かわたれどきの頁繰り

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【書評】ベルナール・スティグレール『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』

2015年12月07日 | 読書


ベルナール・スティグレール
(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)
愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を
(新評論、2007年)

 

 書架にスティグレールの名前を見つけて手を伸ばしかけたとき、「愛するということ」というタイトルに一瞬手が止まった。恋愛教本や宗教入門書の類かと一瞬思ったのだが、もちろんそんなことはない。『象徴の貧困』『現勢化―哲学という使命』と部分的には内容が重なっているが、講演をもとにしているためスティグレール哲学が比較的理解しやすい文章で語られている(もともと、フランスの哲学者としてはスティグレールの語り口は理解しやすいのだが)。
 『象徴の貧困』では2002年のフランス大統領選挙で極右のジャン=マリー・ルペンが第2位の票を獲得したこと、『現勢化』では自らの5年からの獄中での生活というように、現実に生じた事件や経験をベースに哲学が語られるのだが、本書もまた、現実の事件を契機として紡がれている。

この本のもとになった講演を構想したのは、社会が三つの事件のショックからまだ醒めやらぬ時期(二〇〇二年春)でした。それらの事件とは、二〇〇一年九月一一日のテロ、二〇〇二年四月二一日のフランス大統領選第一回目投票で、極右政党である国民戦線の党首が二位に付けたこと、そしてその直前の同年三月二六日に、リシャール・デュルンという青年がパリ郊外のナンテールで引き起こした市議会襲撃事件です。絶望し、逆上した人たちによって引き起こされた二つの悲劇(これらは数多の事件の三つの際立った例であるにすぎないのですが)は、個別の事情はともあれ、根幹においては互いに無関係ではないように私には思われたのです。 (pp. 2-3)

 本書では特に、リシャール・デュルン事件を参照しつつ、「愛するということ」、「自己愛」について語り始めている。訳注によれば、リシャール・デュルンが引き起こした事件は次のようなものであった。

 二〇〇二年三月二六日、フランスの青年リシャール・デュルン(三三歳)はパリ郊外のナンテール市議会で銃を乱射し、市議会員八名を殺害し一九人を負傷させた。彼は逮捕されたが二日後投身自殺する。 (p. 21)

 デュルンは、「生きている実感」を持てずにいて、「人生でせめて一度、生きていると実感するために、悪事を働かねばならない」と日記に記していたという。

 リシャール・デュルンが苦しんでいたのは、本源的な(基盤となる、原型としての)ナルシシズムの能力が構造的に剝奪されていたからです。ここで「本源的なナルシシズム」と私が呼んでいるのは。プシュケpsychè 〔人間の生命原理としての魂、心。「姿見=鏡」をも示す〕の機能に欠かせない構造としての自己愛のことです。この自己愛は時には病的に過剰になることもありますが、しかしそれがなければいかなる形での愛も不可能になってしまう基本なのです。  (pp. 21-2)

 本源的ナルシシズムは、もちろん「私」を愛するのだが、その「私」は本来的には「われわれ」と深く結びついている。つまり、「われわれ」のナルシシズムというものもあるとスティグレールは言う。デュルンは、自分のナルシシズムを作り上げることができず、したがって「われわれ」に参加することができない。「市議会という本来は「われわれ」の代表であるものの内に……自分を苦しめるだけの「他」という現実を見てしま」ったがゆえに「その「他」を破壊した(pp. 22-3)のである。

 しかしながらわれわれ現代人は、大変特殊な意味においてナルシシズムの苦悩に直面しています。その特殊性とは、現代人がとりわけ「われわれ」のナルシシズムの点で、いわば「われわれというものの病によって苦しんでいるということです。私が「」になれるのは、ある「われわれ」に属しているからこそなのです。「」も「われわれ」も個となっていくプロセスなのですが、そうである以上、「」そして「われわれ」というものはある歴史を有しています。それぞれの「われわれ」が異なる歴史を持っているという意味だけではありません。大事なのは、「われわれ」というものの個体化の条件が、人類の歴史の中で変化するということなのです。 (p. 25)

