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美術館

 塾を月・火と休みにして、私にしては年に1度か2度しかない3連休にした。その初日、一年前に若冲展に行ったのを思い出して、今年も美術館に行こうと柄にもないことを思った。新聞でモディリアーニ展が開かれているのを見たのを思い出して、行ってみようかと妻にお伺いを立てた。すると、「私は松坂屋美術館で開かれているトトロの絵のほうがいい」という返事だったので、どちらにしようと悩むよりも一度に両方行こうと、生まれて初めて美術館のはしごをしようと出かけてみた。モディリアーニ展は名古屋市美術館で開かれているので、松坂屋に車を止めて、先に松坂屋美術館を訪れてから歩いて名古屋市美術館まで行くことにした。
 

 まずは、「男鹿和雄展」。長くジブリ作品で背景を担当してきた「ジブリの絵職人」で、「トトロの森を描いた人」らしい。妻はえらく感心していたが、私は正直さほど面白くなかった。確かに細部まで丁寧に描かれていて、絵としては素晴らしい作品ばかりだ。ただ、あまりにきれい過ぎて、これだけたくさんの作品が並べられていると、きれいな風景を写した写真を見ているようで、途中から見る気が失せてしまった。楽しみにしていた妻には悪い気がしたが、私としてはわざわざ出向くまでもない展覧会かな、などと生意気な感想を持ってしまった。
 連休中だけに行楽地に出かける人が多くて、名古屋の中心は人出が少ないかなと思っていたが、かなりの人であふれていた。松坂屋美術館もアニメオタクのような若者の姿も多く見られて、彼らのコメントを漏れ聞くのも面白かった。同じように名古屋市美術館も大勢の人が訪れていた。モディリアーニは、昔よく聞いたハイ・ファイ・セットの
 ♪モディリアニの女、哀しい眼をして~♪
という歌いだしで始まる「美術館」という曲以来、ろくにその作品を見たことがないのに、私には妙に近しい画家であるように思ってきた。細面で鼻が長く描かれた独特の肖像画は、一目見ればモディリアーニの作品だと分かるものだが、その作品にじかに触れるのが、なぜか懐かしい人に会いに行くような思いで美術館に入った。


 モディリアーニのことなどほとんど知らなかった私だが、この展覧会でいくつかのことを知った。イタリアのトスカーナ地方の生まれであること、彫刻家を志していたこと、独特の画風はプリミティブ・アートの影響を受けたものであること、わずか36年の人生しか歩まなかったこと・・、かなり濃密な一生を駆け抜けた画家だったようだ。夭逝の詩人や画家に共通な破天荒な生活を送ったようだが、そんな自堕落さなど垣間見せない珠玉の作品を残すところに、豊かな天賦の才を感じずにはいられない。どだい才能が違うのだと、ダラダラ年月を重ねてきただけの己を恥ずかしく思ったりもするが、自分はこんな生き方しかできなかったのだから繰り言を重ねても仕方ない、などと開き直るしかない・・。


 いくつかの展示作品の中で私が一番いいと思ったのは、この「おさげ髪の少女」だ。現在、東京の国立博物館でもモディリアーニ展が開催されているようだが、いったいどうして展覧会が重なったりしたのだろう。私としては名古屋の展示作品だけでも十分堪能できたのだが、できればこんな事態は避けてほしかった・・。
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鳥獣戯画

 現在東京のサントリー美術館で、国宝「鳥獣戯画」(「鳥獣人物戯画絵巻」)が展示されている。鳥獣戯画といえば、日本のマンガ・アニメ文化、キャラクター文化の源流として有名だ。今回は、京都・栂尾の高山寺に所蔵される「鳥獣戯画」四巻を中心に今月16にまで展示されていると言うのだから、ぜひ見に行きたいとは思う。しかし、どうしたって東京までは出かけられないから、HPから借りてきた画像を貼り付けて満足することにする。

 

 擬人化された動物の姿が活写されていて、とても800年近くも前に描かれたものとは思えない。私が初めてこの絵を目にしたのは、中学校に入ってすぐに国語の副読本として与えられた「国文選」という教科書の表紙だった。最初に見たときはマンガが描かれてふざけた教科書だ、くらいにしか思わなかったが、授業で先生からその謂れを教えてもらって、いたく感じ入ったことを覚えている。それ以来私にとって大好きな絵となった。
 この「国文選」は古文・漢文、さらには明治時代の日本の古典から、今でも私の心の中に鮮明に残っている名文がいくつも載せられていた。その中に、徳富蘆花の「自然と人生」から次の一節が抜粋されていたように記憶している。

