サンフランシスコの最後の週末は、「奇跡」の一日が何百年にも感じられた時をすごしました。
ジャパンタウンの仏教会館で、園田さん、マリさん、Cokoたちと映画「四分の一の奇跡」を鑑賞した後、マリンまでドライブして、マリア、宮城サンご夫婦をを訪問しました。
マリアさんを是非一度拝顔しておきたいと思っていた矢先、昨日は実現出来ました。
マリアさんは、学童疎開船「対馬丸」が撃沈されたときに1661名無くなり、生存者わずか153名のお一人でした。
タイタニック船のようです。
マリアさんはその数ヶ月後すぐに東京大震災にも合われて二重の悲劇に遭われ、奇跡的に助けられました。
マリアさんの自宅は50年前には、ルーズベルト大統領の秘書の娘さんが住まわれという平屋敷でした。
隠れキリシタンの灯篭、仏像、お地蔵さんが庭園にあり、自然野草、樹木、野菜、お花が咲き乱れているという、日本庭園と楽園を思わせる庭をご主人のディビットが最初に案内してくださいました。
購入するときちょっと高かったので、ご主人は躊躇され、どうやって支払いするの?といわれたそうですが、マリアさんは「そんなこと買ってから考えれば良い」と。事故当時14才のマリアさんはまだ少女。当時から肝っ玉母さんのような強い精神を持っていられたようです。
「対馬丸の悲劇」の著書には書かれていなかった、かなりきついお話もしてくださいました。
天皇両陛下にお会いになったときは、30分の予定時間が一時間半にも及び天皇陛下がお話を聞かれたそうです。
マリアさんの明るい性格も奇跡の生還を果たされた要因の一つだったんですね。
霊感が強く、私たちが訪問したときも、はじめの予定はCokoと私と二人に訪問する予定でしたが、4人になってしまったことも「今日は、二人でなく、四人来るよ!」と予知されていました。
満面の笑みで、黒目が黒曜石のように鋭く光り、皮膚には皺も無く、ピカピカ、小柄でとても82歳とは思われません。
マリアさんは
「海に投げ出されて筏で4日間漂流中、死んでいました。10日間は意志によって食べなくても良い。
その時は馬鹿になっている、生きてはいるけど、、、救助されて看板に寝かせられた人が、生きているか死んでいるか、軍人さんが足で蹴って、これはダメ、といって海に投げ入れた。
二度も別看板に寝かされ、点検されたときは、きつかった。
「死んだ後に仇を取る!また生きて帰ってくる、300年後に帰ってくると、心の中で叫んでいました」と、お話されていました。
世界屈指の深海底の海で遭遇した1944年8月22日、対馬丸の悲劇の日に生まれた私を、マリアさんは強く抱きしめてくださいました。
犠牲者の子供たちの無念を果たすべく、私の世界行脚は、これからも続くことを改たに致しました。」
琉球です。私たちは沖縄といってはいけないと教えられてきた。
沖縄は「ナワ」で縛って本土から連れてきたから沖縄というんだ。
私たちは700年前の松平家の子孫で宮城家と一緒になった。
縄文はその前のルーツです。
マリアさんにお会いできたことを光栄に思います。
ジャパンタウンの仏教会館で、園田さん、マリさん、Cokoたちと映画「四分の一の奇跡」を鑑賞した後、マリンまでドライブして、マリア、宮城サンご夫婦をを訪問しました。
マリアさんを是非一度拝顔しておきたいと思っていた矢先、昨日は実現出来ました。
マリアさんは、学童疎開船「対馬丸」が撃沈されたときに1661名無くなり、生存者わずか153名のお一人でした。
タイタニック船のようです。
マリアさんはその数ヶ月後すぐに東京大震災にも合われて二重の悲劇に遭われ、奇跡的に助けられました。
マリアさんの自宅は50年前には、ルーズベルト大統領の秘書の娘さんが住まわれという平屋敷でした。
隠れキリシタンの灯篭、仏像、お地蔵さんが庭園にあり、自然野草、樹木、野菜、お花が咲き乱れているという、日本庭園と楽園を思わせる庭をご主人のディビットが最初に案内してくださいました。
購入するときちょっと高かったので、ご主人は躊躇され、どうやって支払いするの?といわれたそうですが、マリアさんは「そんなこと買ってから考えれば良い」と。事故当時14才のマリアさんはまだ少女。当時から肝っ玉母さんのような強い精神を持っていられたようです。
「対馬丸の悲劇」の著書には書かれていなかった、かなりきついお話もしてくださいました。
天皇両陛下にお会いになったときは、30分の予定時間が一時間半にも及び天皇陛下がお話を聞かれたそうです。
マリアさんの明るい性格も奇跡の生還を果たされた要因の一つだったんですね。
霊感が強く、私たちが訪問したときも、はじめの予定はCokoと私と二人に訪問する予定でしたが、4人になってしまったことも「今日は、二人でなく、四人来るよ!」と予知されていました。
満面の笑みで、黒目が黒曜石のように鋭く光り、皮膚には皺も無く、ピカピカ、小柄でとても82歳とは思われません。
マリアさんは
「海に投げ出されて筏で4日間漂流中、死んでいました。10日間は意志によって食べなくても良い。
その時は馬鹿になっている、生きてはいるけど、、、救助されて看板に寝かせられた人が、生きているか死んでいるか、軍人さんが足で蹴って、これはダメ、といって海に投げ入れた。
二度も別看板に寝かされ、点検されたときは、きつかった。
「死んだ後に仇を取る!また生きて帰ってくる、300年後に帰ってくると、心の中で叫んでいました」と、お話されていました。
世界屈指の深海底の海で遭遇した1944年8月22日、対馬丸の悲劇の日に生まれた私を、マリアさんは強く抱きしめてくださいました。
犠牲者の子供たちの無念を果たすべく、私の世界行脚は、これからも続くことを改たに致しました。」
琉球です。私たちは沖縄といってはいけないと教えられてきた。
沖縄は「ナワ」で縛って本土から連れてきたから沖縄というんだ。
私たちは700年前の松平家の子孫で宮城家と一緒になった。
縄文はその前のルーツです。
マリアさんにお会いできたことを光栄に思います。