 スーパーインダストリアル時代としての現代は、資本の支配を通じた消費や情報のシステムによって「私」や「われわれ」の個となっていくプロセスを妨げるという「われわれ」というものの病が生まれる機制を論じたのが『象徴の貧困』であった。
 私たちは、集団的個体化というプロセスを通じて「私」と「われわれ」を確立していくが、それはシンクロニゼーション〔共時化、一体化〕とディアクロニゼーション〔個別化、固有化〕という正反対の作用の協調的な組み合いによってもたらされる。
 シンクロニゼーションは、過去から現在に至る歴史や文化を人々と同時的に共有化するプロセスで、そのとき、いかに豊かに「象徴(シンボル)」を共有しうるかが優れて「われわれ」たりうるかを決定する。一方、ディアクロニゼーションは、「われわれ」が共有する象徴から「私」固有の象徴(スティグレールはそれをディアボルという造語で呼ぶ)を分離し、「われわれ」の中で自立する「私」を形成することを意味する。
 シンクロニゼーションとディアクロニゼーションは、社会の一成員として生きる「われわれ」のなかの一人としての「私」の意味を与えるプロセスである。ハイデガー風に言えば、世界内存在としての現存在の意味を与えるということだ。こうした「われわれ」と「私」の集団的個体化がうまくできなければ私たちは自己愛としての対象としての「われわれ」と「私」を持つことができない。このことが、デュルンの犯罪の根源にあったとスティグレールは見ているのである。

自分たちのことを「われわれ」と言えるためには、同じ暦と地図のシステムを共有していなければなりません。同じカレンダーを参照することができなければ、つまり共通の時間を共有していなければ、そして共通の空間的表象を有しそこで方角の配置を共有していなければ――たとえば通りの名や地図や交通標識を読めないとしたら――、互いによそ者だということでしょう。ある「われわれ」が自分にとって親しみ深いものとなるのは、このようなものを共有しているからなのです。ところが今日では、暦や地図のシステムはグローバル化した文化産業によってコントロールされるものとなってしまいました。 (p. 42)

 「われわれ」が共有すべき「同じ暦と地図のシステム」については、きわめて重要な政治的な意味があるとおもう。つまり、同じ暦と地図のシステムを破壊してしまえば「われわれ」という意識(を持つ集団)は瓦解し、ばらばらに孤立した人々はたやすく政治支配の網にとらえられることになる。
 「同じ暦」としての歴史を修正・歪曲しようとする政治的企図には(自覚的であれ無自覚であれ)そういう悪意ある政治的意図が含まれる。情報(マスコミ・ジャーナリズム)の政治支配は、地図システムの参照を困難にするだろうし、場合によっては権力による地図の書き換えを許してしまうだろう。
 スティグレールはこのような政治的意味を明示的には述べていないが、9・11や極右の台頭、若者の政治的犯罪に対抗しうるものは私たちに本来的に備わっているべき「われわれ」と「私」なのだが、スーパーインダストリアル時代の消費社会が「われわれ」と「私」を著しく損ねていると主張しているのである。

消費活動とは〔……〕、「」と「われわれ」を混同させ、両者の違いを消し去り、そうすることでまさに両者を「みんな」に変えてしまうという傾向をもちます。そしてこの消費活動を組織化するということは、「たちシンクロさせようとすることなのです。そもそも私が「」であると言えるのは「」がディアクロニーである、つまり「」の時間が「あなた」の時間と異なるからこそなのですが、だからこそ消費の組織化は「」たちの差異がもうなくなるほど「」たちをシンクロさせようとするのです。そうなると、自分自身を愛する気持ちつまり自己愛は失われていってしまいます。なぜなら、私の行動すなわち消費活動が他者の行動すなわち消費活動とシンクロすることで〔……〕私の特異性が消し去られていけば、「」は次第に抹消されていき、私の「」らしさがこうして徐々に消えていけば、私はもう自分を愛せなくなってしまうのです。そして自分のことが愛せなくなると、他者のことももう愛することができません。 (pp. 27-8)