 家は十坪に過ぎず、庭はただ三坪。誰か言う、狭くしてかつ陋(ろう)なりと。家陋なりといえども、膝を容(い)るべく、庭狭きも碧空仰ぐべく、歩して永遠を思うに足る。
 神の月日はここにも照れば、四季も来たり見舞い、風雨、雪(せつ)、霰(さん)かわるがわる到りて興浅からず。蝶児来たりて舞い、蝉来たりて鳴き、小鳥来たりて遊び、秋蛩(しゅうきょう=こおろぎ)また吟ず。静かに観ずれば、宇宙の富はほとんど三坪の庭に溢るるを覚ゆるなり。  (「吾家の富(一)」)

 当時の私には難しい言葉が多くて理解するのに苦労したが、何度も読み返すうちに、日本語の豊かさ、美しさに圧倒されてしまった。この文章から受けた感銘がその後の私の人生を決定付けてしまったと言っても過言ではない。文学に目覚め、片っ端から本を読み始めたのもこの後からだった。夏目漱石を中心として明治の文章に深く馴染んだのも、この蘆花の文章の影響が大きかったからだろう。
 もうひとつ、この国分選の文章でいまだに覚えているものは、「群書類従」の編纂者として有名な塙保己一の逸話である。

 或夜弟子をあつめて、書物を教へし時、風にはかに吹きて、ともし火きえたり。
 保己一はそれとも知らず、話をつゞけたれば、弟子どもは
「先生、少しお待ち下さいませ。今、風であかりがきえました。」と言ひしに、保己一は笑ひて、
「さてさて、目あきといふものは不自由なものだ」と言ひたりとぞ。

 塙保己一は幼い頃に失明して盲目であった。それにも負けずに学問に励み、当代きっての学者となった、いわば偉人である。そんな彼の一面を伝えるエピソードは私の心に深く残った。障害を持ちながらも、それにひるむことなく、乗り越えた者が持つ気高さというようなものが表されているように思ったのだろうか。それとも、五体満足でありながら、全力を尽くさず不平不満を漏らしてしまいがちな自分に対する、戒めと捉えたのだろうか。

 先日私の塾に通っている、私の中学の後輩になる生徒に頼んで、国分選の教科書を見せてもらった。しかし、今では表紙が「鳥獣戯画」ではなく、南画のようなものに変わっていた。もう35年も前の話だから、教科書の表紙が変わっているのも当然だが、ちょっと寂しい気がした。
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フェルメール

 朽木ゆり子著「フェルメール全点踏破の旅」 (集英社新書ヴィジュアル版)を読みたくて書店を探したが見つからなかった。代わりに「謎解きフェルメール」(新潮社)があったので買ってみた。朽木ゆり子が小林頼子とともに著者となっているから、まあ、いいかという感じだった。
 私にとってフェルメールは「青いターバンの少女」の画家というイメージしかなかった。それほど強烈な印象を与えられた絵である。


 「真珠の耳飾の少女」とも呼ばれているようだ。黒い背景に浮かび上がった少女は横から呼びかけられたのだろうか、少し驚い振り向いたような表情をしている。大きな目が言問いたげであるが、軽く開かれた唇からなにか言葉が漏れているようだ。額を覆うターバンが彼女の頭部を隠しているため、より神秘的な印象を与え、きらりと光る真珠の耳飾が影で輪郭のはっきりしない耳の存在を思い出させる。何歳くらいの少女なのだろう。外国の少女の年齢は私にはよく分からないが、精一杯のお洒落をしてどことなく華やいだ心持ちがそこはかとなく表れているような気がする。
 などと、いい加減な感想を記してみたのだが、この絵に関する世界的な評価を知りたくてフェルメールに関する書を読みたいと思った。以前このブログで、ダ・ヴィンチの残した絵画のほぼ全点を載せてみたことがあったので、30数作しか残っていないと言われる、フェルメールの全点踏破というのにも興味があった。フェルメール個人についてはさほど興味は持っていなかったが、この「フェルメールの謎」を読んでからは、「謎の天才画家」と神秘化されてきたこの画家の実像が少しは分かったように思う。
 
