日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

1・31新潟講演集会へのおさそい

2015-01-21 23:32:08 | 日記
1・31新潟講演集会へのおさそい
 柏崎刈羽原発の6、7号機を再稼働させようという東京電力や国の動きが、さかんに伝えられています。1月22、23日には柏崎市と刈羽村の全員協議会で、東電は進行状況を報告する予定です。一方、再稼働に反対する県内各団体の活動も活発です。
 東京電力は新潟県に何の相談もなく、6、7号機にフィルターベント装置を設置して、2013年9月、原子力規制委員会に適合性審査を申請しました。原子力規制委員会は現地調査を何回かおこなっています。
 しかし、肝心の原発直下にはたくさんの断層群が見つかっており、最近のボーリング、トレンチ、立杭などの調査によって、原発敷地と周辺の地質・地盤が原発運転の条件に適合しない疑いはますます強くなってきました。

 そもそも、3年10カ月前の福島第一原発の事故については、地震と津波の関係をはじめ、未だ、判らないことだらけです。新潟県技術委員会は2013年10月から。6つの課題にしぼって福島原発事故の原因の究明を議論してきました。国会事故調が残した間題を新潟県の技術委員会で取り上げて議論しているのです。泉田新潟県知事は、福島原発事故の原因解明と総括なしには再稼働の審議にはいることほない、と姿勢を明らかにしています。その通りだとおもいます。
 
 私たち、「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」は、この年末に「ニュースレターNo.9」を発行して、現時点における柏崎刈羽脇こついての間題点を指摘しました。さらに最新の惰報もとり入れてその内容を報告し、会場からの質問にお答えしたいと講演集会を企画しました。
 ひとりでも多くのみなさんにお出で頂きたいとご案内するしだいです。
           2014年12月25日 井野博満 山口幸夫
主催: 柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会
共催: 地元の諸団体に依頼中
日時: 2015年1月31日(土)、13時30分~17時30分
会場: 新潟市万代市民会館、多目的ホール(新潟駅から徒歩7分)
    新潟市中央区東万代町9-1 TEL.025-246-7711
くプログラム>
◆講演1   田中三彦    新潟県技術委員会で議論していること
◆講演2   石橋克彦(予定) 柏崎刈羽原発の「耐震未解決問題」
◆レポート  地元の運動から 差止め裁判/学習交流会/ベントと被ばく避               難
       全国の動きから 規制委員会/大飯判決/再稼働

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「かき船を考える会」結成総会

2015-01-21 23:06:12 | 日記
「かき船を考える会」結成総会
1月24日(土)16時~18時
まちづくり市民交流プラザ北棟5階研修室C
(中区袋町6-36袋町小学校併設).

皆さんは、元安橋のたもとに、かき船「かなわ」が来ることをご存知ですか。
 広島市は、昨年11月末、現在の平和大橋の南側から元安川の南側にかき船「かなわ」を「移転」することを決定し、国に申請しました。これをうけて、国土交通省中国地方整備局は、同区域を都市・地域再生利用区域に指定。元安橋直下の河川の区画は、営業活動ができる特別区域となりました。12月には、太田川河川事務所が河川敷地占用許可を出しました。「かなわ」は近々着工を予定しているといいます。
 これら一連の事態は、多くの市民の知らない間に進められました。偶然この事実を知った「原爆犠牲ヒロシマの碑」の関係者が、広島市に決定の撤回と慎重審議を求めましたが、聞き入れられません。そこで、“原爆ドーム・平和公園地区へのかき船(水上レストラン)移転・新設間題を考える会(略称:かき船間題を考える会)"を立ち上げることにいたしました。
 平和大橋も元安橋も世界遺産「原爆ドーム」のバッファゾーン(世界遺産周辺に良好な環境を保護するための緩衝地帯)ですが、「移転」予定地は原爆ドームにより接近します。ここにかき船が来ることが、核兵器使用の惨禍を如実に伝える「人類の負の遺産」としての原爆ドームにふさわしいかどうか。日本イコモス(ユネスコの世界遺産条約に関する諮問機関)も現地調査に入りました。
 今後、広島市はどう対応するつもりでしょうか。
 皆さんに現状をお伝えし、共に考えていただきたいとの思いで「かき船問題を考える会」を計画しました。多くの方々のご参加をお頗いします。
出典「第29回水の都ひろしま推進協議会」資料(略)
1月24日(土)16時~18時
まちづくり市民交流プラザ(中区袋町6-36袋町小学校併設).
北棟5階研修室C

出典「第29回水の都ひろしま推進協議会」資料(略)
原爆ドーム・平和公園地区へのかき船(水上レストラン)移転・新設問題を考える会(仮称)
(略称:かき船問題を考える会)
呼ぴかけ人 
植木研介 広大名誉教授原爆遺跡保存懇世話人・「元大正屋呉服店を保存     する会」世話人代表
大森正信 広島県原水協筆頭代表理事
金子哲夫 広島県原水禁代表委員
宗藤尚三 日本基督教団牧師 日本宗教者平和協議会常任理事
森瀧春子 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANAWA)共同代表
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四國五郎追悼・回顧展