 そして今日――これは現代の特徴、それも悲惨なまでに貧しい特徴なのですが――、「」と「われわれ」の連結は、消費という様態であらたなものを取り入れよというヘゲモニー的な至上命令に従属してしまっているのです。 (p. 37)

 本来、シンクロニゼーションとディアクロニゼーションの組み合いで「私」と「われわれ」が形成されるのだが、ハイパーインダストリアル時代では情報や消費における資本主義的活動が私たちに過剰なシンクロニゼーションを強いる。そのため、私たちは個性を失い、「みんな」という言葉で括られるような集団の中の非個性的で孤立したばらばらな一人になってしまう。それは「個性的なあなたに!」などという何とも皮肉なCMによって誘因される消費行動という形で現れてくる。

〔……〕文化産業の発展はハイパーシンクロニゼーションをもたらすことでディアクロニゼーションを排除し、しかも逆説的なことに、ハイパーディアクロニゼーシヨンを生み出してしまうのです。ハイペーディアクロニゼーションとはつまり、象徴に関する領域から切り離され、個人と集団の時間が分離してしまうことであり、ディアクロニックなものとシンクロニックなものが分-解dé-compositionしてしまうということです。 (p. 56)

 私たちが社会(世界と言ってもいいが)を認知するとき、3つの過程を経ている。いまここの時間の流れの中で、見たり聞いたりして認知することを第一次過去把持と呼ぶ。第一次過去把持で獲得した記憶をあとで思い出すプロセスを第二次過去把持と呼び、これが私たちの「意識の過去を構成して」(p. 90)いる。
 人間は自分自身の記憶ばかりではなく、第三の記憶として、本、録音、映画、ビデオなど(歴史的に発明されてきた道具類も含めて)による第三次過去把持を利用する(スティグレールはこの第3の記憶を「後成系統発生的(エピフィロジェネティック)épiphylogénétiqueな記憶」(p. 110)と名付けている)。
 この近代産業によって肥大した第3次過去把持が私たち一人ひとりの記憶である第1次と第2次過去把持をコントロールするようになる。

 一千万の人々が同じ番組――同じオーディオビジュアルの時間的商品――を見るとき、その人たちの時間の流れはシンクロします。もちろん、その人たちの過去把持における選別の基準はそれぞれ異なっていて、したがって同じ現象を知覚するというわけではありません。見ているものについて全員が同じことを考えたりはしないのです。しかし第一次過去把持の選別の基準を作り上げていくのが第二次過去把持だとしたら、人々が毎日同じ番組を見ていれば、彼らの「意識」は当然ますます同じ第二次過去把持を共有することになり、したがって同じ第一次過去把持を選別するようになるでしょう。それらの意識はあまりにシンクロした結果、自分のディアクロニーすなわち特異性を失うことになります。それはつまり自由を失うことであり、そして自由とは何かといえば、それはつねに思考の自由なのです。 (p. 73)

 ディアクロニーを失い、「われわれ」のなかの「私」でなくなってしまうことは、言葉や記号操作一搬が機能しなくなってしまうことも意味している。そのため、言葉や記号によって付与されていた「意味」をも失ってしまう。「私」に意味を見いだせなければ「私」を愛することも不可能となり、本源的ナルシシズムを喪失することになる。
 「私」が崩壊すれば「われわれ」も崩壊されることになり、それは、私たちが「付和雷同的群衆である「みんなon」と化してしまうことであり、まさにその「みんな」という大衆こそが、二〇世紀のあらゆる政治的厄災を引き起こ」(p. 74)すことになったのである。