 この画家はけっして時代と隔絶して、ひとりアトリエのなかで傑作を紡ぎだしていった孤高の天才画家なんかではなかったことがおわかりいただけたでしょう。そして彼もまた17世紀オランダに生きた、ひとりの時代の子であったこと、たゆまぬ実験をくりかえした――それゆえ傑作とは呼べない作品も生まれたわけですが、――画家だったことを、どうか覚えておいてください。(P.76)

 書中に載せられた彼の真作と著者が見做している32作品のうちで、「青いターバンの少女」の他に私の目を捉えたのは、同じように一人の女性のクローズアップを描いた「少女」という作品であった。


 こちらの少女のほうが幼い感じを受ける。広い額もあらわに微笑みかける少女の柔らかな表情が印象的だ。何か楽しいことを思いえがいているのだろうか、見ている私の頬まで思わず緩んでくる。
 この2枚の肖像画のうちどちらを好むかで、その人の心の中が分かるような気がすると言っては言いすぎだろうか。
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光琳

 先日自室の床に散乱していた書物を整理していたら、2005年10月号の「芸術新潮」が出てきた。「大特集 光琳の七不思議」と題して、尾形光琳の遺した業績をさまざまな角度から検証してある。その冒頭の一節が光琳の生涯を端的に表しているように思われるので、引用してみる。

 尾形光琳(1658~1716)はふしぎな画家です 都のぼんぼんで女たらしで借金まみれで、絵師の仕事もどこまで本気かわかりません けれどもそんな彼の絵が、日本絵画史を転回させた 大雅も応挙も若冲も、光琳がひらいた画境なくしてはありえなかった 天才という言葉ではかたづかない、ひとすじなわではいかない光琳の七色の謎に、多士済々の美術史家10人がせまる大特集です

 7つの謎と言われても、さほど光琳に詳しくない私にはよく分からないことも多かったが、2大傑作と言われる「燕子花図屏風」に関する「なぜかきつばただったのか」と、「紅白梅図屏風」に関する「金箔か金泥か?」という記事は読み応えがあった。
 そこで、この2つの屏風を探してきた。




 じっと見ていると、実物が見たくなってくる。「燕子花図屏風」は東京の根津美術館の所蔵であるが、現在根津美術館は改築中で2009年までは入場することができないそうだ。残念だ。HPにあった写真を貼ってみたのだが、なぜか背景の金色が鮮明ではない。片方しかないがこちらの方が実物に近いように思う。


 「紅白梅図屏風」は、熱海のMOA美術館が所蔵している。夏に若冲の「鳥獣花木図屏風」を見たときに感じたことだが、屏風というものは実際に立てられたものを鑑賞して初めてその素晴らしさが分かる。図録やTV画面で見ただけではその迫力は伝わってこない。熱海なら時間を作れば行けるかなと思ったが、この屏風は2月にしか展示されないのだそうだ。う~~ん、2月は受験期間でとても出かけられない、残念だ・・。
 しかし、MOA美術館の敷地内には、光琳自筆の間取り図に従って復元された「光琳屋敷」が建てられているのだそうだ。こちらはいつでも見学できそうなので、それを見に行くだけでも価値があるかもしれない。さらには、豊臣秀吉の「黄金の茶室」も復元されているそうなので、ますます興味が湧いてくる。成金趣味のこてこての茶室とバカにしていたけど、実際に復元されているなんて知らなかった。是非行ってみたい。
 いつ実現できるか分からないけれど、ひとつの目標としてがんばってみようか。
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クリムト

 2週間前、愛知県美術館の「若冲と江戸絵画展」に行ったとき、美術館の所蔵コレクションを集めた一室にも入場ができた。若冲の「鳥獣花木図屏風」に見ほれたばかりの私には西洋画を中心にした展示は、油絵の濃密さばかりが目について少々荷が重かった。だが、その中にあったクリムトの「人生は戦いなり(黄金の騎士)」という作品にはその題名の奇抜さとともに心を奪われた。


この題名は後から他人によって付けられたものらしい。じっと見ていると、描かれた騎士は馬に乗っているにしては脚を伸ばして立っているようで不自然だ。愛知県美術館のHPの作品解説を読んでも抽象的で何のことやらよく分からない。まあ、解説なんてあてにしないで自分の目で見て心で感じればいいのだろうが、それにしても変だ。
 家に戻って、書棚から「岩波世界の巨匠 クリムト」という画集を取り出して開いてみた。しかし、48枚ある図版の中に「黄金の騎士」は載っていなかった。ちょっと残念だったが、この機会にと思ってクリムトの絵画世界をじっくり味わってみた。
 
