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人類最古の文明としての日本

2024年03月12日 11時05分20秒 | 日本文明

 考古学という輸入された学問が始まったのは、戊辰の役が終わり、明治と改元された新政府の時代からであるから、つい昨日のことである。日本人はそれまで遠い過去を積極的に知ろうとすることは余り無かった。神代の時代としておおらかに語られていたに過ぎない。それでも江戸時代の後期には漢学(朱子学ー新儒教)に対抗する意味で国学が芽生え、日本の遠い過去の真の姿を解き明かそうと謂う機運が起った。賀茂真淵あたりに始まる国学である。国学の探求は古書の解読でもあり、また日本の個々の歴史を見直す事でもあった。それは主に文書主義とでも謂える物で、文書として残された過去の古史古伝を発見し解読するという行為である。なかでも本居宣長は古事記をテーマに研究し「古事記伝」を書いた。それまで古事記はよめない資料であった。だが国学の歴史的遡流もそこまでであった。それより古い古史古伝は、これは私の想像だが、あるときすべて何らかの理由により廃却された。

残っているのは天武天皇の際に企画された「日本書紀」だけだ。「古事記」が、それ以前の物か、または日本書紀と同時期か、或いは書紀以後かは定かでは無いが、名目上は書紀に先んずること20年前と云うが、古事記は日本書紀以後だという見方もある。何れにしても、精々1300年前のくらいの事に過ぎない。この程度の過去では、これは「日本文明と日本人の起源」の探求には役不足であろう。国学の輩も、「古事記以前の記録は無いか?」と必死に捜し回ったに違いない。だが今の所公式には出てゐない。物部氏が蘇我氏に襲撃され滅んだ際に、物部守屋と共に物部の膨大な書庫は灰燼に帰したと謂う。貴重な古史古伝は、誰かが持ち出さない限り灰になったと見て良い。なぜ古史古伝を襲い灰燼に帰させたか、其処には政治的理由がある。蘇我は明治新政府の様に外国崇拝である。当時の政治にシナの制度やインド由来のシナ仏教を持ち込もうとした。それに反対なのが国粋派の物部である。当時の政治的勢力図は有力部族の指導権争いでもある。物部を亡ぼした蘇我は、いずれ滅ぼされるのであるが、当時の争いとは別に、現代の我々には日本人の起源と文明の探求が最大の問題だ。

古史古伝は、その様な政治的理由により灰燼に帰したと思われていた。元より書かれた書物は失われ易く、内容に於いても改竄される事も儘ならない。であるから、既成の歴史書である記紀も最初から鵜呑みには出来ない性質の物である。考古学は様々な過去の姿を再現して呉れる。筆者の近くに根古谷台遺跡という紀元前6800年まえの遺跡がある。三内丸山遺跡と同時期の存在した縄文時代中期のものと考えられてきた。これは國の史跡となって居り貴重な出土品が無料で見学できる。この時代の文字記録としては発見されておらず未定である。だがコトバを記録する文字が存在しなかったとも思えない。

技術は口伝で伝えられたのであろうが、当時、縄文式土器と称された器は日本全国に亘っている。特に関東から東北に掛けての地域に、それは多い。現在解って居る最古の土器はやはり東北の北端にある、大平山元遺跡出土の土器で器の形はしていない。器の破片である。放射性炭素14法での算定は16500年前という。この時代に土器があったという事は定住が為され、それ以前の数千年前には土器は作られ煮炊きをしていたと想像する。津軽半島には外ヶ浜と陸奥湾という海に近い環境と鮭の遡上があり海産物は豊かであった。それに稲作も在った可能性も否定できない。確定している16000年前と言う時代は、一昔まえの歴史的見解からは日本列島に、人は居ないことに成ってゐる。ところがその前提は吹き飛んだ。例えば相沢忠洋によって群馬県岩宿遺跡が戦後に発見され日本の考古学の歴史は画期的な転換を迎えた。化石捏造事件などと言うとんでもない破廉恥な事件は有ったが、それでもすべてを捏造した訳では無く、日本列島に於ける日本人の起源は、そよそ10万年は遡れるのでは無かろうか。私はアフリカの地溝帯で現生人類が生まれたという、現生人類単一発生説を元より疑って居る。東アジアの人は別な起源をもっていると考えてゐる。生物の分布は気候と地質学の問題から見なければ為らない

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