伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

代表質問の答弁1・戦後70年と憲法

2015年03月14日 | 市議会
 2月定例会の代表質問です。本来は、全ての質問を読み上げ、答弁をまとめて受ける一括質問一括答弁の方式で行われています。このブログでは質問に対して答弁を差し込み、一問一答の形に編成しなおしてあります。今回が1回目。終戦70周年の取り組みと憲法、集団的自衛権行使への見解、そして戦争遺品の収集・展示など求めました。

 質問全文は3月3日のブログ=http://blog.goo.ne.jp/hiroyuki19601121/e/ac54e413b623d4ada5215a7533a4316a=に掲載しています。



 伊 藤
 10番、日本共産党いわき市議団の伊藤浩之です。



 きょう3月3日は「ももの節句」です。あらためて調べてみると、古くは「上巳(じょうみ)の節供」といわれて、その起源は古来中国の上巳節(じょうみせつ)にあるといいます。平安時代に、3月上旬の巳の日に、川で身を清め不浄を祓った後に宴を催す習慣が日本に伝わり、宮中の「人形遊び」と結びついて「流し雛」へと発展したといわれているようです。

 同じアジアの東に位置する日本と中国は、文化的にも様々つながりながら歴史をきざんできたことを知ることが出来るように思います。

 その相手国の中国が不当にも尖閣諸島の領有を強く唱え始めて以降、これに対して日本も強硬的な姿勢を示し、新中期防衛力整備計画では、島嶼防衛を理由にした兵装を整えようとするなど、緊張を高める方向での対応を強めているように見えます。

 昨年7月の集団的自衛権行使容認の閣議決定もその一つです。これには歴代の自民党幹部の批判が集中し、自衛隊の機関紙と言われる「朝雲」は、寸言という記事で、「自衛隊が人質を救出できるようにすべきとの国会質問は現実味に欠けている」と論評しました。

 そこでは「これまで国会で審議してきた『邦人救出』は、海外で発生した災害や紛争の際に、現地政府の合意を得たうえで、在外邦人を自衛隊が駆けつけて避難させるという内容だ。今回のような人質事件での救出とは全く異なる」と指摘しているのです。論議を尽くさず先に先に進もうとする安倍政権のあり方に一石を投じたその意味は、非常に大きなものがあると思います。

 ところが安倍政権の行動は、こうした批判を受けてもとどまることを知りません。今度は戦争の反省に取り入れられた文民統制を取り払おうとしています。

 中谷防衛大臣は、文民統制の根拠とされる、防衛省設置法第12条の文官統制が、規定に盛り込まれた経緯を新聞記者に問われて、「法律ができたのは1954年。私はその後、生まれたわけで、当時どういう趣旨があったかは分からない」と述べたと報道されました。


1 戦後70年と集団的自衛権・憲法改定について
(1)太平洋戦争の認識について


 このような人たちによって、終戦から70年を迎えようとしているこの年に、戦後、日本の平和と安全を守ってきた仕組みが次々と壊されていこうとしていることに危惧を深くせざるを得ません。

 本市は、恒久平和の願いを込め、核兵器の廃絶を訴える非核平和都市宣言を採択し、核兵器廃絶と平和を訴えて、節目となる年には記念行事も行ってきました。この非核平和都市宣言を持ついわき市の市長として、清水市長は、太平洋戦争について、いまに活かすべき教訓をどのように認識していますか。

 市 長
 戦後70年が経過しようとする今、私たちが平和で豊かな暮らしを享受できるのは、多くの犠牲と戦火を乗り越え、復興の礎となった人々の英知と努力の賜物であることを忘れてはならないと考えております。

 多くの尊い命を奪った戦争は、私たちに、戦争の悲惨さ、平和の尊さを教えてくれています。
 私は、この教訓を忘れることなく、後世に伝えていくことが、今を生きる私たちの責務であると認識しております。


