日本ユーラシア協会広島支部ニュース2022年7月23日
【2022年度ロシア語能力検定試験】
第80回が10月29日30日実施されます。会場は広島市東区民文化センター(3階)です。https://www.tokyorus.ac.jp/kentei/
【国際フェスタ2022】「「国際フェスタ2022」の公募三事業のうち、国際協力バザー(民芸品)、ひろしま国際村〜世界の屋台の出店に参加します。国際フェスタの開催は、今年で23回目で、本年は11月20日(日)に開催されます。
【夏の企画】
①「せこへい美術館」・期間:2022年7月26日(火)~7月31日(日)9時~17時・場所:広島県立美術館地下展示室5/広島市中区上幟町2-22
②「カザフスタン元留学生と広島の若者による平和シンポジウム」
・日時:2022年8月29日(月)18:30~20:30本番・会場:広島国際会議場 地下1F議会運営室及びオンライン
③2022年度「ひろしま国際交流サミット」及び「ひろしま国際交流・貢献 親睦の集い」
・日時:2022年8月3日(水)国際交流サミット総会・講演会15:30 ~ 17:00 講演:広島フィルム・コミッション西崎智子・国際交流・貢献 親睦の集い17:10 ~ 18:30・会場:TKPガーデンシティ広島 広島市中区中町8-18 広島クリスタルプラザ
④ヒロシマ平和の灯の集い
・日時7月31日・場所平和記念公園など
⑤8・6国際対話集会~反核の夕べ 2022 核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える
日 時︓8 月 6 日(土) 14:00 ~ 16:30
場 所︓広島弁護士会館(広島市中区上八丁堀2-73)3階ホール
資料代︓500円内 容︓グローバルヒバクシャからのスピーチ(動画を予定)
講演「核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える」講師︓元広島市長 平岡敬(ひらおか・たかし)さん 宮崎園子 (みやざき・そのこ)
【初めて地球を一回りした日本人~石巻若宮丸物語 第3話 阿部 和夫】
イルクーツクでの生活
漂流民の一行は、ロシアに帰化しても日本語を話せる信藏や庄蔵と巡りあえ、自分たちの遭難の経緯を正確にロシア側に伝えられるというよさはありました。しかし、ニコライ信藏の様子や周囲の状況から、日本に帰るよりこの地で日本語学校の教師になって暮らした方が良いのではないかと考えるようになる人も出てきました。
オホーツクからイルクーツクに移動する際、最初のグループとなった三人の内、善六と辰蔵がロシア正教に改宗してしまいました。その為、もう一人の儀兵衛とは別れて暮らすようになっていました。後からイルクーツクに到着した漂流民は、善六と辰蔵が改宗してロシア人になっていたことに、どんなにか驚いたことでしょう。
これまで苦労しながらも協力し合ってきた漂流民でしたが、その後イルクーツクで暮らしている内に洗礼を受け、帰国を断念してロシア人となったグループは四人に増え、そうすることを拒否する十人との二つのグループに分かれて対立するようになりました。
漂流民に対して役所から生活費は支給されていました。日本語学校の教師となった善六には手当もあり、改宗したグループは、そうでない漂流民より良い暮らしが出来ました。
彼等は無為に日を送っていたわけではありません。道普請の人夫として働いたりしていますが、津太夫は網を作りました。それを使ってバイカル湖で漁をして、獲った魚は干物や塩漬けとして保存食にしました。それだけではなく大漁の時には、イルクーツクの魚屋に卸すようになりました。さらに、自分達の為に造った「どぶろく」をやがて販売するようにまでなっていたのです。
最も成功したのは、儀兵衛の金貸しと小間物の行商でした。若宮丸で賄い(事務長)をしていた彼は、交易をする大店で荷物の出し入れを手伝っているうちに、そこの主人に信頼され高額のお金を八分の利息で借りることが出来、これを元手に金貸しを始めて成功します。彼はそれを元手に小間物商売を始めました。漂流民仲間の器用な人が、指輪や耳飾りを創りました。細工が江戸風で珍しいためかロシア女性に人気がありました。
しかし彼等に辛い事も待ち受けていました。
【ウクライナ状況】1991年12月25日ソ連解体後のウクライナとカザフスタンの歩み
ソ連解体に先立ち1991年ロシア、ウクライナ、カザフスタン指導部は三国の独立について合意しました。ウクライナ独立は1991年8月24日、カザフスタン独立は1991年12月16日でソ連解体に先立ち、ロシア独立は1991年12月25日のソ連解体と同日です。
2022年2月21日ロシア・プーチン大統領のウクライナへの「特別軍事作戦」布告の根拠は①ウクライナの非ソ連化②ウクライナの非ナチ化③生物兵器の阻止④NATOの拡大阻止を掲げています。
