欧米で注目を集める「歩くだけ」心理療法、ウォーキング・セラピーとは何か
歩くだけなのに、仕事のストレスも、うつ病も、依存症も軽減する効果があるという。ウォーキング・セラピーの第一人者であるイギリスの臨床心理士ジョナサン・ホーバンが指南する>
2020/03/10
新型コロナウイルスに世界同時株安と、先行き不透明な中、強いストレスにさらされたり、不安にさいなまれたりしている人もいるかもしれない。
【動画】歩行と健康の関係
その根本的な解決になるわけではないが、そんなとき、気持ちを和らげるひとつの方法がある。「歩くこと」だ。
ウォーキングやジョギングをすれば、気分がすっきりする。そんな経験をしたことのある人は少なくないだろう。だがそうした運動に、ストレスや不安、さらには依存症、うつ病までも実際に軽減する効果があると聞いたら驚くだろうか。
トークセラピー(会話療法)、自然、運動がそれぞれメンタルヘルスにもたらす治療効果については、これまで多くの研究がなされてきた。だが、それら3つを組み合わせた「ウォーキング・セラピー」は新しい治療アプローチで、「ここ数年、本当に関心が高まっている」と、米国心理学会で研究ディレクターを務めるC・ベイリー・ライトはワシントン・ポスト紙に語っている。
「ウォーキング・セラピー」はイギリスでも注目を集めている。元ロックミュージシャンの臨床心理士ジョナサン・ホーバンは、自身がウォーキングによりうつ病と依存症(ドラッグとアルコールの依存症だった)を克服した経験から、「ウォーキング・セラピー」を提唱。2014年に診療所「ウォーキング・セラピー・ロンドン」を開設した第一人者だ。
ここではホーバンが、現代人が忘れてしまった「野性の本能」を取り戻す方法、そして五感を活性化させる方法を説いたウォーキング・セラピーの指南書『ウォーキング・セラピー ストレス・不安・うつ・悪習慣を自分で断ち切る』(井口景子・訳、CCCメディアハウス)から一部を抜粋し、3回にわたって掲載する。
まずは「はじめに」から、仕事のストレスとウォーキングの効果について。スタンフォード大学ウッズ環境研究所の2015年の調査で、自然の中を90分間歩いた人は、うつに関連する脳の部位の活動が減少したという。
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<檻に閉じ込められたときに起きること>
一日の大半を職場で過ごし、それ以外の時間も仕事のことが頭から離れない生活を送っていると、ストレスホルモンの異名を持つ「コルチゾール」の分泌量が高まります。強いストレス状態が続くと、判断ミスを犯す、全体像を見失う、苛立ち、不安、うつ、精神疾患、アドレナリン依存症(スリルや興奮を追い求めずにはいられない状態。酒やドラッグといった外的要因の他に、ストレスが高まったときにもアドレナリンの分泌が増える)など、さまざまなトラブルにつながります。
一言で言えば、私たちは自分自身を見殺しにしてきた>
そんなとき、私たちの体は容赦ないストレスと必死に戦いながら、「戦うか、逃げるか、固まるか」という究極の選択にさらされ続けます。そのうちに自分と他者の間にあるべき境界線の感覚は完全に失われ、人間という動物が大事にケアされるべき存在だということも忘れてしまいます。
一言で言えば、私たちは自分自身を見殺しにしてきたのです。そして私の経験では、最も深刻な心の傷が生じるのは、他人ではなく自分自身に見殺しにされたときなのです。
では、あなたはどんなときに、自分を見殺しにしてきましたか。好きだった趣味をやめてしまったとき? あるいは、仕事に直結しない人とのつながりを絶ったときでしょうか。過食や酒の飲み過ぎに走ったとき、好ましくないタイプの人物に接近したとき、あるいはもっとシンプルに、あまりに長時間働き過ぎたとき――。どんな場面で自分を見殺しにしがちかを振り返ってみることで、どのタイミングで人生をコントロールできなくなったのか気づけるかもしれません。