リシャール・デュルンがぶつかっていたのはまさに非-意味a-signifianceと呼ぶベき壁であり、それは単なる無意味insignifianceをはるかに超えた、意味生成signiflanceの限界であり、その限界があまりに耐え難いものであったがゆえに、彼は殺戮行為を引き起こすに至ったのです。これは意味をなすものが破壊されることによって至る象徴の貧困の結果です。そしてこの貧困からは、実は誰も逃れることはできません。象徴の貧困はいつも重くのしかかり、幽霊のようにうろついていて、たとえばせっかく夕食を共にしても、ほとんどの場合はもう、ろくに話すことがないといったありさまなのです。 (p. 75)

 私たちは「われわれ」の形成を支える共有すべき象徴を失いつつあり、象徴の生産という創造的な行為も阻まれている。「この象徴を創り上げるというその創造性は個体化の条件」(p. 77)なのである。つまり、記憶の個体化や言葉の個別的な差異化は、集団の個体化に反映され「われわれ」の内実が更新されることになるのだが、スーパーインダストリアル時代の巨大資本、巨大マスコミ(ルロワ・グーランはそれを「超大民族集団」と呼ぶ)によってその集団的個体化が脅かされている。象徴の創造が巨大資本、巨大マスコミに委ねられてしまって、過剰なシンクロニゼーション(ハイパーシンクロニゼーション)が進行してしまうのである。

 「感じるためには最小限の参加が必要」だというのに、消費の世界規模での組織化によってハイパーシンクロニゼーション――あらゆるディアクロニーの否定――が生じた結果、今や感受性の鈍化という状態がもたらされています。そこから生じる果てしない苦痛、苦痛の限界にある苦痛、もうほとんど何も感じられないというこのうえなく危険な状態、意味というものの貧困、そして意味を-作り出す、つまりは存在することができなくなるということ、これらが二〇〇二年四月二一日の大統領選の投票、さらには今日世界中の絶望した人たちのあらゆる行動によって示されていることなのです。そのような行動のひとつであったリシャール・デュルンの殺戮行為は、個体化の喪失の極限での個の表現、個となることができないその極限における個の表現だったと言えるでしょう。 (pp. 83-4)

 巨大資本(とマスコミ)の作用を《帝国》の新自由主義的政治・経済支配の勝利による危機と指摘するネグリ&ハートが指摘する四つの被支配者主体の状況とは、スティグレールの指摘する「私」と「われわれ」が破壊された「みんな」のばらばらに孤立した政治的・経済的状況そのものであろう。

新自由主義の勝利とその危機は〔……〕、新たな主体形象を作り上げた。金融と銀行のへゲモニーは「借金を負わされた者」を生みだした。情報とコミュニケ—シヨンのネットワークに対する管理は「メディアに繁ぎとめられた者」を創り出した。セキュリティ体制と例外状態の全般化は、恐れにとりつかれ、保護を切望する形象としての、「セキュリティに縛りつけられた者」を構築した。そして民主主義の腐敗は「代表された者」という奇妙に非政治化された形象を作り出した。 [1]

 このような状況を打破するためにネグリ&ハートは、《マルチチュード》の叛乱を期待するのだが、スティグレールが目指す道筋はそれとは異なる。
 後成系統発生的な記憶は「われわれ」が共有できる第三の記憶であるが、その記憶の保持者を第三者の「彼il」と名付ける。「彼il」は、「私」と「われわれ」が成立するための「条件であり絆である」(p. 110)とスティグレールは指摘する。

 さて「彼il」という第三者としての記憶は、大文字のIl」(大文字の他者)を語る聖書の条件でもあります。聖書とは絶対的な過去を示すものです。記憶の積み重ねによってわれわれはその過去にまで導かれるとされるのですが、その絶対的な過去とはまさに記憶されないものl’immémorialであり、ブランショはそれを「恐ろしいまでに旧いものeffroyablement ancien」と呼んでいました。そして旧約聖書はまさにそれを永遠なる父として示したのです。第三の記憶としての聖書とはしたがつて崇拝culteを支えるもの――パスカルが記したように信仰の支えとなるロザリオとともに――であり、すなわち信créditを支えるものなのです。 (pp. 111-2)