 「クリムトの絵は、聖画像(イコン)全盛の時代のように、金色を輝かせる。彼の絵は、洗練された形態と、敏感で音楽的なリズムを備えた、物質とは思えないような物質である。しかし、この物質ならざる物質である彼の絵が、ほっそりした女性らしい姿でやつれた顔という女性像の原型と、その性的本能(セクシュアリティ)にまつわる、ありとあらゆる表現を生み出したのだった。この独創、この「性的(エロティック)ということは、1900年前後のヨーロッパ芸術がもっとも公然と、そして大胆に打ち出した特色でもある。

 画集に記されたこの言葉を念頭において1枚1枚丹念に見ていくうちに、そこに描かれた女性の表情が実に甘美であることに気づいた。官能的ではあるが、どことなくはかなげで何かを訴えかけるような表情をした女性が多い。

  
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」 「ユディトⅠ」           「ダナエ」

中でも「接吻」と名づけられた絵が私は一番好きだ。(大きな絵はこちら)



男女が渾然一体となって愛し合う姿、女性のえもいわれぬ恍惚とした喜びの表情は私の心まで暖かくしてくれる。宇宙の時の流れに身を任せ、永遠の時空をさまよう二人の男女の黄金の思い、そんなものを感じとることができる。素晴らしい。
 


蛇足ながら、愛知県美術館のHPに「黄金の騎士」のぬり絵をダウンロードできるページがあったので試してみた。


すみません、クリムトさん・・・。
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若冲(2)

 愛知県美術館で開催中の「若冲と江戸絵画」展を観賞しに行ってきた。4月13日から6月10日までの開催なので、どんなことがあっても一度は行くつもりだった。ただ、大勢の人ごみの中で観賞するのは避けたいと思っていた。昨今の若冲ブームのためいつ行っても混んでいるだろうと思ってはいたが、かえってゴールデンウィーク中の方が遠出をする人が多くて案外とすいているのではないかと、淡い期待を抱いて出かけた。
 愛知県美術館は愛知県芸術文化センターの10階にある。私は初めて入ったのだが、建物の壮大さには驚かされた。1階から最上階の10階まで吹き抜けになっていて、エスカーレターでどんどん上に上っていくと、高い所の苦手な私は思わず足がすくんでしまった。何のためにこんな構造にしなけりゃいけないのか理解できないが、芸術センターだけに建物全体もオブジェと考えられているのかもしれない。(それでもよく分からないが) 

  

 10階に着いて驚いた、入場券売り場に列ができていない!あっさりと入場できてしまった。これにはいささか拍子抜けしてしまったが、私にとっては嬉しいことだ。これなら待ちに待った若冲とゆっくり対面できる。この展覧会は、魅力に満ちた江戸絵画の大コレクションとして世界的に知られている、カリフォルニアのプライスコレクションから選りスグリの109点が展示されている催しである。会場は、Ⅰ正統派絵画、Ⅱ京の画家 Ⅲエキセントリック Ⅳ江戸の画家 Ⅴ江戸琳派 の5つの部門に分けて展示されている。
 Ⅱの京の画家では、円山応挙の「懸崖飛泉図屏風」や長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」という逸品に目を奪われた。屏風に描かれた絵というのは実に雄大だ。応挙は多くを描いていないが故に空間的広がりを表現しているし、芦雪の牛と象は屏風いっぱいにその姿が描かれていることで、その途方もない大きさを表現している。この部門で他に印象に残ったのは、実に多くの虎の絵が描かれていることだ。いずれの絵も、今まさに動き出さんばかりの躍動する虎の姿が毛の一本一本まで丹念に描かれている。思わず身を乗り出して細部まで見てしまう。
 しかし、それもⅢの若冲の絵画が集められた部門に来たら忘れ去られてしまった。私の大嫌いな鶏の絵で有名な若冲ではあるが、展示されていた鶏の絵はさほど多くなかった。細部まで描ききった若冲の鶏が少なかったのには安心もしたが、やはり少々物足りなかった。だが、そんなことなど「鳥獣花木図屏風」の前ではどうでもいいことだった。私はただこの屏風を観るためだけにやって来たのだ。そんな思いからか、絵の前に立つと思わず目頭が熱くなってきた。もう、ただただじっと見つめるだけだった。なんて絵だ!どうしてこんな絵が描けるのだ・・!