2015-01-21 22:32:19 | 日記
四國五郎追悼・回顧展
優しい視線・静かな怒り 四國五郎追悼・回顧展に寄せて
 ●絵にヒロシマの川の匂いがある。
 四國五郎追悼の会・呼びかけ人代表 御庄博実(詩人・医師)
 広島は川の街である。秋風が立ちはじめると、橋の欄干にもたれてのぞき込む、川面の波型は、果てしなく見飽きない。時に川岸や橋上から、竿を延ばして釣りを楽しむ牧歌的風景も、広島になじみの深い抒情であろう。そして、この川底に70年前地獄絵がくりひろげられた記憶が、いま何事もなく閉じ込められているのを、僕は悲しくもまた、耐え忍んできた人間と自然の美しさだと思う。
 四國五郎さんの絵には、そのヒロシマの川の匂いがある。
 四國さんが、ヒiコシマの橋を描きつづけてきた、ということだけではない。四國さんの風景、四國さんの少女像、四國さんのシベリアの記億、のなかに僕はヒロシマの川のせせらぎの音を聞き、川底にいまも眠っているであろう被爆瓦の火泡の傷痕を見るのだ。
 僕が四國さんを知ったのは、峠三吉らが拠った「われらの詩」の詩運動のなかでであった。僕らは皆、若かった。勿論、峠も四國五郎も、みんな輝やかな青年であった。その群像は、土屋清の『河』に見事に描かれている。目を閉じると、鮮烈な「青春のいぶき」がまなうらに浮かんでくる。四國五郎さんの画心は、その炎のような鮮烈さを、絶えることなく燃やしつづけてきた。今日、四國さんの「仕事」の凡てをふりかえることが出来るという。僕はいま、輝やかな青春に再見できることに、胸をときめかせている。(2014・10)

●衆俗の河を生きる 
画家・ガタロ(福井英二)  2014年4月某日、毎日新聞のK記者より、突然の四國五郎先生の訃報を受けた。思わず大声を発した。その後涙にむせんでまっとうに言葉が出ぬ。ごく身近な者が死んでもこれほど笑くことはなかったが、三日三晩突きくれた。なにゆえこうも悲嘆したのであろうか。
 四國先生が衆俗の中に生き、描き、詠んだ、民衆の歓び怒り哀しみに改めて自らの心に映したからである。
 美術界の現状は、衆俗の痛苦に触れぬ「象牙の塔」となって久しい。人間の営みや自然のありようを写実主義の方便で描いても、そこに何のリアリテイ・<批判精神〉のカケラもない。広島やヒロシマに在って(生きて)、二度とヒロシマを繰り返さぬための身をよじるような変革の意志や、生きざまに覚悟を持たぬのである。
 四國先生の仕事を知る所となったのは、関西方面での仕事の後、持病のため広島に帰郷した1970年後半であった。
 当時、暇にまかせ美術館、各画廊巡りをしていたが、胸を打つものはなかった。御芸術といわれるモノにふれても、一向にわからぬ。つまりは自己の根城(ヒロシマ)が無いのである。生きていることの根拠が見えぬのである。
 そんな中、四國先生は大路(メインストリート)はもとより、小路、路地、横道、広島の川、広島の橋をしらみつぶしにスケッチされていた。その作品の発表の場も、銀行ロビーから喫茶店、人々が集まる場所ならどこでも、なりふりかまわず発現する。これは戦後まもなく、街中に出て発現した「ちちをかえせははをかえせ」の詩人・峠三吉等の辻詩を原点としていた。
 四國先生はその才を愚直にふららに、私等が呼吸(いき)するように発現したのである。眼球と手と足で、広島やヒロシマをなぞるように確認されたのである。手で思考する人であった。
 ある日、宇品港からの帰路、比治山矯のたもとに立ち、一心にスケッチしている小躯の四國先生の姿が目に入った。もう黄昏時の冬の空の下。私はうたれた。なさけなかった。自分は今日一日何をしたのか。一同を棒にふる日暮しを送っていた。
 海を慰みとしても、そこに立ち何も描いていない自分が無性になさけなかった。以後、土着に生きた四國先生のカバン持ちになると決めた。無論、四國先生はカバン持ちも弟子もとらぬ人であったが、私は、毎日新聞のK記者に「四國先生のカバン持ちをしている」と言った。翌日の新聞にそのことが載った。風聞そのことが波紋をよんだが、四國先生は「フクイ君はオモシロイ」とあちらで笑っておられることだろう。四國先生はそんな人であった。
 既に鬼籍に入られた文豪井上ひさし氏は「難しいことをやさしく、やさしいことを深く」と言われた。これは四國先生に通底する名言である。(2014・8・17)

*〈平和の→株>として多くの皆さま方の志金を募っています。
展示予告2015年4月8日~20日旧・日銀広島支店(電停・袋町)
午前10時~午後5時
四國五郎「追悼」の会
(広島市中区本川2丁目1-29-301電話・FAX082-291-7615)
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