 しかし、ニーチェを待つまでもなく、近代になって大文字の第三者は「神の死」として死ぬことになる。つまり、近代の「産業が、加工されるべき原料となった意識(conscience良心)を奪取したということです。そしてそこで奪われたのは「われわれの」意識(良心)であり、意識というわれわれの「時間」だった」(p. 112)のである。

一九世紀までは、生産者、企業家、物質財の製造者たちの世界と、読み書きが堪能な知識人clercsと呼ばれた人たち――聖職者にせよ世俗の者にせよ――つまり宗教、法律、政治、認識、芸術など「精神的なもの」を引き受ける者の世界は、構造的に分離していました。つまり異なる二つの世界があったのです。しかしやがてムネモテクノロジーが生産の分野に統合されていきます。後者は生産と消費のシンクロニゼーションを保証し、潜在的な時間というものを廃しジャスト・イン・タイムで生産を機能させようとするものでした。こうして二つの世界が融合したのです。「」と「われわれ」を超えたところにあってそれ自身で権威であった「il」という偉大な第三者もそこに統合されていき、内在的なもの(システムに内在するもの)すなわち原則としてディア-ボリックなものと化したのです――それまでは知識人が世俗と分離しているということによって通約不可能なものの超越性が示されるという経験があったのですが、その通約不可能性がすべて廃されてしまったのですから。この通約不可能な第三者を、ラカンの用語を用いて大文字の他者(アリストテレスにおいてすでに、それは欲望の無限の原因とされました)と呼ぶこともできるでしょう。第三者がこうして吸収されてしまったことで、欲望は萎えていくことになりました――それはまた無-意味l’in-signifiantが蔓延することでもあり、それはやがて非-意味l’a-signifiant へと向かっていくのです。 (pp. 118-9)

 現代の巨大資本の技術と私たちの記憶のシステムが統合していくのは避けられない、「抵抗」しても無駄だとスティグレールは断言するが、そのプロセスにはある可能性が開かれているとも語るのである。

 さてこのプロセスは、まず単なる生成として差異をことごとく排除してハイパーシンクロニゼーションという事態をもたらすようにも見えますが、実はそこでこそ、われわれがさまざまな選択をおこない、すなわち差異を生じさせることが求められています。そして差異を生み出すためにはまず、プロセスの中でプロセスそれ自体を死に追いやるようなものを批判する〔判別し、限界を見極める〕ことから始めなければならないのです。  (pp. 121-2)

問題は抵抗することでも適応することでもなく、必要なのはあらたなものを創り出すinventerことです。そのような創出はまさに取っ組み合っての闘いであり、そしてそれはラディカルな批判をすることなのです。 (p. 123)

 きわめて貧しい象徴しか持てない「みんな」は、「われわれ」と「私」が破壊されていることに無自覚であるしかないが、一方で、それを自覚的(批判的)に見つめることができる人々も多く存在する。私たちの中には「プロセスを超過excéderし、さらにはプロセスの中からプロセスの調子を狂わせる――分離によって――ことのできる例外exceptionとなりうる」(pp. 124-5)人たちも存在する(スティグレールはその典型的な範例を芸術家に見ている)。自らが決断し、プロセスに抵抗し、プロセスを問題視できるのは「創出する能力」であって、「この創出する能力というのは「抵抗」する力をはるかに超えるもの」であるとスティグレールは述べている。
 このように、私たちはハイパーシンクロニゼーションを強要してくるシステムに対処しなければならない。同時に、「私」と「われわれ」を見失った(象徴において貧しい)人々にも向き合わなければならない。その対処において私たちが採るべき態度にとって「傾向」という用語で考えることが大事だと指摘する。

