トップバッター

2011-10-06 06:45:08 | Autobiography
おいらの小さかった頃…心に残るネガティブな部分ばかり書いてきたが、決して悪いことばかりだったわけではない。

『足が速い』ということに気がついたのは、幼稚園のマラソン大会の時だった。
たかが幼稚園のマラソン大会だ…何キロも走るわけでなく、セイゼイ数百メートルの話だった…と思うのだが…。

幼稚園児のマラソン大会なんて、そのくらいの子どもにコース全体を考えたペース配分が出来るわけもなく…。
『サッカーやろう!』って、ボールを蹴りたくて敵も味方も関係なく『ボールを先頭にしたほうき星』が出来るみたいな話。
『よーいドン!』からみんなで全力で飛ばし、息が切れて脱落していくのね。
偶々おいらは他の園児より長くダッシュできたわけ…マラソン大会とは言え、全力疾走バトル・ロイヤルなわけよ(笑)。

この勝負を制したおいらは、初めておいらの脚力に気がつく…。
以後、かけっこでは誰にも負けない時期がしばらく続く。
人間、得意なことがひとつでもあると、何となくそこから自分の世界が作れるわけだ。

その後まもなく、おいらは小学生となる… 1977 年の話だ。
当時の小学生の遊びといったら『草野球』…『遊ぶ』という言葉と『≒』だった。
放課後になると、玄関先にランドセルを放り投げてバットとグローブを持ってグラウンドに集合。
暗くなるまで遊んだ。

おいらのクラス『6組』の野球チームは…セイゼイ9人位のいつものメンバー…隣のクラスといつも対戦していた。
飛び抜けて上手なヤツがいるわけもなく『どんぐりの背比べ』な感じだったが、お互いに刺激し合い、ルールや技術・セオリーを蓄えながら遊んだような気がする。

セオリー…そう、俊足・左打ちの居場所が、野球にはあった。
さらにその年は王貞治氏の『756 号』もあり、左打ちの価値は仲間内でも高まっていた。

1番 ファースト 左打ち。
バットに当たりさえすれば、小学校低学年レベルの内野守備ではおいらを一塁でアウトにすることはできなかった。
やっと見つけた自分の居場所…その心地良さは『格別』だった。

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