自分の人生を自分でコントロールできなくなる、他者との境界線が消えてしまう、そして「ノー」や「やめて」を言えなくなる――これらが重なると、判断力が鈍り、不安やストレスが高まります。そして、その状態が長期間続くと、自分らしさを見失い、身動きが取れなくなって無力感に苛(さいな)まれます。見失ってしまった本来の自分を再発見して自らに正直になること、そしてストレスを生む要因をコントロールする手法を学ぶことが、この本の狙いです。
もう自分を見殺しにするのはやめて、ないがしろにしてきたものを大切にしましょう。そして、「自分勝手」に振る舞う方法を学びましょう。
自分勝手という言葉には、他人を顧みない利己的なイメージがつきまといます。でも、友人や同僚とパブに行く代わりに、一人で映画館に向かうのは自分勝手な行動でしょうか。同僚がデスクで昼食を取るなか、屋外で1時間のランチを楽しむのは自分勝手でしょうか。答えは、もちろんノー。そんなふうにあなたに思い込ませる権利は誰にもありません。
こうした行動は、自分勝手ではなく「セルフケア」です。他人にどう思われるかは関係ありません。重要なのは、あなたが直感的に何を信じ、どう感じるか。私たちはあまりに簡単に自分の本音を隠し、他人のコントロールに身を委ね過ぎなのです
ウォーキングをすると、エンドルフィンとオキシトシンが分泌される>
<幸せに向かって歩く>
先ほど、コルチゾールとアドレナリンが頻繁かつ多量に分泌される危険性について触れましたが、対抗手段もあります。「ラブドラッグ」の異名を持つオキシトシン。母子の愛着やボディタッチ、親密さ、笑顔、心地よさを感じるさまざまな行動(ウォーキングを含む)と関連の深いホルモンです。ウォーキングをすると、「幸福ホルモン」と言われるエンドルフィンとともに、このオキシトシンが分泌されて体内をめぐるため、すぐに効果を感じることができます。
実際、2015年にスタンフォード大学ウッズ環境研究所(カリフォルニア州)が行った調査では、自然の中を90分間歩いた人は、うつに関連する脳の部位の活動が減少していました。つまり、自然の中で体を動かすことで気分がよくなり、ストレスが軽減し、物事をクリアに考えたり、思考と感情を整理する時間と余裕が生まれるのです。
深刻な問題を抱えているときに、ウォーキングが解決の突破口となるケースは多々あります。判断に迷ったときに「散歩に行こう!」と思い立ち、いい解決策が見つかったり、頭がすっきりした経験のある人は多いのではないでしょうか。
<歩くだけですべての問題が解決する?>
先にも述べたように、この本が提示するのは手っ取り早い処方箋ではありません。スーパーまで徒歩で往復するだけで、悩みが吹き飛ぶわけではないのです。必要なのは体を動かすこと。それも真剣に。近隣の山に登れとは(今の時点では)言いませんが、脳を活性化したいと本気で願うなら、どんな天候であれ外に出て、自然の中を歩く経験にどっぷりと浸かる必要があります。
ウォーキングをすると決めたら、多忙な日々の中で十分な時間を確保する必要もあります。ウォーキングの前と最中、そして終了後の感覚に意識的に注目するうちに、自分の感情に「名前をつける」ことに徐々に慣れていきます。「幸せ」「心配」「憂うつ」「悲しい」といった具合に感情を言語化する訓練を通じて、頭と体がより効果的に思考や感情をコントロールできるようになっていきます。
こうした訓練は、無意識のうちに内面にため込んでいた感情や、弱いと思われたくなくて隠してきた気持ちを表出させる後押しにもなります。また、気持ちに関する語彙を増やし、自信と自尊心を高め、心身のストレスを和らげ、解放感と安心感という大切な感情をもたらしてくれる効果もあります。その習慣がない人にとっては、慣れるのに少々時間がかかるかもしれませんが、気持ちを言語化するのは恥ずかしい行為ではありません。
体を動かすと、思考がクリアになります。とりわけ自然の中でのウォーキングには、なくしてしまった自然との精神的なつながりを再構築する力があります。
※抜粋の第2回は3月11日に掲載予定です。
3/10tue/2020