「NATOの東方拡大」については、1990年1991年当時のソ連と米国との合意が知られています。199090年2月9日のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフと米国国務長官ジェームズ・ベイカーの間の会話の記録
(https://nsarchive.gwu.edu/document/16117-document-06-record-conversation-between)では、ゴルバチョフ「私たちはすべてを考え直します。私たちは、これらすべての質問をリーダーシップレベルで詳細に議論するつもりです。言うまでもなく、NATOゾーンの拡大は受け入れられません。」
ベイカー「私たちはそれに同意します。」がよく知られています。
しかしこのこの合意はなかなか達成されていません。2008年のロシア・ジョージア(グルジア)紛争もその一つで、さらに2014年からのウクライナ東部ドンバス地域での紛争も始まりました。ソ連の継承国ロシアは、各共和国に様々な施設を残しています。カザフスタンへのセミパラチンスクなどへの核実験場、バイコヌール宇宙基地、クリミヤ半島へのセバストポーリ軍港があります。クリミヤ半島の帰属は、1953年ソ連スターリン首相後のフルシチョフ首相により1954年にロシアからウクライナに移管されていました。セバストポリ軍港はソ連解体に伴い、ウクライナ部分とロシアロシア部分への分割が提案されていましたが、分割は困難でロシア軍港がクリミヤ半島にそのままで残りました。ロシア側はウクライナ部分をオデッサに移すことを提案。
ウクライナ側からはロシア軍港の使用制限、クリミヤ半島からの撤去も提案されましたが、ヤヌコビッチ大統領の時には2017年に租借期限が切れるのを25年間延長し、2042年までとしました。しかしヤヌコビッチ政権が2014年のクーデターで倒されたので、セバストポリ軍港の存続は不安定なものとなりました。ちなみに英国の核基地がスコットランドに集中しているため、スコットランドの独立の動きが英国の軍事体制に直接の影響を与えていることと似ています。ロシア側からすればセバストポリ軍港のクリミヤ半島か撤去は、容認できない事情があります。トルコに帰属していたクリミヤ半島はトルコとの11回にわたる紛争でロシアに帰属した経緯があります。現在クリミヤ半島はロシアと橋で結ばれています。
[7月21日ウクライナジャーナリストが広島訪問 広島市長訪問 報告会の様子]
【・「映画『氷雪の門』への考察・炭本さんのボルゴグラード紀行1978年訪問1998-06-09記述】次号以降に掲載。
【2022年度ロシア語能力検定試験】
第80回が10月29日30日実施されます。会場は広島市東区民文化センター(3階)です。https://www.tokyorus.ac.jp/kentei/
【国際フェスタ2022】「「国際フェスタ2022」の公募三事業のうち、国際協力バザー(民芸品)、ひろしま国際村〜世界の屋台の出店に参加します。国際フェスタの開催は、今年で23回目で、本年は11月20日(日)に開催されます。
【夏の企画】
①「せこへい美術館」・期間:2022年7月26日(火)~7月31日(日)9時~17時・場所:広島県立美術館地下展示室5/広島市中区上幟町2-22
②「カザフスタン元留学生と広島の若者による平和シンポジウム」
・日時:2022年8月29日(月)18:30~20:30本番・会場:広島国際会議場 地下1F議会運営室及びオンライン
③2022年度「ひろしま国際交流サミット」及び「ひろしま国際交流・貢献 親睦の集い」
・日時:2022年8月3日(水)国際交流サミット総会・講演会15:30 ~ 17:00 講演:広島フィルム・コミッション西崎智子・国際交流・貢献 親睦の集い17:10 ~ 18:30・会場:TKPガーデンシティ広島 広島市中区中町8-18 広島クリスタルプラザ
④ヒロシマ平和の灯の集い
・日時7月31日・場所平和記念公園など
⑤8・6国際対話集会~反核の夕べ 2022 核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える
日 時︓8 月 6 日(土) 14:00 ~ 16:30
場 所︓広島弁護士会館(広島市中区上八丁堀2-73)3階ホール
資料代︓500円内 容︓グローバルヒバクシャからのスピーチ(動画を予定)
講演「核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える」講師︓元広島市長 平岡敬(ひらおか・たかし)さん 宮崎園子 (みやざき・そのこ)
【初めて地球を一回りした日本人~石巻若宮丸物語 第3話 阿部 和夫】
イルクーツクでの生活
漂流民の一行は、ロシアに帰化しても日本語を話せる信藏や庄蔵と巡りあえ、自分たちの遭難の経緯を正確にロシア側に伝えられるというよさはありました。しかし、ニコライ信藏の様子や周囲の状況から、日本に帰るよりこの地で日本語学校の教師になって暮らした方が良いのではないかと考えるようになる人も出てきました。
オホーツクからイルクーツクに移動する際、最初のグループとなった三人の内、善六と辰蔵がロシア正教に改宗してしまいました。その為、もう一人の儀兵衛とは別れて暮らすようになっていました。後からイルクーツクに到着した漂流民は、善六と辰蔵が改宗してロシア人になっていたことに、どんなにか驚いたことでしょう。
これまで苦労しながらも協力し合ってきた漂流民でしたが、その後イルクーツクで暮らしている内に洗礼を受け、帰国を断念してロシア人となったグループは四人に増え、そうすることを拒否する十人との二つのグループに分かれて対立するようになりました。
漂流民に対して役所から生活費は支給されていました。日本語学校の教師となった善六には手当もあり、改宗したグループは、そうでない漂流民より良い暮らしが出来ました。
彼等は無為に日を送っていたわけではありません。道普請の人夫として働いたりしていますが、津太夫は網を作りました。それを使ってバイカル湖で漁をして、獲った魚は干物や塩漬けとして保存食にしました。それだけではなく大漁の時には、イルクーツクの魚屋に卸すようになりました。さらに、自分達の為に造った「どぶろく」をやがて販売するようにまでなっていたのです。
最も成功したのは、儀兵衛の金貸しと小間物の行商でした。若宮丸で賄い(事務長)をしていた彼は、交易をする大店で荷物の出し入れを手伝っているうちに、そこの主人に信頼され高額のお金を八分の利息で借りることが出来、これを元手に金貸しを始めて成功します。彼はそれを元手に小間物商売を始めました。漂流民仲間の器用な人が、指輪や耳飾りを創りました。細工が江戸風で珍しいためかロシア女性に人気がありました。
しかし彼等に辛い事も待ち受けていました。
【ウクライナ状況】1991年12月25日ソ連解体後のウクライナとカザフスタンの歩み
ソ連解体に先立ち1991年ロシア、ウクライナ、カザフスタン指導部は三国の独立について合意しました。ウクライナ独立は1991年8月24日、カザフスタン独立は1991年12月16日でソ連解体に先立ち、ロシア独立は1991年12月25日のソ連解体と同日です。
2022年2月21日ロシア・プーチン大統領のウクライナへの「特別軍事作戦」布告の根拠は①ウクライナの非ソ連化②ウクライナの非ナチ化③生物兵器の阻止④NATOの拡大阻止を掲げています。
「NATOの東方拡大」については、1990年1991年当時のソ連と米国との合意が知られています。199090年2月9日のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフと米国国務長官ジェームズ・ベイカーの間の会話の記録
(https://nsarchive.gwu.edu/document/16117-document-06-record-conversation-between)では、ゴルバチョフ「私たちはすべてを考え直します。私たちは、これらすべての質問をリーダーシップレベルで詳細に議論するつもりです。言うまでもなく、NATOゾーンの拡大は受け入れられません。」
ベイカー「私たちはそれに同意します。」がよく知られています。
しかしこのこの合意はなかなか達成されていません。2008年のロシア・ジョージア(グルジア)紛争もその一つで、さらに2014年からのウクライナ東部ドンバス地域での紛争も始まりました。ソ連の継承国ロシアは、各共和国に様々な施設を残しています。カザフスタンへのセミパラチンスクなどへの核実験場、バイコヌール宇宙基地、クリミヤ半島へのセバストポーリ軍港があります。クリミヤ半島の帰属は、1953年ソ連スターリン首相後のフルシチョフ首相により1954年にロシアからウクライナに移管されていました。セバストポリ軍港はソ連解体に伴い、ウクライナ部分とロシアロシア部分への分割が提案されていましたが、分割は困難でロシア軍港がクリミヤ半島にそのままで残りました。ロシア側はウクライナ部分をオデッサに移すことを提案。
ウクライナ側からはロシア軍港の使用制限、クリミヤ半島からの撤去も提案されましたが、ヤヌコビッチ大統領の時には2017年に租借期限が切れるのを25年間延長し、2042年までとしました。しかしヤヌコビッチ政権が2014年のクーデターで倒されたので、セバストポリ軍港の存続は不安定なものとなりました。ちなみに英国の核基地がスコットランドに集中しているため、スコットランドの独立の動きが英国の軍事体制に直接の影響を与えていることと似ています。ロシア側からすればセバストポリ軍港のクリミヤ半島か撤去は、容認できない事情があります。トルコに帰属していたクリミヤ半島はトルコとの11回にわたる紛争でロシアに帰属した経緯があります。現在クリミヤ半島はロシアと橋で結ばれています。
[7月21日ウクライナジャーナリストが広島訪問 広島市長訪問 報告会の様子]
【・「映画『氷雪の門』への考察・炭本さんのボルゴグラード紀行1978年訪問1998-06-09記述】次号以降に掲載。