世界には永遠に記録すべき、特異な人物が何人も居るものだが、即物的で何の文化的歴史も持たないアメリカという国家は先住民であるインデアンを抹殺し、秘密結社フリーメーソンに拠る反乱に因ってブリテンから独立した独善的な国家だが、この国家に二人の特筆すべき人間が生まれた。そしてこの二人は、このUSAから鼻摘まみ者にされ悲惨な生涯を送ったが、この飽くなき蛮族の国に若しも文化の価値があるとしたら、この二人に因る効果以外には考えられないだろう。一人はC・S・パースという数学者で哲学者の人で、もう一人は此処に取り挙げるスリラー作家、E・A・ポーである。比較的短い生涯に於いて、彼は怪奇小説家と記述されているが、それとは丸で異なった側面もある。詩人であり評論家で怪奇小説の妄想家、そう言う男が、思わぬ不思議なテーマである「宇宙論」を、自分の悲惨な生涯の最後に書いている事は何を意味しているのだろうか。怪奇小説家と謂うと、わが国では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が脳裏に浮かぶ。この二人は何らかの共通性で繋がって居るようにも見える。これらのジャンルに属する人々は、本来の人間という物を知るための重要な暗示や理解に連なるものだ。
人物論の中では「自己破滅的人間」という種類に分類できる思想家・作家を幾人か挙げる事ができる。同時代のフランスの詩人では、ボードレールやヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー、などもその範疇に入れることが出来よう。思うに世の人間認識の深みは、この様な人々によって開拓された。日本では偉大な詩人が書ききれないくらい何人も出ている。古くは万葉の庶民の詩人たちである。万葉集は日本全国から集められた庶民の詩集である。古今和歌集、新古今和歌集…、和歌のみならず、日記、物語、宇治拾遺、今昔などの説話集、此れに参加した庶民は数限りない。個性あるキリリと引き締まった物語など、伊勢物語はかなり古い部類に属するが、これは多くに人に読まれて来た意外とうすい歌集である。段落が有り、その物語のなかで歌が詠まれる。作者は解らないが在原業平だと云うのが有力な説である。作者は多分そうだろうが、読み継がれるうちに恐らくは、有力な詩人によって増段されて行ったというのが分り易い。確かに初版の伊勢物語は業平が書いたにしても、彼が亡くなり、それを見ている歌人たちが、それに付け加えるという誘惑に勝てなかったと思える。方丈記と同様に薄い本だが、古典という物はこの様な物を云うのだろう。能の演目に井筒があるが、その元はこの中の一節である。日本文化の発想はおもしろい、能と狂言はコンビだが、能はこの世とあの世の境で演じられる。
日本の近代詩人の中では朔太郎がポーに近いかも知れぬし、また宮沢賢治も特異な詩人に属するのだろう。詩人たちは不思議を愛する。
人物論の中では「自己破滅的人間」という種類に分類できる思想家・作家を幾人か挙げる事ができる。同時代のフランスの詩人では、ボードレールやヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー、などもその範疇に入れることが出来よう。思うに世の人間認識の深みは、この様な人々によって開拓された。日本では偉大な詩人が書ききれないくらい何人も出ている。古くは万葉の庶民の詩人たちである。万葉集は日本全国から集められた庶民の詩集である。古今和歌集、新古今和歌集…、和歌のみならず、日記、物語、宇治拾遺、今昔などの説話集、此れに参加した庶民は数限りない。個性あるキリリと引き締まった物語など、伊勢物語はかなり古い部類に属するが、これは多くに人に読まれて来た意外とうすい歌集である。段落が有り、その物語のなかで歌が詠まれる。作者は解らないが在原業平だと云うのが有力な説である。作者は多分そうだろうが、読み継がれるうちに恐らくは、有力な詩人によって増段されて行ったというのが分り易い。確かに初版の伊勢物語は業平が書いたにしても、彼が亡くなり、それを見ている歌人たちが、それに付け加えるという誘惑に勝てなかったと思える。方丈記と同様に薄い本だが、古典という物はこの様な物を云うのだろう。能の演目に井筒があるが、その元はこの中の一節である。日本文化の発想はおもしろい、能と狂言はコンビだが、能はこの世とあの世の境で演じられる。
日本の近代詩人の中では朔太郎がポーに近いかも知れぬし、また宮沢賢治も特異な詩人に属するのだろう。詩人たちは不思議を愛する。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます