コトバの起源とその習得は、これは人間の持つ最も基本の道具でありながら、未だにその本質は深い闇に閉ざされた分野である。過去に幾多の人々が、この謎を解き明かそうと挑戦したが、そのほとんどが失敗や挫折に終わっている。およそ是ほど簡単な問題は他にないと思われるほどであるが、人々は何時もその前で跳ね返されている。この太古以来の問題の解を求めてみよ。と思い至る方も多いが、なぜかいつも失敗に終わるのかは、それなりの問題に対する誤謬や、その背景に対する認識の錯誤があるのが理由だろう。たぶん多くは問題の見方と洞察自体が間違っている場合が多いのだ。謂わば本質を捉えていないのである。人間の言語の起源に関する時間軸つまり歴史の問題は少し置くとして、直近の赤ん坊がことばを習得する過程を突き止める事はこの言葉に関する問題では最重要なことである。
にんげんの言語習得に関しては、もちろん聴覚が最も大きな役割をするのだが、それは外部からの情報の摂取という事で在って、もう一つの重要な側面があまり気が附かれなかった。それは内部的な機構とサイクルの存在である。およそ言語の習得に関して、外部的なものばかりを分析しても、あまり展望は得られない。言葉の背景の問題ではこの内部的なサイクル機構の実態の把握が最も困難で重油な部分なのだ。このサイクル機構は自動的に始動し、段階を追って完成する。その過程で、外部からもたらされるコトバ情報がkey情報になる。ことばの習得とは、その様な相互過程の経過を踏んで身に附く母語となる。
母語と仮定するものは、人が生まれて最初に触れるコトバである。然し、それが赤子には、後年意味するところの言葉であるとは感じられない。母語と謂えども、赤子には音を知ることは出来ても、意味を知ることは出来ない。意味とは母語の習得の内から生まれてくる、流れ図的に言えば意識のサブルーチンの一つであり。言葉の意味とは、内的機構が形成されて、コトバの取り扱いが充分に完成してからの話である。であるから赤子には発せられたコトバは、音として聴くことは出来ても、コトバとして、意味ある音としてのコトバを把握する事はない。では、聴覚を通じた、それらの外部情報はいつの頃から意味としての音に変化するか?。
つまり、外部から入って来る音が意味として把握されるのは、いつの頃か?という事である。その最も重要と思われる核心部は、外部の音声としての入力情報にあるのではなくて、内部機構の形成にある。話された音としての言葉が意味としてのコトバに変わるのは内部の変化、つまり受け手の変化に負っている。ここの所が核心部である。人はいちいち声帯に因る音を発しなくても、脳と云う記憶装置に蓄えられた音に因って思考をすすめることができる。此処にこそいわば脳内意味のサブルーチンのCycleが在る。それが黙考であり脳内では盛んに内語の応答が進行している。思考と云う音と意味の互換サイクルの中で、概念や意味が有効に使われることになる。この応答Cycleが形成されるのが謂わば母語の形成と云える.黙想とか内語の機能、意味生成の現場はここのSystemで生成する。
昨日、古本屋を訪れたら「計算機と脳」という文庫が半値で売っていましたので買いました。著者はノイマンです。この人のうまれはオーストリア・ハンガリー帝国のユダヤ人で、帝国内の銀行家の息子です。ハンガリー語は日本語と同じで姓が先に来て名前が後ですので、本来の名前はノイマン・ヤーノッシュですね。本は文庫本の為に新しく翻訳し直したと書かれていました。この本は分からないながらも遠い昔に一度読んでいる。数式は殆ど出てきません。面白かったので完全な物を読みたいと思い、ラティス社と云う所(今は潰れてしまっているかも知れません)が出版していると註釈に載っていたので、そこに注文して買いましたが、ごく薄い本でした。この本を知る最初の切っ掛けは中央公論社の「世界の名著Ⅱ」に収録されていた「電子計算機と頭脳」というレポートの抄訳です。此処にはN・ウィーナの「人間と機械」とか、マッカローの「脳神経系の未来」と題する、今で云うニューラル・ネットワークとか人工知能系統の論文が収録されていました。その中の一つがノイマンの「電子計算機と頭脳」というごく短い講演記録でした。これは著書と云うより講演記録です。