若冲は1716年から1800年に生きた京の絵師だ。今から200年以上前に生きていた彼には、現代のように動物園で動物達を細かに観察することはできなかったであろう。この展覧会の副題(JAKUCHU AND THE AGE OF IMAGINATION)にもあるように、想像力を働かせながら描いたものであると考えるのが自然だろう。1マス約12mmのマス目を屏風1枚に付き43,000個も使ってモザイクのように描かれたこの絵の前に立てば、誰もが若冲の想像力に圧倒されてしまうことだろう。左隻には鳥が、右隻には動物が生き生きと描かれていて、自分がその中の一部になったような気さえ起こってくる。まるで曼荼羅のように一つの宇宙が表現されているかのようだ。私は見惚れるばかりで、しばらくその場を動くことができなかった。まさしく至福の時であった。

 この後Ⅳ・Ⅴには、鈴木其一、酒井抱一の絵なども展示されてはいたが、もう満足しつくした私にはさほどの感慨を催させはしなかった。見終えて、図録と上の写真に撮ったミニ屏風を買って会場を後にしたが、しばらくはこの満たされた気持ちが続くことだろう。

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全点制覇

 コンビニに行ったら、「ダ・ヴィンチコード」のDVDが11月3日に発売されると大きく宣伝されていた。「ええ!もう?」確か半年くらい前はまだ劇場で上映されていたと思うが、何て回転の速い世の中なんだろうと驚きもするしあきれたりもする。別にそういう流れに合わせたわけでもないが、布施英利「君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか」(ちくまプリマー新書)を読み終えた。「万能の天才」と称される、ダ・ヴィンチ展が名古屋で開かれるたびに出かけている私ではあるが、それほど彼のことを知っているわけではない。書店でこの題名を見つけたとき、「知ってはいるけどよく知らないな・・」とつい返事をしてしまい、「それなら教えてくれるか?」と読むことに決めた。
 著者は、ダ・ヴィンチの研究家でもある美術評論家である。彼は「光、空間、人物の表情、しぐさ、さらには時間、宇宙という絵画を越えたものまでが、ダ・ヴィンチの絵にはある」という。「最後の晩餐」や「モナリザ」という有名な絵を見れば彼の言うことは納得できる。しかし、私はそれ以外のダ・ヴィンチの絵というものをいったい何枚知っているのだろう?そう思って読んでいたら、ダ・ヴィンチの絵は10数点しかないのだそうだ。もっと数多くあると思っていた私には意外であったが、著者は世界中にあるダ・ヴィンチの絵をすべて美術館で見るという全点制覇をしたのだそうだ。フィレンツエ・ミラノ・パリ・ロンドン・ローマに行けばほぼ達成でき、さらに、ミュンヘン・クラクフ(ポーランド)・サンクトぺテルスブルク・ワシントンと回れば全点制覇が完成するのだそうだ。
 これを読んでなんだかうらやましくなった。若冲展が東京で開かれても見に行く時間が取れそうもない私などに、ダ・ヴィンチの全点制覇など夢のまた夢だが、だから余計にうらやましくて仕方がない。でも、何とかしてダ・ヴィンチの絵を全点見てみたくなった私は、ネット上にあるダ・ヴィンチの絵をここに集めて、ミニギャラリーくらいなら作れるじゃないかと思った。で、やってみた。

 

          『受胎告知』                           『キリストの洗礼』 
  
『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』      『聖母ブノワ』       『東方三博士の礼拝』

  
『聖ヒエロニムス』           『岩窟の聖母』(ルーブル)  『白貂を抱く貴婦人』

  
『音楽家の肖像』           『リッタの聖母』            『モナ・リザ』


                    『最後の晩餐』

  
『岩窟の聖母』         『聖アンナと聖母子』        『洗礼者ヨハネ』
(ナショナル・ギャラリー)

おお、完成!!すごい!!本当にギャラリーができた。うれしいなあ。毎日眺めていつかこれらの絵から感じることを書いてみたいと思う。
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若冲

