三渓園・外苑。
丘の上の三重塔は室町時代建築で京都・木津の旧燈明寺から大正3年(1914)に移築された。
大池の向こうには東屋(四阿)の涵花亭が見える。
涵とは包含するとか「ゆったりと満たされている」というような意味らしい。
内苑には茶室が多く配されていたが、外苑では右奥に見える林洞庵ぐらいだ。
林洞庵は他所からの移築ではなく、昭和45年に・寄贈建築されたものだという。
手前の初音茶屋は開園当時に無料の湯茶接待が行われていたそうだ。
今もイベントでは使われるらしい囲炉。
芥川龍之介も「ひとはかりうく香煎や白湯の秋」と詠んで、友人だった三渓の長男に送ったという。
もっとも手紙の最後には「あまり月並みなので弱った」との言葉を添えたとか。
外苑の奥のほうに建つ横笛庵は奈良の法華寺から移築とも言われ、
戦前は平清盛の娘として知られる「横笛」の像があったそうだ。
奥の右手には明治40年に移築された旧東慶寺仏殿があるが修復工事中で見学できなかった。
旧東慶寺仏殿の隣には合掌造りの大きな家があった。
昭和35年に白川郷の近くから移築された「矢箆原家住宅」で江戸時代中期建築という。
矢箆原家(やのはらけ)は飛騨三長者と呼ばれた豪農で、この住宅は農家建築と書院造りが合わさっている。
臼がいくつも 囲炉裏のある広い居間
書院造りの部屋には仏間も 仏壇は春秋のお彼岸とお盆に開扉される
小さな部屋も 漆塗りの立派な長持
矢箆原家住宅から池畔を正門方向へ向かうと右手に仏閣が見えた。
京都木津にあった旧燈明寺本堂で、三重塔と同じく室町時代(康正3、1457)の建築だ。
三重塔より遅れ昭和62年(1987)に移築された。
旧燈明寺本堂の裏手には石垣と石段がある。この上に建物があったということだろう。
原三渓は富岡製糸場などと共に栃木県大嶹(おおしま)製糸場も経営していたが、
その工場にあった茶室などと共に「皇大神宮」という神社を三渓園に移設した。
しかし昭和20年の大空襲により焼失してしまったのは残念なことだ。
皇大神宮の壊れた鳥居が残っている。
四阿の涵花亭を見守るような場所に小さな神社がある。
三渓園天満宮は近くの民家にあった間門天神(まかどてんじん)を昭和51年に移設したという。
ここには明治42年(1909)に大阪府河内長野から移設された楠公社の神殿があった。
しかし昭和20年の空襲により焼失することになってしまった。
狛犬は2体とも楠公社のものが残っているが、阿吽2体のうち吽形狛犬の頭部は損壊していた。