんしている登場国家を紹介した。同じようなことが歴史を改ざんした教科書作りで行われていることを指摘し、集団的記憶で個人的記憶をすり替えている象徴として天皇が使われるを指摘した。


 このお話には、反省的に思い起こされることがある。

 現在の安倍政権が、憲法を軽視していることに対するアンチテーゼの一つとして、平成天皇が戦争犠牲者の慰霊に心を砕き、平和への思いと憲法擁護の姿勢示すことをもって、「政府よりまともな憲法観を持っている」と無批判に持ち上げる思考におちいることだ。


 事実として政府よりしっかりした憲法観を持っているように思うが、それだけで天皇制という仕組みを持ち上げることには危険がつきまといそうだ。

 象徴とはいえ、天皇という特別の地位が無条件で与えられる家族は、やはり権力を集中するターゲットとして利用しやすいという現実があるだろう。実際、平成天皇と憲法観などでうまくいかなかった安倍首相は、現天皇との関係改善を図ろうとしているという報道がされていた。天皇のある種の権威を利用したい思惑があるのだろう。


 こうしたことを考えたときに、天皇や皇室などを無批判に高く評価するような行為は、象徴天皇の権威を高めることを通じて、天皇を究極的象徴に導く危険性を内含するということを自覚するべきなのだろう。

 実際、令和の天皇の代替わりでは、宗教儀式である大嘗祭を国費でまかなうなど、政教分離に反する事態もあった。もっとも、これは天皇の国事行為について「助言」する政治の側の問題なのだが、これらには、復古的かつ極右的な政治潮流のもとで、天皇の神格性を復活させ、戦前のような天皇元首の国家の建設をめざしているようにもとれるのだ。


 天皇の動向と安倍政権を対抗させる思考は、結局、権力対権力という構図の中でどちらの権力を選ぶという思考になっていることを示すのだろう。しかし、天皇は権力ではなく、あくまで権力のない象徴だ。そこを踏み外さないように自戒しなければならない。


 遠藤氏は対立する象徴として、村上作品の顔のない象徴をあげる。そこには無数の犠牲者たちが象徴されているという趣旨で話していたと思う。なるほど、普通に生活する市井の人々の現実にこそ象徴があるのか。


 出席をどうしようか悩んだが、興味深いお話を聞くことが出来た。 


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