 若冲がブームらしい。7月4日から東京国立博物館では「若冲と江戸絵画」展が開かれている。この展覧会は、9月23日からは京都国立近代美術館で開催され、さらに来年1月1日からは九州国立博物館、そして、やっと4月13日から愛知県美術館で開かれる。見たい、ぜひとも見たい。それなのに愛知県美術館に来るのが来年の4月とは、まったく名古屋は・・・それなら、京都まで見に行こうか、京都ならやりくりして時間を見つければ何とかなるかもしれない。考えてみよう。
 と、思っていたところに書店で雑誌「BRUTUS」が若冲の特集をしているのを見つけた。「若冲を見たか」というタイトルで、ほぼ全編若冲の記事であふれている。表紙には「21世紀のクリエイターに最も影響を与える江戸時代の天才画家」と最大級の賛辞が踊っている。

しかし、私にとっての若冲はなんと言っても鶏だ。もう随分昔になるが、初めて若冲の鶏を見たときは本当に驚いた、というより恐れおののいた。私はこのブログで何度も書いているように鶏が大嫌いだ。怖いといったほうが正しいかもしれない。とにかく鶏だけはどうにも受け付けない。生きてクックッと歩いているのを見るのもいやだし、殺されて鶏肉となったのを見るのも我慢できない。特に、鶏の脚が最高に気持ちが悪い、嘴も鶏冠も羽も羽をむしった後の皮のぶつぶつも・・・いやでたまらない、考えただけで寒気がする。そんな私にとって、若冲の絵はあまりに刺激的過ぎる。実を言えば鶏の姿など、何年も正視したことはない。だから若冲の絵は実物の鶏よりも私にとっては現実的なのだ。

 

今こうして雑誌から撮った写真を貼り付けただけでも、気が遠くなりそうだ。なんてすごい絵なんだろう。若冲は華やかな羽毛を持つ鶏数十羽を庭に飼って観察していたというが、その写実力の見事さには驚くばかりだ。来年5月12日から6月3日まで相国寺で開催される「若冲・動植綵絵展」で118年ぶりに里帰りが実現するという、動植綵絵30幅の中にも鶏が8幅描かれている。すべて、私には耐えられないほど見事な描きっぷりである。
 しかしこの30幅の絵をよく見ていると、水中の生物を描いたものが2幅ある。

 

この絵を見ていると、なんだか浦島太郎になって竜宮城にいるような気がしてくる。不思議な絵だが、心が弾んでくる。今から200年以上前にこんな絵を描いていた人がいるかと思うと楽しくなる。
 どんなことをしても見に行きたいなあ、若冲!

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竹久夢二

 竹久夢二といえば、目の大きい、哀愁に満ちた表情の「夢二式美人」と呼ばれる女性を描いた画家、「宵待草」を作詞した詩人として広く知られている。

    


「宵待草(よいまちぐさ)」

待てど 暮らせど
こぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよいは月も
出ぬそうな

(西條八十が加えた第二節は次のとおり)
暮れて 河原に
星一つ
宵待草の
花の露
更けては風も
泣くそうな

こんなことを書いてはみたが、私は竹久夢二のファンではない。「夢二式美人」というのは、妙に弱々しくて私が好きな絵ではない。ならば何故夢二を取り上げるのかということになるが、先日本屋で「夢二デザイン」という本を見つけ、ペラペラめくってみたところ今まで女性の姿を描いたものしか知らなかった私には、夢二の違った面を見つけることができて、思わず買ってきてしまったからである。帯にあるように、この本には、「本や楽譜の装幀、雑貨や挿画、仕事のプロセスなど156点」もの夢二のデザイン画が集められている。
 一枚一枚見ていくと、夢二が愛情をもって作品作りをしていたことが伝わってくる。見ていて飽きない。素晴らしい。私の「夢二観」が随分変ってしまった。

 

 


そういえば、私が大学に入った年のちょうど今頃の時期に、友人が銀閣寺近くの「夢二」という名前の、飲み屋に連れて行ってくれたことがあった。小汚い店で、がらんと殺風景な店の中に、くすんだ夢二の絵が何枚か掛けてあった。あれはいったいどんないわれをもつ店だったんだろう。私は、京都に住み始めてわずか1ヶ月ほどで、そうした店を知っているた友人に驚いたことしか今では覚えていない。確か中年の女性が店を切り盛りしていたようだったから、今ではもうないかもしれない。と言っても、どこにその店があったかというのさえ、判然としないのであるが・・・
 そんなことをふと思い出してしまった。