〔……〕傾向という用語で思考するとは、逆らって闘うべきものは必要だと考えるということです。したがって、支配的になろうとしているある傾向(実際、あらゆる傾向はある支配に逆らいつつ自分もまた支配に向かおうとするものなのです)に抗って闘い、その傾向に対しある反-傾向contre-tendanceを対立させようとしている人は、自分が逆らって闘っているその相手の傾向が実は自分がその闘いで守ろうとしている傾向にとっての条件なのだということを理解しなければなりません。ということは、いかなる場合も相手の傾向を排除することが問題なのではなく、まさに二つの傾向が組み合うということが重要なのです。この観点から言えば、傾向による思考とは、対立相手adversaireを悪の根源であるような敵と見なしたりしないということなのです。対立相手は悪の根源であるような敵ではありません。言い換えれば、相手は悪ではなく、ただある支配的な傾向に捕われてその傾向の仲介やスポークスマンとなっているのであり、しかもほとんどの場合、悪意を抱いて行動しているつもりは全くないのです。 (pp. 127-8)

 これは、本書の献辞の冒頭に「この講演を、大統領選で国民戦線を支持した人たちに捧げます」(p. 18)と記したことの思想的意味であろう。『象徴の貧困』でも「国民戦線を支持した人たち」について次のように述べている。

私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
 しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。たとえほとんどの場合、とても間接的なかたちでしか向かえないとしても。また私にとって、彼らに向かって話すとは、何よりもまず彼らという証人を憂え配慮し)、彼らが私の声を聞く理解することがまさにできないところでしている証言を憂える(配慮する)ということだとしても。そして、彼らが最悪の事態となる前に彼らに残された唯一の象徴交換の可能性としての投票という手段によって証言している現実がどんなに耐え難いものであろうとも、何よりもまずこうして彼らに向かって話すということが、私の目には絶対に優先すべきことに見えるのだ。 [2]

 巨大資本によって揺るぎなく(そう見える)構築されたハイパーシンクロニゼーションを強いるシステムへ対処すること、それによって共有すべき象徴を見失ってばらばらに孤立する人々(の政治的・思想的状況)に対処することはけっして容易なことではない。プロセスの意図をずらすことにおいてすら芸術家の資質をスティグレールが想定したように、凡庸な私(たち)にはなおいっそう困難な課題であろう。
 困難な時代である現代において、私たちが歩むべき道筋を次のように述べて、スティグレールは(本書のもととなった)講演を終えるのである。

これらすべては、長い困難な道のりの始まりに過ぎないのかもしれません。その道のりにおいて、他のどんな問題をも差しおいてまず闘わなければならないのは、「われわれ」というものが完全に分裂してしまうという差し迫った可能性なのです。その闘いはまず、今日の精神のありようの批評を経なければなりません。ということは、メタ安定性がメタ安定につねに戻れるための条件を分析しなければならないのです。それはつまり、均衡にも不均衡にも陥ることなく(完全な均衡は完全な不均衡をもたらすのですからどちらも結局同じことです)、あらためて運動を生み出していくための条件です。完全な均衡は欲望を失わせ、原子化を招きます。ハイパーシンクロニゼーションはハイパーディアクロニゼーション、つまり社会的なものの分-解dé-compositionを生むのです。それこそまさに「分-裂(ディアボリック)(悪魔的なもの)」なのですが、このことは「悪の枢軸」をなすとされるいわゆるならず者国家をさんざん悪魔扱いすることで、覆い隠されてしまっているのです。
 しかしとは何よりもまず、悪を告発するだけで思考しなくなることであり、「われわれ」というものの未来を憂えるような「われわれ」を「われわれが諦めてしまうこと批判やあらたなものの創出、すなわち取り組んで闘うことを「われわれ」が放棄してしまうことなのです。 (pp. 155-6)

 スティグレールは、新しいタイプの社会へのコミットメント、アンガージュマンの彼なりの在り方を提案しているのである。

 

[1] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(水嶋一憲、清水知子訳)『反逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版、2013年) p. 24。
[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年) pp. 211-2。

 

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