少し前に放送されたこの番組。
ブラジルへ行ったことのある私としては、非常に興味深く見た。
現在はブラジルからの移民(というか出稼ぎ)の方が多いけど(それも、最近は不景気で減っているが)、今から100年以上前、日本は日露戦争に勝ったものの、賠償金はなく、日本経済は停滞し、農村部を中心に貧困な家庭が多かった。
そのため、新天地に活路を見いだそうとする人が、ブラジルへ最初に渡ったのが1908年(明治41年)。781人が笠戸丸という船に乗り、神戸港を出発し、サンパウロ州のサントスへ到着した。
しかし、「金のなる木」として夢に見たコーヒー農園での生活は大部分奴隷に近い状況(行く前に聞いていた額の1/10以下)だったらしい。
番組では、1927年に17歳でブラジルに渡った大原治雄さんという人の生涯を追いかけていたが、土楼から脱出するため仲間と資金を出し合い、未開のジャングルの土地を購入して、そこを開墾したという。大木を1本、1本切り倒して太い根を取り除く毎日だったらしい。
しかし、その苦労は子どもたちには語らなかったという。そして、移住6年目にしてやっと第1歩を踏み出した喜びを記録するために、カメラを購入した。
その写真が、今も残っている。はにかむ妻と9人の子供。
昼間は過酷でも夜が安穏ならと苦労や不満を漏らさなかったという。高倉健みたいだ。
そうして、開拓した土地が今は都市になり、日本の農業技術がブラジル社会で認められるようになっている。
ところが、そうして、獲得した土地であるが、9人の子供を大学に進学させるために、売ったりしているようだ。今や一族で70人。
日系ブラジル人は今160万人くらいいて、人口の0.8%くらいだが、サンパウロ大学(日本の東大のようなところ)の日系ブラジル人の割合は15%くらいとか。 すごい!!
さて、表題の大竹富江さんであるが、この方は日本社会の型にはめられるのを嫌い、23歳の時(1936年)にブラジルへ。
ブラジルの第1印象は「明るい」「空気が黄色い」「素晴らしい」だった。
それから、結婚、出産と普通の生活だったが、39歳で絵画の基礎を習い、3年で抽象画が認められるようになった。
禅や書の影響を受け、瞑想により生み出す作品は高く評価され、全長20m、17tもの巨大モニュメントも製作。
一時、「クモのようだ」とか「悪趣味だ」と言われ、スクラップされるが、前進した。
そして、全土に40もの巨大なモニュメントをつくり、今年2月になくなるが、大統領から国民栄誉賞的な賞をもらうまでなられた。
大竹さん曰く「時代の先端を行きたければ、つきぬける力をもたなければいけない。アバンギャルドは論争を超えた先にある」
(参考)
第二次世界大戦中、日本はブラジルと敵の関係になり、日本人はかなり奥地へ追いやられたらしいが、処刑されるようなことはなかったようだ。
ただ、日本が負けたことを信じない人(「勝ち組」というらしい)が負けたことを信じる人(「負け組」というらしい)に対してテロを仕掛けて、何人もの犠牲が出たようだ。
(私の経験)
ブラジルには20年ほど前に仕事で行った。ロサンゼルス経由だが、関空からサンパウロまで片道24時間くらいの空路だ。
着くと、時差12時間。冬と夏が反対。もちろん自動車とかは左右逆で走っているし、「おはよう」は「ボン ジーア」だ。
シュラスコという串にさした大きい肉を削いで食べる料理はおいしい。
サッカーに興じる国民性。
リオの開放的な海岸。
日系人もラテン民族になっている。
地球の反対側に、大勢の日系人がいるという現実をもう一度思い出させてくれる番組だった。
(
ブラジルへ行ったことのある私としては、非常に興味深く見た。
現在はブラジルからの移民(というか出稼ぎ)の方が多いけど(それも、最近は不景気で減っているが)、今から100年以上前、日本は日露戦争に勝ったものの、賠償金はなく、日本経済は停滞し、農村部を中心に貧困な家庭が多かった。
そのため、新天地に活路を見いだそうとする人が、ブラジルへ最初に渡ったのが1908年(明治41年)。781人が笠戸丸という船に乗り、神戸港を出発し、サンパウロ州のサントスへ到着した。
しかし、「金のなる木」として夢に見たコーヒー農園での生活は大部分奴隷に近い状況(行く前に聞いていた額の1/10以下)だったらしい。
番組では、1927年に17歳でブラジルに渡った大原治雄さんという人の生涯を追いかけていたが、土楼から脱出するため仲間と資金を出し合い、未開のジャングルの土地を購入して、そこを開墾したという。大木を1本、1本切り倒して太い根を取り除く毎日だったらしい。
しかし、その苦労は子どもたちには語らなかったという。そして、移住6年目にしてやっと第1歩を踏み出した喜びを記録するために、カメラを購入した。
その写真が、今も残っている。はにかむ妻と9人の子供。
昼間は過酷でも夜が安穏ならと苦労や不満を漏らさなかったという。高倉健みたいだ。
そうして、開拓した土地が今は都市になり、日本の農業技術がブラジル社会で認められるようになっている。
ところが、そうして、獲得した土地であるが、9人の子供を大学に進学させるために、売ったりしているようだ。今や一族で70人。
日系ブラジル人は今160万人くらいいて、人口の0.8%くらいだが、サンパウロ大学(日本の東大のようなところ)の日系ブラジル人の割合は15%くらいとか。 すごい!!
さて、表題の大竹富江さんであるが、この方は日本社会の型にはめられるのを嫌い、23歳の時(1936年)にブラジルへ。
ブラジルの第1印象は「明るい」「空気が黄色い」「素晴らしい」だった。
それから、結婚、出産と普通の生活だったが、39歳で絵画の基礎を習い、3年で抽象画が認められるようになった。
禅や書の影響を受け、瞑想により生み出す作品は高く評価され、全長20m、17tもの巨大モニュメントも製作。
一時、「クモのようだ」とか「悪趣味だ」と言われ、スクラップされるが、前進した。
そして、全土に40もの巨大なモニュメントをつくり、今年2月になくなるが、大統領から国民栄誉賞的な賞をもらうまでなられた。
大竹さん曰く「時代の先端を行きたければ、つきぬける力をもたなければいけない。アバンギャルドは論争を超えた先にある」
(参考)
第二次世界大戦中、日本はブラジルと敵の関係になり、日本人はかなり奥地へ追いやられたらしいが、処刑されるようなことはなかったようだ。
ただ、日本が負けたことを信じない人(「勝ち組」というらしい)が負けたことを信じる人(「負け組」というらしい)に対してテロを仕掛けて、何人もの犠牲が出たようだ。
(私の経験)
ブラジルには20年ほど前に仕事で行った。ロサンゼルス経由だが、関空からサンパウロまで片道24時間くらいの空路だ。
着くと、時差12時間。冬と夏が反対。もちろん自動車とかは左右逆で走っているし、「おはよう」は「ボン ジーア」だ。
シュラスコという串にさした大きい肉を削いで食べる料理はおいしい。
サッカーに興じる国民性。
リオの開放的な海岸。
日系人もラテン民族になっている。
地球の反対側に、大勢の日系人がいるという現実をもう一度思い出させてくれる番組だった。
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