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ピカソの絵

 塾舎には、2枚のピカソの絵がかけてある。と言っても勿論複製画だが、1枚目は玄関を入って、階段を登りきった壁に「未来の鳩」という名のついた絵が、縦56cm、横76cmの額に納められて、かかっている。もう20年近く前に名古屋でピカソ展が開かれ、妻と二人で出かけた際に、一目でこの絵が気に入って、売り場で売られていたこの複製画を購入した。写真に収めたが、オリーブの葉をくわえた白い鳩が、翼を大きく広げ、刀や槍や銃の上を羽ばたいている。緑のオリーブの葉以外は黒い太い線で描かれた素描のように見えるが、鳩の背後に太陽が黄色で大きく描かれている。いらぬ装飾がないから余計に見る者の目をひく。
 初めてのデッサンは父のために描いた鳩の足だったと言われるほど、ピカソは若い頃から好んで鳩を描いてきたという。鳩といえば、現代日本ではフン害をまき散らす困り者と扱われることが多いが、昔から平和の象徴とされてきた。オリーブの葉も、平和と実りのシンボルとされている。鳩がオリーブをくわえている構図は、ノアの洪水が治まったときに陸地が再びあらわれたかどうかを調べるために箱舟から放れた鳩が、オリーブの小枝を持ち帰ったという「旧約聖書」創世記8章8~11節の記事に由来していると思われる。世界にこの故事が広まったのは、1949年パリ国際平和擁護会議でピカソのデザインによる鳩のポスターが作られてからだとも言われているようだ。
 この絵がピカソの、戦争のない平和な世界を願う気持ちを表したものであることは言うまでもないが、私には鳩の後ろに描かれた太陽が希望の象徴であるように思われる。日本人は太陽を赤く塗ることが多いが、西洋人は黄色く塗るという話を読んだことがある。太陽は全ての生命の源であり、その太陽を背にして飛ぶオリーブの葉をくわえた鳩が「武器よ、さらば」とばかりに銃器の上を飛んでいく、私はこの絵にピカソの平和への強い思いが見てとれるような気がする。「ゲルニカ」を持ち出すまでもなく、ピカソが生涯かけて世界平和を願っただろうことは、この絵が描かれたのが、91歳で亡くなった1973年の11年前1962年であったことからも分かる。
 もう1枚は、玄関を入ってすぐの壁にかけられた「ブーケ」の絵だ。こちらは鳩の絵を見た展覧会から10年ほど後に名古屋で開かれたピカソ展で見つけ、名だたる展示品よりもこの絵が一番気に入って、同じように額縁に入った複製画を買った。この絵は鳩の絵と違って、白地のキャンバスに鮮やかな色で描かれている。丸い花心の部分と花びらの部分が、黄・オレンジ・青・橙・ピンクなどの違う色で塗られた花が4本、束となって左右から伸びる2本の手によって握られている。じっと見つめると、手の平の向きや形から1人の人間の手ではないようだ。2人の人間が一本ずつ手を添えて花束を握り合っているように見える。手だけしか描かれていないので、男女どちらの手なのかは分からないが、ピカソはこの絵でいったい何を表現しようとしたのだろう。私には、美しいものを2人の人が支えあう姿を描くことによって、人間の連帯・協力の大切さを訴えようとしたように思われる。人間が長い時間をかけて築き上げてきた心の美しさを、友愛によって互いに支えあっていくことの大切さを描いたのだと、この絵を見るたびに感じてきた。
 私はこの2枚のピカソの絵を塾舎にかけることによって、生徒たちが何かを感じ取ってくれることを願っている。しかし、今までに「これは誰の絵なの?」と聞かれたことは余りない。美術とはまるでかけ離れた言動を常日頃からしている私を見ていては、生徒たちにそんな気は起こらないのかもしれない。
 
 今私がピカソに関して一番残念に思っていることは、昨年愛知万博開催期間中に、万博会場近くの愛知県陶磁器資料館で開催されていたピカソの陶芸展に行けなかったことだ。万博には最初から行くつもりはなかったが、ピカソの陶芸展だけは是非とも行こうと思っていた。それなのに、どうしても重い腰を上げることができなかった。本当に面倒くさがり屋はダメだ。もっとフットワークを軽くしなければいけない。残念なことをしてしまった。


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