(2)憲法改定と集団的自衛権行使について

 伊藤
 安倍内閣は昨年7月1日に、それまでの憲法解釈を変更し、現在の憲法の元でも集団的自衛権を行使できるという閣議決定をしました。

 それ以降、この閣議決定にもとづく法整備の時期が一つの問題になってきましたが、昨年12月、民意を極端にゆがめる小選挙区制による衆院選挙で、自民党をはじめとした与党がほぼ現有議席を維持したことを持って、安倍内閣の政策は支持されたとして、憲法改定の必要性を強調しだしました。

 年が明け、過激武装組織「Islamic State」いわゆるISが日本人殺害事件を引き起こすと、日本が海外で軍事行動を展開するために憲法改定が必要性だと声高に叫ぶようになりました。

 戦後70年、現在の憲法のもとで日本が経済的な前進を図ることができたこと、また、戦争で一人の命も奪ったことがない国として、世界から日本が信頼されている現実を考えた時、これを改憲することは日本と日本国民にとって不幸を招くのではないでしょうか。

 現憲法が戦後日本にとってどのような役割を果たしてきたと市長は認識しているのかお聞かせいただきたいと思います。

また、現在、開催中の通常国会の施政方針演説で安倍首相は「憲法改正に向けた国民的な議論」を呼びかけました。

 最高法規である憲法は、一般の法律が政府・行政機関が国民を規制するものであるのことと違って、国民が政府を規制するための法律です。この考え方、すなわち立憲主義の元で、規制される側の政府が改憲を言い出すのは本末転倒であると思います。

 政治権力を持つ首相の側から提起される憲法改定には、この近代憲法の原則である立憲主義の観点からも反対すべきと考えますが、市長はどのように考えていますか。

 市 長
 現憲法が戦後日本に果たしてきた役割及び憲法改定に関する立憲主義の観点からの認識についてのおただしでありますが、関連しておりますので一括して答弁いたします。

 国の最高法規である現行憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を三原則として制定されたものであり、この憲法のもと、すべての国民が個人として尊重され、自由及び幸福を追求してきた結果として、日本は戦後の復興を成し遂げることができたものと認識しております。

 また、この憲法は、私たち国民の権利を守るために存在するものでありますことから、憲法の改正については、主権者である国民の承認が必要であり、国民的な議論が不可欠なものであると認識しております。

 伊 藤
 さて1986年、大きな市民運動がすすむ中で、いわき市非核平和都市宣言が採択されました。この宣言は恒久平和の願いを秘めて核兵器廃絶の願いを世界に向けて発信しました。

 このいわき市非核平和都市宣言が採択された時、当時の田畑金光市長は、「真の恒久平和を実現するには非核三原則を堅持するだけでなく、平和秩序が脅かされるすべての行為を排除する高い理念が求められており、この理念を全世界に普及することが重要なことであります」との認識を示していますが、こうした認識を持って制定された非核平和都市宣言と、歴代の内閣ができないとしてきた集団的自衛権の行使は相いれないものと考えますが、市長の認識はいかがでしょうか。

 集団的自衛権の問題は、同盟国であるアメリカ軍と日本がいっしょに軍事作戦を遂行することになり、日本にとってはおおいに不利益があると思います。

 昨年9月定例会に集団的自衛権行使の閣議決定の撤回を求める質問をした際に、市長は「国の専管事項として判断されたものであり、地方行政を預かる立場にある市長として、論評は差し控えさせていただきたい」と答えていますが、

 集団的自衛権行使を具体化する法整備については、本市の非核平和都市宣言の恒久平和への願いという宣言の立場から反対すべきと考えます。いかがですか。

 市 長
 非核平和都市宣言と集団的自衛権の行使及び集団的自衛権行使を具体化する法整備についてのおただしでありますが、関連しておりますので一括して答弁いたします。

 本市は、核兵器の廃絶を強く訴え、非核平和都市宣言を行っており、今後とも、平和思想の普及に努めてまいりたいと考えておりますが、集団的自衛権の行使及び集団的自衛権行使を具体化する法律の整備につきましては、国の防衛に関することでありますので、地方行政を預かる立場にある市長として、論評は差し控えさせていただきます。

