久しぶりに水野南北の言葉を読んでみました。全てはできていませんが、半分くらいは実践できるようになったように思います。日月神示の道を歩むようになってから肉食は止めました。もう2年半になりますね。最近は玉子や乳製品も直接は食べなくなりました。パンなどに入っている玉子や乳成分は摂っています。魚は週に1、2度くらい食べています。
通常はご飯と野菜、豆腐、海草、漬物、味噌汁です。江戸時代の食事のようですが、これがとにかく美味しいのです。ただし、野菜自体が美味しい必要があります。自分で無農薬で大根や白菜、人参、小松菜、ほうれん草などを作っていますので、野菜自体がとても美味しいため満足できるのだと思います。
以前は江戸時代の人々はずいぶん貧しかったのだろうなと思ってましたが、最近は現代人より豊かだったのかも知れないと思うようになりました。縄文人もかなり豊かだったそうですね。毎日無農薬の生命力ある野菜を食べていれば、マヨネーズやケチャップや異常に辛い、甘いものは、刺戟が強すぎて、あまり美味しく感じなくなってしまいました。最近は鰹だしもあまり使わなくなってきました。最近どんどん江戸・縄文化しています。
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水野南北 『相法修身録』
○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。
○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。
○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。
○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。
○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。
○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。
○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。
○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。
*ここのところ、仕事に追われていてブログの更新もあまりできておらず、恐縮です。土日も休まずやってるのですが、まだまだ終わりません。次から次と仕事が出て来ますので、先が見えません。
ただ、「仕事命ぞ」と日月神示にあるように、仕事をいただけることはありがたいと思い、感謝しています。仕事が無いことこそ、とんでもなく大変なことです。以前リストラされたことがありましたが、簡単には表現できないくらい大変です。リストラされたことのある人しか解らないと思います。(無理に解る必要はありませんが)
勤め人だったころは、結構手を抜いても何とかなってましたが、今はそういうわけには行きません。どっちが幸せかといえば、当然今の忙殺状態のほうがいいです(笑)。やらされているという感情がないのがいいです。自分で頑張ったら、結果としてすごく忙しくなったということですから。
3月も既にかなりスケジュールは埋まっていますが、どれもワクワクするような仕事ばかりです。そう言いながら、また次を企画してますので、自業自得です。今年から一名仲間が増えたので、その人が仕事を覚えてくれれば、かなり楽になります。そうすれば、また次の企画も実行できますので、益々面白くなっていくと期待しています。
通常はご飯と野菜、豆腐、海草、漬物、味噌汁です。江戸時代の食事のようですが、これがとにかく美味しいのです。ただし、野菜自体が美味しい必要があります。自分で無農薬で大根や白菜、人参、小松菜、ほうれん草などを作っていますので、野菜自体がとても美味しいため満足できるのだと思います。
以前は江戸時代の人々はずいぶん貧しかったのだろうなと思ってましたが、最近は現代人より豊かだったのかも知れないと思うようになりました。縄文人もかなり豊かだったそうですね。毎日無農薬の生命力ある野菜を食べていれば、マヨネーズやケチャップや異常に辛い、甘いものは、刺戟が強すぎて、あまり美味しく感じなくなってしまいました。最近は鰹だしもあまり使わなくなってきました。最近どんどん江戸・縄文化しています。
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水野南北 『相法修身録』
○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。
○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。
○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。
○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。
○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。
○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。
○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。
○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。
*ここのところ、仕事に追われていてブログの更新もあまりできておらず、恐縮です。土日も休まずやってるのですが、まだまだ終わりません。次から次と仕事が出て来ますので、先が見えません。
ただ、「仕事命ぞ」と日月神示にあるように、仕事をいただけることはありがたいと思い、感謝しています。仕事が無いことこそ、とんでもなく大変なことです。以前リストラされたことがありましたが、簡単には表現できないくらい大変です。リストラされたことのある人しか解らないと思います。(無理に解る必要はありませんが)
勤め人だったころは、結構手を抜いても何とかなってましたが、今はそういうわけには行きません。どっちが幸せかといえば、当然今の忙殺状態のほうがいいです(笑)。やらされているという感情がないのがいいです。自分で頑張ったら、結果としてすごく忙しくなったということですから。
3月も既にかなりスケジュールは埋まっていますが、どれもワクワクするような仕事ばかりです。そう言いながら、また次を企画してますので、自業自得です。今年から一名仲間が増えたので、その人が仕事を覚えてくれれば、かなり楽になります。そうすれば、また次の企画も実行できますので、益々面白くなっていくと期待しています。
読み終えての感想は、「日月神示」を読んでもなかなか食(特にお酒)を節することができない私を、神々がお導きくださるために、yasaiさんのブログを通じて、水野南北をお示しくださったのだろう、ということです。
日月神示に出会って以来、食事は腹八分目、肉は食べないを心掛けていますが、「相法修身録」を読了後はお酒に対する欲も落ち着いています。なんとか、このまま身を節して、預かり物であるこの身体を大切にしていきたと思っています。
ところで、「修身録」にある、自分の食事の一部を神に捧げるというのは、自分の食事の一部を神に捧げた後、それを捨ててしまうのでしょうか?そこが読み切れなかったので、ご意見を伺えれば幸いです。
すぐに相法修身録を購入し、実践されるのはたいしたもんだと思います。私も日月神示に出会ってからは肉はすぐ止めました。また、お酒の量を減らして、ご飯を増やしました。重量としては以前よりも今の方が多く食べていると思いますが、肉を食べなくなったので、体重が7Kg減りました。その後は全く体重の上下はありません。揚げ物を食べても全然問題ないですが、肉は太りますね。
今は20歳の時より体重は3Kg 減りました。筋肉が落ちている分、体重が減るのは仕方ないと思います。健康診断のメタボ率は、-2くらいでしたので、問題ない状態かと勝手に思ってます。
また、日月神示を知る以前は、お酒を1年で364日は飲んでましたが、今は晩酌はしていません。付き合いの時には普通に飲みますが、家では飲まなくなりました。毎晩飲んでたお酒を止めるのは、結構カンタンでした。
先ず、夕食の前にビールなどは飲まないで、食後に飲むようにします。面白いもので人間は、お腹が一杯になると、お酒は全然飲みたくなくなります。たまに飲みたくなるときは、ノンアルコールビールがいいです。いくらのんでも酔いませんし、かなり満足感はあり、案外便利です。
また、食事の一部を神様に捧げたあとは、私は自分でいただいています。神様に捧げた分と自分の分を足していただき、腹八分であれば、理想的だと思います。
よろしくお願いします。
神様に食を捧げる方法についてご意見をいただき、ありがとうございました。参考になりました。