確かコーネル大だか、どこかでシリマン講演という公開講座が在って、講演招待者が2週間に亘って一つのテーマに関して連続講演するのだそうです。ノイマンは招待されたらしいのですが、その時は骨髄腫というガンに罹っていて2週間の連続講演とても無理だったらしく、1週間に縮めた講演の為のメモがこの本の原稿です。それでも1週間の講演さえもガンの進行で出来なかったらしい。ノイマンは原爆開発を精力的に進めていて、水爆の実験観察にも参加し恐らくはその様な核兵器実験の現場での推進が元で骨髄腫という骨のガンに侵されたのでしょう。献身的な核開発の当事者としてあまり褒められた生涯とも思えません。ミサイルの命中度と敵国破壊の効率的な研究も請け負っていた。オッペンハイマーにしてもフェルミにしてもファインマンにしても同様です。自然科学が政治と積極的に係るのが20世紀の後半です。
さて、この「電子計算機と脳」は面白い論文ですが、ごく薄い論述にも係らず一部と二部に分かれていて、各部が「電子計算機」と「脳」という二つのテーマについてのノイマンの考えが書かれて居ますが、私にはノイマンが描いていた海の物とも山の物とも分からない対象である、「脳」に付いての考え方の方に大きな興味を感じました。一部の方はテーマが電子計算機ですから、これはノイマン型と呼ばれるプログラム内蔵式の現在のコンピューターを当然の事ながら予想しています。電子計算機自体もノイマンの時代からすると、隔世の感がするほど桁違いに演算速度と記録容量は発展しています。超々LSIが開発されて、その速度はうなぎ上りで、1秒間に演算回数は千兆×千兆倍に成るでしょう。その上に現代では、EPR効果に基づく量子もつれを応用した量子コンピューターも端緒に付いた事から、この先いったいどれ程の速度に成るのかが分かりません。
ところが半面、「脳」に関しては依然として、ノイマンが描いた時代から長足の進歩をしているとは言い難い。おそらく脳のコトバに関しての深淵が横たわっている。その中で彼が言って居る事は、脳神経系中の言葉(数学)は、我々が歴史的に使っているコトバ(数学)とは、根本的に異なるものである可能性が高い。だが問題は余りにも根源的で、究極には思考と意識の仲介を果たす言葉の問題に突き当たる事だろう。と書いて居ます。ノイマンは当時の神経生理学的知見から脳細胞自体の起電力とその伝達について、脳神経細胞の電位波動である「インパルス」という事に興味をもっているらしいが、それが通信の単位または端子として、どの様な回路で構成されているかを空想している。それは突き詰めれば、脳の言語は何か?、ということなのだ。
元々、想像力と云う物は、言葉の含む曖昧さという概念を元にして成り立っている。メインフレームの0or1の論理が脳中の言語と成り得るか?という事に彼は違和感をもっている。彼が間違っているかも知れないし、或いは正しい可能性も残っている。1950年代の中期に、この伝達言語と内語の関係問題を決める事は難しかった。現在ではだいぶ神経系の研究は進んだがこの著作が提起している問題の難しさは軽く成っている訳ではない。脳神経系中の言語の解明は依然として解明の過渡期にある。二部を構成する「脳」の問題は、つまる所コンピューターの論理と数学で、生きている脳が解明できるか?と云うことを問うている。
それは生命体とは何か?という問いに直接つながる。コンピューターは電源を切れば停止するが死ぬ訳ではない。再び電源を入れれば、プログラムを初めから読み直し復活するが、生命体はそうは行かない、一度停止した脳が再び活性化して動き出すことはない。コンピューターはスイッチを切られても、磁性的な記録(記憶)が残っていて復活するが、生物はデオキシリボ核酸(DNA)と云う二重螺旋分子構造の形で、細胞の中に分子記録媒体が残されるが、統合的な生命体の機能自体は、一度停止したら再び元に戻ることはない。特に脳細胞は酸欠に弱く、比較的短い酸素欠乏状態で脳の機能は死ぬ。今後、人間の文明が越えなければならない将来の課題として、この自動機械の機能と言語問題は大きなネックとして今も残っている。脳神経系中の論理(コトバ)と数学は、我々がいまの文明的な枠組みで使っている、コトバと数学とはおよそ異なるものであろう。それが何なのか、今の次元では確定してはいない。