 伊 藤
 昨年9月定例会での質問は、本市が受託し実施している自衛隊員の募集業務にかかわって、憲法解釈が変わったもとでは、我が国が攻めこまれた際に国民の命を守る自衛隊員を募集する業務から、日本に攻撃がなくても戦場に馳せ参じ武力行使をすることを前提にした自衛隊員を募集する業務に変わることになることを述べました。

 自衛隊員の募集にかかわっては募集業務の受託だけではなく、全国的には防衛省から自衛官適齢者名簿提出の協力要請があると聞きます。本市にも自衛官適齢者名簿提出の協力要請はあるのでしょうか。

 行政経営部長
 今年度における自衛官及び自衛官候補生の募集にあたり、昨年9月、自衛隊福島県地方協力本部より、紙媒体による適齢者名簿の提供について、口頭で要請を受けたところであります。

 伊 藤
 自衛官適齢者名簿について、本市はどのような対応をしているのでしょうか。

 行政経営部長
 自衛隊法及び同施行令にもとづき、市町村長は、自衛官及び自衛官候補生の募集に関する事務の一部を行うこととされておりますが、紙媒体による適齢者情報の提供については、同法に明確な規定がないことから、本市におきましては、住民基本台帳法及び「いわき市住民基本台帳の一部の写しの閲覧並びに住民票の写し等及び戸籍の附表の写し等の交付に関する事務取扱規則」にもとづき、住民基本台帳のうち、氏名、生年月日、性別及び住所が記載された「住民リスト表」を、自衛隊福島地方協力本部からの請求にもとづいて、同本部いわき地域事務所の職員に閲覧させている所であります。


(3)戦後70年にあたっての本市の対応について

 伊 藤
 1945(昭和20)年8月15日、前日、ポツダム宣言を受け入れることを連合国各国に通告した日本は、正午に天皇の終戦の詔書の読み上げ、いわゆる玉音(ぎょくおん)放送を行い、戦争が終わりました。

 この戦争でアジアでは2,000万人の犠牲者となり、また国民には軍人・軍属で230万人、約50万人の空襲などによる国内での死亡者を含め民間人の戦没者は80万人に達し、合わせて310万人の犠牲を出しました。

 最大の問題は、戦局が悪化する中でもずるずると戦争を続けたことにありました。1945年2月14日に近衛文麿が戦争集結を昭和天皇に上申しました。しかし昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい思ふ」と、戦争継続をさせたことが知られています。

 このことがあった翌月、3月の10万人を超える犠牲を出した東京大空襲を始め日本各地を空襲が襲い、同じく3月に9万4,000人の民間人犠牲者を出した沖縄戦が始まりました、そして8月の広島、長崎への原爆投下へと戦局は向かって行きました。

 このいわきでも、2月25日に江名魚港の漁船30数隻が鹿島灘で米軍艦載機の銃爆撃を受け131名が死亡しました。

 平を空襲が襲ったのは3月と7月でした。15人の死者を出し、2,000戸以上の住宅を失っています。太平洋戦争は、徴兵された人々だけでなく、このいわきの地にとどまった住民にも犠牲をおしつけました。

 そして迎えた終戦から70年が経とうとしています。
 終戦70周年の首相談話に何が盛りこまれるかが問題になっていますが、従軍慰安婦の問題をはじめ戦前の日本軍が行った蛮行はやはりきちんと反省すべきです。

 従軍慰安婦の問題を報じた朝日新聞の記事は、その根拠になった証言に虚偽があったことで否定されましたが、だからといって従軍慰安の問題全てが否定されたわけではありません。

