ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

厄年に何を思う。

2015-01-19 | 雑念
兵庫県神戸市須磨区はかつて僕が住んでいた場所である。小学校3年生の夏休みまでは団地に住んでいた。その時の記憶は断片というよりももう砂の一粒位の微かな感覚しかない。

僕はもう今年41歳。数えで42歳の本厄である。兵庫県には幾つか厄神がある。そのひとつ加古川にあるその名も厄神駅の近く宗佐厄神八幡神社に足を運んだ。石垣は新しく、幟も立ち並び、本殿近くの幾つかの建物は朱色に塗り直されていた。まだ新しい匂いも立ち込めるその神社は相当な人出が予想されるのだが、その日に限って人がまばらで駐車場もスカスカである。

変だなと思いながら新しい石段を上がって手を洗う。あたり新しい神社にはご利益が薄いような気がする筆者にとって嫌な予感は当たるのだが、今回も窓口で聞くと神主?は出張中だと言う。神主が留守?そんな神社があるのだろうか?神はボッチで鎮座するのか?巫女はひょうきんにくじ引きを売っている。

賽銭箱に虚しく小銭を放り込んで、トボトボ新しい石段を帰る時に思った。もう厄年は始まっているのだと。そして人の混雑が更に予想される神戸市須磨区の多井畑厄神へと車を走らせた。

名谷駅にはPATIOというショッピングモールがある。須磨に住んでいた時は時々連れてきてもらったその当時の子供目線からは遊園地のように見えていたその広場や売り場は薄汚れて30年という月日を残酷にこびり付かせている。

そのPATIOの有料駐車場に車を置き、バスでもって多井畑厄神を目指す。厄神さんの祭りとあって臨時バスが走っていた。名谷駅から多井畑厄神を、往復するだけのノンストップバスだ。大体10~15分で片道を繋ぐ。バスターミナルの地面にビニルテープで簡易の行列「場ミリ」を行って、此方が最後尾になりますとやっている。

バスは数台がピストンするから待っているとすぐに次がやってきて、210円を握り先頭の立ち位置を確保する。最近のバスのフロントガラスの大きさと車高の低さに驚きながら、ほぼ運転席と同じ位置で過ぎ去る景色を楽しんだ。

程なく目的地に到着すると帰りのバスを待つ行列も目に入ってきて近い将来にこの行列に並ぶのかとゲンナリを一旦経験しながら歩いていく。人ごみについていくと左右の狭い通路にベビーカステラだりんご飴だといつもの屋台群が押し寄せてくる。

その狭い通路と短い屋台ブースを抜けると長い階段が見えてくる。後で聞くと150以上の石段がそびえ立つ。アラフォの僕にはまだ脅威ではないその角度も次の厄年60の頃には少し強く押し迫ってくるのかもしれないなどと想像しながら一歩一歩を噛みしめる。

人混みも十日恵比寿程ではないにしろ賑わいは気持ちを高ぶらせる。中にはテンションの上がった政治家が先の選挙の御礼参りなのか有権者じゃない僕にも御礼を述べていた。県議会か市議会かよく分からない貧相な顔とファッションで手を振っている。

やっとの階段を登りお参りの行列を横目に「厄除け祈祷受付」に行く。さすがにお賽銭の100倍以上の額を払わなければならないその受付では人は少なくなる。とはいえ0では無い。1度に20名程度の団体として完全交代制で名前を呼び揚げご祈祷を行う。確かにフルネームと年齢が呼ばれたことを確認してそそくさとその御前を立ち去ると次の団体が入ってくる。完全なるベルトコンベア祈祷である。

名前を呼び揚げられたら少し嬉しい。この感情がどこかに似ているなぁと思い起こすと、ETである。ディズニーにあるアトラクションであるETが名前を呼んでくれる時の感情である。

その祈祷するリズムに少し吹き出しそうになった。一気に20名程度を名前と年齢を浪曲のような口調で読み上げていくから何やら滑稽で微笑ましい。爺さんとも言えるほどの年齢で一生懸命な姿は楽しいのだ。

そして無事に祈祷は終わり、そそくさとバスに乗り込んで帰路につく。高くつくなぁと思う。お札としゃもじと何某かを袋に入れて渡される。何やら去年のお札もあったような気がする。あれはお役御免で神社に奉納しなければならぬ。普通に燃えるゴミとして出したらいかんのだ。

僕は来年まで厄だ。また来年も何かしらの厄除けをするのだろう。日本人って一体なんなんだろう。神楽を奉納する巫女さんたちの太鼓や笛の音が微かに響いていた。