伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

母と暮らせば

2015年12月16日 | 文化
 「母と暮らせば」。あれ、どこかで聞いた言葉だな。そんなことを思っていました。井上ひさしさんの作品にあったような・・とも思っていました。

 週刊現代の12月26日号が、女優の吉永小百合さんと映画監督の山田洋次さんの戦後70年スペシャル対談「あの日感じた暑さの中で」を掲載していました。

 その中で山田監督が言っています。

「井上ひさしが広島を舞台に描いた戯曲『父と暮らせば』と対になる物をという思いで今作のメガホンをとった」

 ああ、そうだ、そうだった。合点がいきました。

 「母と暮らせば」。12月12日に封切られた映画だ。

 同作のホームページはこう解説する。

「父と暮らせば」で広島を、未完となった「木の上の軍隊」で沖縄を舞台に描いてきた井上ひさしさんが、強く書きたいと考えていたのが、長崎を舞台にした物語でした。そして、タイトルは「母と暮らせば」だと、たびたび口にされていました。そのはなしに衝撃を受けて、監督はこの物語りを作ることを決意しました。


 山田監督が故井上ひさしさんの遺志を引き継いだ作品だということなのですね。

 物語はこうだ。

1948年8月9日。長崎で助産婦をして暮らす伸子の前に、3年前に原爆で亡くしたはずの息子・浩二がひょっこり現れる。「母さんは諦めが悪いからなかなか出てこれなかったんだよ」。その日から、浩二は時々伸子の前に現れるようになる。ふたりはたくさんの話をするが、一番の関心は浩二の恋人・町子のことだった。「いつかあの子の幸せも考えなきゃね」。ふたりの時間は、奇妙だったけれど、楽しかった。その幸せは永遠に続くようにみえた―。
TOHO CINEMAS.のHPより引用させていただきました。


 「父と暮らせば」では、原爆で亡くなった父親と娘の物語だったものを、「母と暮らせば」では原爆で亡くなった息子と母の物語に置き換えた作品だということのようです。

 「現代」の記事では、山田監督と母の役を務めた吉永さんの作品にこめた思いを語り合っていました。そして対談はこう結ばれています。

吉永 終戦70年目の年にこの映画を皆さんに見ていただけるということで、私が日頃から思っていることを込められたのではないかと思っています。

山田 そうですね。僕にとっても、節目の年にこの企画を実現できたのは光栄なことでした。

吉永 でも70年はこうして過ごしたとして71年目からはどうなるんだろう? という不安もあるんです。何か、戦後ではなくなってしまうような怖さが。

山田 「未来志向」という言い方をする人もいるけれども、未来に進むことと過去を忘れることは違うんじゃないかな。

吉永 本当に。今年を区切りにするのではなくて、私たち一人一人、みんなでこれから「戦後100年」を目指していかなければいけないと思います。




 読みながら浮かんできました。「過去に学ばざるもの・・」。あれなんだっけ。検索をかけてみました。

 あっ、これだ。

 ドイツの元大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼツが「過去に目を閉ざすものは将来に向かって盲目である」という言葉を残しています。1985年5月8日、連邦議会での演説の一節で、「個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを呼びかけた」(ウィキペディア)ものだといいます。「過去を思い出せない者は、それを繰り返す運命にある」という言葉を残したジョージ・サンタヤーナ(アメリカの哲学者で詩人)もいます。

 「過去に学ばないからこそ、将来に向かって盲目となり、過去の過ちを繰り返す運命にある」。だからこそ山田監督は、「未来に進むことと過去を忘れることは違う」と警鐘を鳴らすのだろう。

 吉永さんの言うように、「区切り」として今年を特別の年に終わらせるのでなく、過去から続き、今年あらたに発展した未来への萌芽を来年からも育てあげて、「戦後100年」を迎えることができれば良いな。そう思います。

 映画も何としても見なければ。

 いわきでやっているかな・・ポレポレいわき、っと・・ああ、やってるやってる。後は時間をどこで取るかだ・・。

ポレポレいわき上映時間


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