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思考と言語、又は、音楽とコトバ、詩とコトバ

2024年08月03日 08時12分08秒 | 心理哲学

 思考と言語の関係は、大昔から人々の関心を惹き、其れなりに探求されて来た実際の歴史がある。それは、自分の思考を明確にする為にも、言葉はある程度必要だが、考えを他人に伝えるには、言葉は不可欠だからです。此処のところは、自分の思考(内語)と他者への伝達は、内容と形式に於いて少し違いが在る。

また、音楽(音学)とコトバについても、感情を語る詩に於いても、重要でありながら、思考と言語の関係は未だに明確になってゐない。それが現状認識です。大昔からコトバが無ければ思考は出来ないと主張する人達が居た。そして言葉の本体は伝達形式に使う「音」であるから、「この音にすべてが詰まっている」と考える連中の事です。現在の日本語は表現の文字に多様な形態がある。象形文字としての漢字があるし、音標文字としてのカタカナ、また、音票の書き言葉としての平仮名がある。この多様な形態は重要である。日本語に於いてとても大切な機能を発揮する。

ところがアルファベットを使う、世界の多くの国々の言語では、表記には、音声記号しか無い訳であるから、彼らは言葉とは音が全てであるとする、確かに彼らに取り「音」が全てであるとする気持ちは判る。音声記号が最も進んだ形態だと信じている。そして「音」が、全てだとした西洋の近代言語学は、最終的には構造言語学に帰結した。勿論、構造言語学が無意味だと言って居る訳ではない。構造言語学派は、文字表現上の「音素」や「語尾変化」の形態を細かく分析し、造語には特有な構造があり、詳しく変化形態を分類する。だが、その努力を尊重するにしても、彼らはどこか、根源的な意味でボタンの掛け違いを冒している様な気がしてならない。彼らは、言葉が出てくる根源をどう考えているのだろうか。

音は伝達のための結果であって、始原ではない。ここが重要だ、言語の起源は音以前の内面に発するものだ。指標と意味はコトバの習得の過程で、判断力と意味とが分かち難く結び付いてい居る為に、構文構成の過程は解析困難なものとなっている。この部分と直接対峙しているのは、詩人と呼ばれる表現者たちです。彼らはたぶん、コトバが何処から出て来るのかに対して注意を払っている。言語哲学は、その辺を探求する分野でもある。

そして構造言語派から、出現して来たのが生成文法派です。人間のコトバには、人間共通の普遍性が在り、その普遍文法を探求するのだという。なるほど、その動機はわかります。世界中に多種多様なコトバがある以上、最も基本的な文法がある筈に相違ないと考えるのは、自然な判断力の帰結です。だが、普遍文法と謂うのならば、それは動物、或いは植物のコトバまで含まなければ成らないと思う。そして、それを言うなら、創語の機能は生命一般に亘って普遍でなかれば為らない。コトバを人間だけの機能として扱っていてはダメなのだ。日暮らしの鳴く声は、関東でも、沖縄でも、北海道でも、殆ど同じなのだから。コトバの普遍を言うのならば、多種多様な生命体のコトバにも普遍性を見出さなければならない。

私たちは外部世界からの刺激を受ける為に、目、耳、鼻、舌、身体感覚、の「五感を生れながらに持っている」、そして「五感以上の感覚がある」と謂う哲学や思想があるが、それでも、我々が感じることの出来る五感は、平凡人の私達でも、誰でも容易に納得できるもです。これは人間自身が創り出した能力では無い。大自然に因る設計であろうとしか思えない。外部世界の情報を感知する為に、生命体である自然が生み出したものだ。わたしは、自然はこころをもっているといつも感じている、調和の意思をもってゐるとしか思えない奇跡を起こすのだ。自然は何よりも偉大な物だ。それは、創り出す構造、形態、調和、に於いてすべては驚嘆に値する。

子供時代の昆虫少年だった頃の虫の形、そして庭の紅葉の種の形、こう言う物を、穴の開くほど、良く観察すれば、其処には何よりの神秘がある。

 

人類の言語として日本語はもっとも古く、且つ神秘的な物である。日々、日本語を話しながら、私は日本語を知らなかった、少なくとも角田忠信先生の学説を聴くまでは。

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