 海軍主計士官だった中曽根康弘元首相は自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを証言したことがあります。「終わりなき海軍」という本で、中曽根元首相はそこに「二十三歳で三千人の総指揮官」というタイトルの一文を載せ、次のように記しました。

 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 防衛省にはそれを裏付ける部隊の隊員による証言として、「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」したという戦時資料が残っているというのです。

 こうした歴史を真摯に受け止め、そして真摯に反省した上で、対等な立場での未来の関係を模索して行くことが大切なことだと思います。

 さて本市の非核平和都市宣言は、こうした反省をしっかりと踏まえたものであることは明らかです。

 非核平和都市宣言の趣旨に沿って、戦後70周年をどのように本市の施策等に反映する考えでしょうか。

 市 長
 本市は昭和61年3月に非核平和都市宣言を行い、宣言文の掲示や、原爆パネル展の開催などにより、非核平和思想の普及・啓発に務めているところであります。

 平成27年度は、非核平和都市宣言30周年、広島・長崎の被ばくから70週年を迎える節目の年となりますことから、核兵器の廃絶を訴え、戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくことを目的に、被曝体験者の講話や長崎市の平和式典に参加する中学生からの報告会などを内容とする記念事業を実施する予定としております。


戦時中の遺品の数々・平和のための勿来の戦争展から

 伊 藤
 2月21日から22日にかけて実施された植田公民館まつりの会場の一角で、平和のための勿来の戦争展が開催されました。会場には炭砿などでの朝鮮人の強制労働の実態調査の結果や、勿来の戦跡などに関する展示とともに、銃弾や手榴弾、長靴、千人針を始めとした戦争遺品が展示されていました。

 ここ数年8月には文化センターでも、市民団体による「いわき平和のつどい」が開かれ、展示や映画などで平和について市民に考える機会が提供されています。

 先だってNHKの番組では92歳の戦争体験者が特攻作戦に関して米艦が沈没していないのに上官は「轟沈」とうその戦果報告をしていたと証言していました。これまで一度も戦争体験を話したことはないものの、90歳をこえ初めて戦争の時の体験を語ったと伝えていました。

 いわき市での戦争体験を聞いたこともあります。ある方は、植田などにも連合軍機が飛来し、錦の呉羽化学の煙突に向かって機銃照射を繰り返すのを、竹やぶに逃げ込み震えながら見上げていたという子どもの頃の体験を話してくださいました。

 またある方は、徴用された時に防空監視所の監視員となり、ある日、空に銀色の物体が浮かんでいくのを見つけ、当時平にあった上部機関に連絡すると、「見なかったことにしろ。誰にも話すな」と口止めされたといいます。この人はおそらく風船爆弾だったのではないか、と話していました。

 こうした貴重な体験を持つ方々が高齢になり、戦争体験を語ることが出来る人が少なくなる中、その記憶を風化させることなく、後世に伝えていくために取り組む最後のチャンスが今、ということが出来るように思います。

 70周年を迎え、散逸しつつある戦争遺品を収集・展示し後世に平和の尊さを継承するための施設の整備を検討・設置すべきと考えますが、いかがでしょうか。

 総務部長
 戦争を体験した世代が少なくなりつつある現在、戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の尊さを訴えていくことは重要であると認識しております。

 本市といたしましては、非核平和都市宣言を行い、核兵器のない平和な世界の実現に向け、庁舎や学校等の公共施設における宣言文の掲示や、庁舎等における原爆パネル展の実施、周年事業として講演会の開催等、さらには本市が加入しております非核宣言自治体協議会及び平和首長会議における加盟都市との連携等により、非核平和思想の普及・啓発に努めているところであります。

 今後におきましても、そのような取り組みを継続してまいりたいと考えておりますが、戦争遺品を収集・展示する施設につきましては、戦争遺品のとらえ方や、所有権の確認、また、収集や取得・保管等にかかる方法、さらには施設整備費用の確保など、解決・整理すべき課題が多くありますことから、その整備は難しいものと考えております。


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