まだ未知の分野である、脳神経系の数学と言語は、どこかで取り掛かりのヒントは無いかと考えるに、矢張り、自分の思考の源泉である日本語の特質を考えてみるのが一番妥当な方法だと思う。物を考えるのにコトバである音声の、その音節、時制、構造文の上での重要な助詞、てにをは、擬態擬音語であるオノマトペ、動詞、形容詞、むかし中学で習った、未然・連用・終止・連体・仮定・命令・などの活用形である。我々はこの様に、一応、日本語文法の大まかな運用系を学ぶが、物を喋る際にこんな回りくどい文法変化など意識して喋っている訳ではない。相手のコトバを理解して、ほとんど反射的に返答しているに過ぎない。それでも大体は文法の示す所から余り逸脱してないのは不思議だが、子供のころから或る意味で、優れた日本語使いの老人に有像無像の内に、言葉の手習いを受けた賜物であろう。大分前から私は、ことばと云う物がその民族の気質を創り、国柄まで作る重要な要素になっているのではないか?と感じている。日本語では和歌の伝統が示す如く、穏やかで余韻のある控えめな表現を金としているし、ことばを語る際のそれが上品さを現すとされている。私は言葉を聞いていて、実際にそう感じますし大方の人も同じであろうと思います。外国語でも金切り声を挙げたようなコトバを美しいとは感じない。これは意味が分からないからという事ではありません。勿論人によって異なることもありましょう。ただ、小川の流れが歌っている様に聞こえ、水音ひとつにも声を感じる日本語人の自然に対する態度は、外国人には理解できない物なのだろう.。また文化の本質について、日本に生まれたという事だけで、日本文化の実体や身近な過去の江戸時代が理解できるかと云うと、そんな事は絶対にない。やはり、体験していない時代に付いては、シッカリと学ぶことが必要なのだが、学ばねば江戸時代に付いては、いつまでも無知である他ない。
まだ判らないところもありますが、今日は試験投稿をしてみました
アメーバ、FC2、ライヴドア…これではブログ魔になってしまいますね^^
ところで上記の記事を拝見しました
あまり難しいところは判りませんが、素朴な感想として
人類だけが伝達手段として言葉を持つようになったということに不思議な思いもしています
はるか人類以前には恐竜時代や元始静物もいたわけで
これらの生物たちには伝達手段も何もなかったのかと
思いますね
それが何億年と続いていたわけで
言葉をもつ人類と対比して考えますと
気が遠くなるような気がします
上の記事ですが、実際この分野は未開の世界です。書いて居る当人も良く分かって居るとは言い難い(笑)。ただ記事を提起すれば、こう云う世界が在るのか?、何が分からないのか?、何を難しがっているのか?という事を解釈してもらえると思い記事を書いて居るに過ぎません。固よりこの分野は手に余る問題です。人間以外でも動植物が思考力を持たない訳がない。ただ人間は声帯を振動させ、音節を別け、サブルーチン的に意味を対応させている。その時、発音以前の思念は何らかの対応に因って音声化される。
どうも生成文法のChomskyは人間の言語能力は遺伝子に刻まれているのだ。と言っているっ様ですが、DNAとまで言わなくても、人間は立ち上がる事に因って脳神経系が増大し両手が自由になった事で思惟力を強化する事ができた。立ち上がった事が分水嶺でした。また少し無責任な謂いい方に成りますが、「通信は何らかの情報の移動や波動のみの方法しか無いのでしょうか?」という事です。感応と云うとSFの話題ですが、思考にはもっと深い次元が在って、それは必ずしも情報に送信が必要ではない。同じ例を挙げればEPR相関にしても、奇妙この上ない現象という事に成ります。でもその原理を使って量子コンピューターを創るという。我々の常識が新たに開かれた世界に追付いて居ないのかも知れない。