毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
鶯
ここ数日、家の周りで一日中鶯が鳴いている。「ほーほけきょ」と鳴く声が響いてきてなかなか乙なものである。じっと聞いていると本当に「ほーほけきょ」と聞こえる。先入観からかもしれないがそう聞こえるのは確かだ。3月の中頃から鳴いているような気がするが、最初と比べるとずいぶんうまく鳴くようになった。何をするにしてもやっぱり反復練習が上達への道なのだ、などと教えられる。鶯はその鳴き声と比べると、姿かたちはあまり美しいものではないようだが、鳥嫌いの私は姿など見せず、鳴き声さえ聞かせてもらえれば十分だ。
そういえば「鶯の谷渡り」という言葉があるのを思い出した。辞典で調べると、
「鶯が谷から谷へと鳴きながら渡ること。また、その時の一種の鳴き声。枝から枝へ行き来する場合にもいう」
とあった。鳥って言うのは、枝でじっとしてさえずるものだと思っていた私には少々意外だった。「飛びながら鳴くのか・・」、とその姿を想像したら鶯が立派に思えてきた。飛ぶだけでもかなりの労力が要るだろうに、その上あんな鳴き声まで出しているなんて、小さな鳥にしてはすごいパワーだと思う。人間で言えば、走りながら大声を上げて歌うようなものだ、かなり大変ではないか。でも、本当にそんな芸当ができるのか、一度詳しく調べてみたい。
鶯の声
そういえば、「鴬張り」という廊下がある。私の出た中学・高校は浄土宗の学校であったため、何度か本山である京都の知恩院に連れて行かれた。その廊下を歩くたびに「キュッ、キュッ」と音がしたのを覚えている。私は大工の息子でありながら、どうしてそんな音がするんだろうと構造を調べようと思ったことはない。その辺からして私の生き方は間違っていたような気がする。でも、興味のもてないことにまで好奇心は及ばないのは仕方ないかもしれない。勉強を教えている身としては、何とか勉強に興味を持たせることが最優先だと、常に自戒しなければならない。
鴬張りの廊下
辞典をぼっーと眺めていたら、鶯という語を使った言葉がいくつも並べられている。それだけ人々の心に強い印象を与えてきた鳥だということなのだろう。「鶯色」というのは「鶯茶」とも言われ、「鶯の背の色に似て、褐色がかった黄緑色。江戸時代、女性に特に好まれた」と解説してある。どんな色なんだろう。鶯の写真を載せるのが一番いいだろうが、鳥の姿は見たくない。あったらいいなと思って、google で検索したらちゃんとあった。画面いっぱいに鶯色が広がる。
鶯色
本当に便利な世の中だ。大体のことはネットで検索できてしまう。それにしても、江戸時代の女性はこんな色の着物を好んで着たのだろうか。なんだか、くすんだ色で私にはあまりいい色だとは思えないが、時代時代によって好みの色というものは変化するだろうから、私が論評することではないのかもしれない。
と、ここまで書いてきて、そういえばホトトギスと鶯の関係は面白かったなあと、思い出した。ホトトギスは自分で子を育てないで、鶯の巣の中に卵を産んでかえさせる習性を持つという。それを「托卵」と呼ぶが、なんとも面白い習性だ。自分たちより、鶯の方が子育てがうまいと思っているのだろうか。
万葉集に「うぐいすの生卵(かひご)のなかにほととぎす独り生まれて 汝(な)が父に似ては鳴かず 汝が母に似ては鳴かず」とあることから、「鶯のかいごの中のホトトギス」という言い回しができ、「子でありながら子でない」という意味を表している、と辞典には書いてあった。奈良時代から、もう人々はホトトギスの「托卵」という習性を知っていたのだというのは驚きだ。どうやって見つけたものだろう。不思議だ。
そういえば「鶯の谷渡り」という言葉があるのを思い出した。辞典で調べると、
「鶯が谷から谷へと鳴きながら渡ること。また、その時の一種の鳴き声。枝から枝へ行き来する場合にもいう」
とあった。鳥って言うのは、枝でじっとしてさえずるものだと思っていた私には少々意外だった。「飛びながら鳴くのか・・」、とその姿を想像したら鶯が立派に思えてきた。飛ぶだけでもかなりの労力が要るだろうに、その上あんな鳴き声まで出しているなんて、小さな鳥にしてはすごいパワーだと思う。人間で言えば、走りながら大声を上げて歌うようなものだ、かなり大変ではないか。でも、本当にそんな芸当ができるのか、一度詳しく調べてみたい。
そういえば、「鴬張り」という廊下がある。私の出た中学・高校は浄土宗の学校であったため、何度か本山である京都の知恩院に連れて行かれた。その廊下を歩くたびに「キュッ、キュッ」と音がしたのを覚えている。私は大工の息子でありながら、どうしてそんな音がするんだろうと構造を調べようと思ったことはない。その辺からして私の生き方は間違っていたような気がする。でも、興味のもてないことにまで好奇心は及ばないのは仕方ないかもしれない。勉強を教えている身としては、何とか勉強に興味を持たせることが最優先だと、常に自戒しなければならない。
辞典をぼっーと眺めていたら、鶯という語を使った言葉がいくつも並べられている。それだけ人々の心に強い印象を与えてきた鳥だということなのだろう。「鶯色」というのは「鶯茶」とも言われ、「鶯の背の色に似て、褐色がかった黄緑色。江戸時代、女性に特に好まれた」と解説してある。どんな色なんだろう。鶯の写真を載せるのが一番いいだろうが、鳥の姿は見たくない。あったらいいなと思って、google で検索したらちゃんとあった。画面いっぱいに鶯色が広がる。
本当に便利な世の中だ。大体のことはネットで検索できてしまう。それにしても、江戸時代の女性はこんな色の着物を好んで着たのだろうか。なんだか、くすんだ色で私にはあまりいい色だとは思えないが、時代時代によって好みの色というものは変化するだろうから、私が論評することではないのかもしれない。
と、ここまで書いてきて、そういえばホトトギスと鶯の関係は面白かったなあと、思い出した。ホトトギスは自分で子を育てないで、鶯の巣の中に卵を産んでかえさせる習性を持つという。それを「托卵」と呼ぶが、なんとも面白い習性だ。自分たちより、鶯の方が子育てがうまいと思っているのだろうか。
万葉集に「うぐいすの生卵(かひご)のなかにほととぎす独り生まれて 汝(な)が父に似ては鳴かず 汝が母に似ては鳴かず」とあることから、「鶯のかいごの中のホトトギス」という言い回しができ、「子でありながら子でない」という意味を表している、と辞典には書いてあった。奈良時代から、もう人々はホトトギスの「托卵」という習性を知っていたのだというのは驚きだ。どうやって見つけたものだろう。不思議だ。
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